305.歪な対話
見慣れた道、見慣れた場所。通い慣れた家の、少し手前。
窓から漏れる光に、込み上げた溜め息は胸の奥に。
話し合いのため、門を通ったのは普段よりも遅い時間。比例するように足取りも重くなれば、当然と言える。
そもそも、ペルデがあの男より早くここに来たことはなかった。王宮から通っているペルデと、今はこの街で従事している彼とでは当然。
それでも意識するのは毎回のこと。鞄に仕舞われている物がなんであれ、親子の会話を避けられるのなら、ペルデにとっては救いと言える。
だからこそ、いつもより気を楽に。違う緊張感と共に、扉を開ける。
軋む蝶番。部屋を照らす柔らかな光。部屋の中央に幅を取るテーブル。そこに座っていた赤が、弾かれたように自分を見上げる。
恐れのような、安堵のような。僅かな躊躇いと、緊張。複雑に折り混ざった柔らかな笑みと、細められた同色の瞳。
かつては焦がれ、恐れた炎の色。精霊から加護を与えられた特別な赤を……今は、なんと称するべきなのか。
「おかえり、ペルデ」
考える間もなく、低い声がペルデを呼ぶ。
温かな歓迎の、かつて欲しかったはずの柔らかな視線から目を逸らすのは、ごく自然な動作で。
「グラナート様」
鞄から取りだした書簡を手に、一歩、近づく。引き締まる顔の理由は、押された蝋印のせい。
父と呼ばぬのは、その延長線だと言わずとも理解できただろう。
「明日からこちらに来るよう、女王陛下からのご命令です」
「……まずは座りなさい」
対面を手で示され、書簡は中央に。椅子に腰掛ける頃には、封は切られて彼の手元に。
左から右へと赤が動くにつれ、眉間が狭まっていく。
幼い頃から、何度も盗み見た仕草。望んで見たのではなくとも、記憶に残るほどに刻まれた光景。そのどれとも重ならないのは、正面から対峙したのが初めてだから。
いつもこの位置にいたのは、アリアかミヒェルダ。無関係であったはずの、本当なら知りたくもなかったはずのペルデは今、ここに。
概ね把握したのか、狭まった眉間に指があてがわれる。そうしたところで覚えた頭痛を和らげることはできないだろう。
「……詳細を」
溜め息と、僅かな沈黙。顔を上げぬまま望まれるのは、文面では補完できない事情。
中に書かれている内容は憶測でしかない。だが、それがペルデから説明することを見越してなのは、想定通り。
選定者が実在するかの疑い。民の不安。そして、執り行われる儀式の狙い。
全てを説明すれば、長い沈黙の後に溜め息が一つ。グラナートもこの展開は望んでいなかったか。それとも、想定すらしていなかったのか。
何事もなく、あのバケモノが残り半年を無事に過ごせると、本当にそう信じていたのか。
「概ね理解した。だが、アンティルダとは不干渉の盟約が結ばれていたはず。なぜ女王陛下は承諾された?」
「その盟約に、今回の儀式は抵触しないと女王陛下は判断されました。不必要に接触することはなくとも、アンティルダ側には意見する権利は残っていると」
アンティルダと聖国に結ばれた誓約は、あくまでも聖国が関与しないことを証明するため。
そして、アンティルダも不必要に関わらないが、最低限の権利までは放棄していない。
ましてや、今回の儀式。選定者については人間界全てに関わること。それは、精霊の加護が届かぬかの地も例外ではない。
「狙いはともかく、不満を抱いている他国にも動きがある以上、選定者様の存在を示す必要があることは、中立者様との対談でも決定したこと」
「そもそもの狙いが選定者様である可能性もあるだろう!」
教会の従事者としては当然の思考。聖国と過去に諍いがあったとされるかの国が、単純に見て終わるだけとは考えていない。
それこそ、選定者を害し、間接的にでも精霊に危害をくわえないとは言いきれない。そうでなくとも、なにかしらのもめ事を起こすことは間違いないだろう。
だが、グラナートの語尾が荒くなる理由は、忠実な従事者としてではなく、個人の感情も含まれている。
命令と贖罪の為とはいえ、幼い頃から見守り続けてきた相手が、再び害されようとしている。
分かっていて罠にかかろうとする状況に焦りを抱くことも、怒りを感じることも、咎めることはできない。
その境遇を知り、辿るであろう末路を知り。苦しめ続けていると知りながらもいつでも助けられるよう、十二年間見守り続けてきた存在だ。
役目を果たした今でも、命令という枠を越えて大切に……それこそ、本当の息子のように。それ以上に、心身を注いできた存在。
ディアンにとっても、グラナートが傍にいることは心強いことだろう。理解している。今、全ての優先事項は選定者にあり、そこにペルデの私情が絡んではならない。
いや、絡む余地など最初からなかったか。
「全て想定内です、グラナート様。儀式が行われる期間、常にヴァール様が共に行動し、インビエルノ様も付き従うとのこと」
「……中立者ではなく?」
「精霊が自分の伴侶を示す機会に、偽る必要がありますか?」
「それこそ何を考えているっ!」
立ち上った赤を見上げる。かつては恐れた炎。どれだけ伝えようとしても越えられなかった分厚い壁。
よく似た状況だ。だが、伝えられないもどかしさも、信じてもらえない苦しさも、今のペルデには無縁なもの。そのうち、我に返った男がゆっくりと席に戻る。
「いや、すまない。…………儀式であれば、当然のことだ」
顔を覆い、深く息を吐き。その一連を見つめる心臓は凪いでいる。
ペルデの役目は、書簡の補完と、グラナートが任務を遂行するための感情の整理。
後者は直接命令されたことではないが、わざわざペルデに頼むということは、そうなのだろう。
戸惑いも、不満も、怒りも。全てをペルデの前に吐き出させ、関係の修復の礎にさせたかったのかもしれない。
真意はどうであれ、望まれたことはこれで全て。
「明日からは別館で寝泊まりを。儀式についてのより詳細な確認は、イズタム様にお尋ねください」
「ペルデ」
話は終わりだと席を立つペルデを、今度はグラナートが呼び止める。見上げる赤に宿るのは、従事者としてではない色。
「……お前は、儀式の期間中、何をするよう言われている?」
「選定者様のお側にいるよう申しつけられています。グラナート様も含め、私たちは万全を期すための保険だと」
いくら大切な御身とはいえ、誰でも近付けるわけではない。トゥメラ隊はともかく、万が一を想定して人間もそばにつけるべきと、女王は判断した。
それは、件のローブを警戒してのことだろう。ディアンはすでに、妖精の気配に馴染んでしまった。かといって普通の人間では選定者に影響されてしまう。
トゥメラ隊以外の愛し子もいるが、精霊の血が薄すぎると人間と変わらない。過去に魅了され、過ちを犯した例が存在する以上、多少の耐性が必要となる。
万が一にも、間違いがあってはいけない。だからこそ、有事に備えてペルデとグラナートがそばにいるように命令された。
詳しい話は明日以降、関係者が揃ってから詰めることとなる。
「そう、か。……その、ペルデ」
「まだ何か」
これ以上ここでできる話はないと遠回しに拒絶しても、赤はペルデを見上げたまま外れない。
「いや、先週はすまない。起きるのが遅れてしまって……」
謝罪に少しだけ眉が寄り、すぐにほぐれる。ただ、毎週そういう流れになっていただけだ。
共に起き、共に食事を取り、共に外に出て、また来週。必ずそうするよう約束した覚えは一度もない。
ゆえに謝る理由は微塵もないと、そう答えようものならまた面倒な問答が始まるだろう。
どう答えるのが一番早く終わるか、ペルデはもうすでに思い知っている。
「お疲れだったのでしょう、お気になさらず。明日は共に向かうよう命じられていますので」
「ペルデ」
固い声が名を呼ぶ。もう仕事の話ではないと念を押されたとて、ペルデが引く理由にはならない。
こうして見つめるだけで、赤が狼狽える。辛うじて目は逸れていないが、揺れる瞳になんの力があったのか。
「お前が、同じ道を選んでくれたことは、嬉しい。私が言えたことではないと分かっているが……無理はしないでほしい」
次に揺れたのはペルデの瞳だったのか、あるいは心臓だったのか。あまりにも真剣に言われたせいで、自分の表情を一瞬忘れる。
同じ道。……同じ、道。
それは教会従事者として。かの女王に仕える忠実な者として、この先の人生を捧げるという意味で間違いないだろう。
確かに、精霊を信仰する者としては破格の待遇を受けている。
王宮書庫管理者から直々に指導を受け、女王の覚えもめでたく、さらには選定者の世話役と言っても差し支えない。
男である以上、王宮で仕えることはできなくとも、将来は約束されたも同じ。街で嫉妬の目を向けられても当然のこと。
何より、選定者が精霊界に迎えられるまでは留まりたいと望んだのはペルデ自身だ。
よもやそれ以外の道を選ぶとは、ペルデに関わる誰も思っていない。それは、目の前にいる男も同じだと、顔は自然と苦笑に歪む。
それをどう捉えたか、グラナートの顔にようやく綻びが見えて……呆れる息は、喉の奥でつかえて出ないまま。
果たして、それはどこまで同じだと言えるのだろうか。
「明日から忙しくなるな。ああ、スープを温め直すから少し、」
「話を詰める過程で先に済ませました。私の分はお気になさらず」
「……そう、か」
「おやすみなさい」
「っ……ペルデ」
今度こそ話を終われると扉に向かい、取っ手に手をかけたところで、もう一度だけ名を呼ばれる。
振り返れば、弱々しい赤はそこに。その視線の意味も、考えているだろうことも、あの頃に知りたくともわからなかったことが、今はこんなにもたやすい。
「……いや、おやすみ。ゆっくり休むように」
返答は小さな会釈だけ。扉越しの溜め息は聞こえぬフリをして、短い付き合いだった自室と向き直る。
ベッドに机、顔を洗うための桶と、筆記用具。私物と言えるものはほとんどなく、明日の準備などしなくとも同じ。
むしろ持ってきた荷物の方が多いと、取り出したパンに噛みつきながらランプに炎を灯す。
本来ならば寝る時間。蓄積した疲労も馬鹿にはできない。だが、今は一分一秒が惜しいと、照らされる手元に並べるのは数冊の本。
古代語の資料と、書き込んだ自分のノート。それから、本来ならこの場にあってはいけない禁書まで。
勉強していたとはいえ、創世記時代の古代語には骨が折れた。隙を見つけて翻訳していたが、進捗は芳しくはない。
明日からグラナートと行動を共にするかもしれない。安全に読めるのは、今夜が最後と思うべきだ。
発覚すれば重罪。その罪を犯すだけの価値があるのか。一瞬の葛藤は、パンと共に喉の奥へ押し込む。
選ぶのはまだ先。そして、選ぶために、ペルデは知る必要がある。
手の甲で口を拭い、息を整えてから本を開く。文字を綴る音は時折途切れ、紙の捲る音に代わり、ペンは再び躍る。
やがてどちらの音も途切れ、ランプの光も尽き。朝の訪れを示す光が、机に伏して眠るペルデを照らす。
握られたままのペンのそば、最後に書かれた一文。
――ゆえに、アンティルダとは失われた地である、と。滲んでいたインク溜まりは、既に乾いていた。





