306.万全の準備
光陰矢のごとし。善でなくとも忙しければ、時間などあっという間に溶ける。
それも、到底間に合わぬと思える工程ならば、なおのこと。
各国の教会を通じ、選定者の正式なお披露目について交付されて早一か月。その間に受けた報告も、生じた問題も、今のところは想定通り。
儀式の前日となった王宮は特に慌ただしく、最終確認を行っている。
女王は言わずもがな、リヴィやイズタム、トゥメラ隊どころか城下の兵士まで休む間がなかっただろう。
その間、ペルデがしていたのは主に確認作業ばかりだ。
それだけ聞けば楽をしていたように聞こえるし、実際ペルデがしたのは指示された場所に立ち、思ったことを伝えるだけだ。それで疲れたなどと言えば反感を買うだろう。
だからこそ、ペルデは今も耐えているのだ。
だだじっと、人が直視してはならない光の元。己の最も恐れる光に貫かれながら。
黒とは、本来何者にも染められぬ色と言われていた。ゆえに、過去に精霊に見初められ、愛し子となった者も他の部位に兆候が現れたという。
本来なら、あの男と同じ薄い紫に染まるはずだった瞳は混ざり合い、深い紫へと変化している。
半年前。サリアナに連れられ、望まずに再会したあの日。この光に抱いた感情を思い出しながら、ゆっくりと鼻から息を吐く。
永遠にも思える時間は、実際にはほんの数秒のこと。
「これで、どうだろうか」
瞬き一つせず、紫はペルデを貫く。その瞳がどれだけ自信なく揺れていようと、その芯に宿る強さまで隠すことはできない。
だからこそ、ペルデは息を吐く。先ほどは気付かれぬように。今は、聞かせるために。
「全っ然、変わっていない」
「……ダメか」
まずはペルデが。それからディアンが深く息を吐き、脱力すると共に威圧感が増す。
とはいっても僅かなもの。意識しなければ区別が付かないのなら、そもそも比べる必要もないだろう。
「そう気を落とさないでください。少なくとも、始めた頃に比べれば上達してますよ」
「でも、到底人間の前は出られない」
「ペルデ」
慰めの言葉に横やりを入れれば、すかさず咎めるように名を呼ばれる。肩をすくめ苦笑する顔を見ても、ディアンにとっても想定していた通りのよう。
クスクスと笑う声が意識の中に戻り、眩しい世界に目を細め、もう一度吐いた息は気付かれないように小さく。
この一か月、ペルデが行っていたのは、まさしくコレだ。
儀式を行うと決める前から、ディアンは力を抑止するための訓練を受けていた。
フィリアに愛し子とされた者が、無意識に周囲を魅了することのないよう、教会から受けることを義務付けられているものと同じ。
ディアンに与えられた加護は異なるが、伴侶に見初められた者は総じて周囲を魅了する力を有することとなる。
正式に決まる前。加護を与えられてからの一か月で、既にその兆候が出ていたように。精霊が欲しがるほどの相手ならば、人間が惹かれるのは当然のこと。
必要ではあるが、儀式の話が出るまでは優先度は低く、それよりも勉学に時間を割いていたが……半年前から頑張っていたとしても、きっと結果は変わらなかっただろう。
誤解がないように言えば、それはディアンを貶しているからではない。
ペルデは理解している。それこそ、すぐそこで見守っている精霊よりも。この化け物がいかに強情で、努力家であるかを思い知っている。
彼と出会い、ここに至るまでの十数年。どれだけ周囲から見て異常であっても、決して諦めることのなかったように、彼はその手を緩めることはなかっただろう。
ペルデが見ていない間も、隙さえあれば訓練していたはず。
それこそ、その制御に関しては誰よりも優れた教師が、四六時中傍を離れないのだ。
最も恵まれた環境で、誰よりも最善を尽くした。
それでも抑えられていないのは彼の努力不足ではなく……そもそもの時間が足りていないのだ。
彼が、人として偽れるための準備の時間が。あまりにも。
久々に対面したグラナートの顔など、今思い出しても見物だと笑える。魔力を制御する道具を着けていたにも関わらず、しっかりと影響を受けていたのだ。
たった半年。それは十分に、彼がもう人ではないと示すだけの猶予を与えた。ほぼ毎日会っているペルデでさえ、時折思い知らされるのだ。
多少耐性があっても、久々に出会う人間が耐えられるものではない。これはもう、本人の努力の問題ではないのだ。
分かっていても諦めないあたりは、まだ人間の面影が残っていると言える。
……だが、結果はやはり、この通り。
「いや、ペルデの言う通り、まだグラナートが耐えられる段階にはなってないな」
庇う意図があってか。単にディアンに事実を告げる為か。見守っていたエルドが首を振れば、予想していた通りディアンが苦笑し、足元にゼニスが寄り添う。
「本来なら、幼少の頃から習得していくものです。それに、本来なら選定者は人目に出ない存在。それだけの加護を隠そうとしているのですから、難航するのは仕方ないこと」
「加減を知らない馬鹿のせいですから、落ち込む必要はありません」
「……言い方ってのがあるだろ、お前」
純粋なフォローはミヒェルダから。慰めるとみせかけて男を貶める発言は足元から。事実なだけに反論できず、されど文句を告げるエルドに対して苦笑するディアン。
バケモノだらけの光景に馴染んでしまったと、もう息を吐く気力はなく。クスクスと笑う声につられ、見やった泉はキラキラと輝いて眩しい。
高所に位置するは、首のもがれた男の石像と、初めに嫁いだというアピス様の姿。繋がれた手の間から伝う源流。本来なら人が入れない禁域。
今、ここにいるだけで影響を受けているだろう。ただ、それをペルデ自身が自覚していないだけだ。
漠然とした認識は、笑いあう声に与えられるもの。
それを承知の上で、ペルデはディアンの行く先を見届けたいと願い、女王は受け入れた。
ディアンにとっての半年に、どこまでの価値があったか。
……少なくとも、ペルデにとってはこの有様。
「ここでなら上手くコツが掴めると思ったんだけど……」
普段は自室か書庫での訓練。より魔力の満ちたこの部屋ならと、最後の希望をかけて来たものの、誰も期待はしていなかった。
改めて、他に方法がないのだと確かめられただけ収穫と言えるだろう。
「だからといって、聖水を引っ張り出す訳にもいかないからな。予定通り、明日は制御具と防壁で対応するか」
これ以上ここにいる必要はないと締められれば、ようやくディアンが立ち上がる。
儀式は明日。五日間とはいえ、ディアンが自由に出歩けるのも今日が最後。
万が一に備え、儀式の時間以外、ディアンは自室で待機することとなる。それはペルデとグラナートも同じで、同室でなくとも近くにいることとなるだろう。
むしろ儀式よりそちらのほうが憂鬱だとは顔には出さず、ひとまずは流れを整理する。
まずは明日、王宮から大聖堂に向かうまでの道で馬車に乗るのと、大聖堂で行われる洗礼でのお披露目。
そして、もう一つの山場は儀式期間の中日で行われる謁見式。
こちらも準備はつつがなく終了している。ペルデも、自身の振る舞いは頭に叩き込んだ。
ディアンが関わるのはこの二つ。これさえ乗り越えれば、儀式もとい、他国への牽制は無事に終わる。
あとは女王陛下と中立者が上手くやるだろう。
そう、明日には無音と雪に覆われた王宮前も、無数の人に埋め尽くされる。
既に城下では一目見ようと全国の民が集い、お祭り騒ぎとか。実際、儀式の期間中は屋台も出るし、祭りには違いない。
それをペルデが見に行くことはできずとも、耳に入る問題だけですでに腹一杯。これ以上の面倒はごめん被りたいところである。
献身的な信者、あるいは世紀的な瞬間をネタにしたい者たちは、すでに登山を始めていると報告が上がっている。
ペルデが使っている門は、魔力の影響を避けるために一般人には開放されない。一日、あるいはそれ以上の時間をかけてでも、彼らは見たいのだろう。
精霊に嫁ぐ存在を。その名誉を賜った奇跡の人間を。
……そして、招かざる者も等しく集うこととなる。
各国の来賓は、別館に設置させる門にて出迎え、そこから直接大聖堂へ向かわせるという話だ。
そして、その中にはアンティルダも例に漏れず。何が起きても対応できるよう、迎える順も最後にしたと聞いている。
彼らも聖国に来てまで下手なことはしないだろうが……それでも、なにかしらの狙いを持ってきているのなら、警戒するに越したことはない。
それがディアン自身であれ、聖国自体であれ、ここまで来たなら迎え撃つしかない。
加護を持たぬ国。閉ざされた場所。……奪われた地。
ディアンは彼の地について、どこまで知っているのか。
教会。否、精霊にとってかの国は意識に留める価値のある場所なのか。知る必要がないからこそ、知らぬままでいるのか。
それこそ自分には関係のないことだと、エルドと並んで部屋を出るディアンに続こうとして――違和感に、立ち止まる。
入る前と変わらないはずの空間。見張りの兵士も、ディアンを守る護衛も変わらないはずだ。
周囲に纏わり付く、クスクスと笑う声も同じのはずで……なのに、胸騒ぎがする。
気のせいでは片付けられない。明らかに異様な何か。
「……ペルデ?」
ミヒェルダに名を呼ばれ、それでも声は返せず。視線はその正体を突き止めようと忙しなく回る。
見逃してはならない。間違いなく何かがおかしいのに、誰も気付かない。それでも勘違いではなく、確かにここにあるもの。あってはいけないもの。
集まる視線。凝視する無数の瞳。どの光とも違う、どの感覚とも異なる何か。
胃の中を掻き混ぜられる。受け入れてはいけないモノ。知らないはずなのに、ペルデはこれを知っている。そう、思い知っている。
甲高いヒールの音。笑う声。ここにいるはずのない、あの悪魔の幻覚。
チラつく光の奥。蒼と白に統一された世界に混ざるはずのない灰色。光沢を浴びて煌めくそれは――サリアナが纏っていたローブの色。
もうここにあるはずのない、妖精の羽で作られた、禁忌の異物。
それを纏う影と目が合う。合って、しまった。
「――誰だっ!」





