304.望まぬ会合
日中はなんとも思わない扉も、夜中になると重く感じるのは、その胸に抱えている感情と比例しているからだろう。
列を成す本棚、無数の本。違うのは、それらを照らす光がほとんどないことと、人の気配が明らかに少ないこと。
人の目では辿るに厳しい道だが、蝋燭を灯さないようになったのはいつの頃からだったか。
それに比例し、ペルデの周囲を光が付き纏うようになったのも……それこそ、いつからだったか。
ゆっくりと扉を閉め、人目を避けるように奥へ。誰も彼もが寝静まる頃、自室を抜け出したペルデの傍に、ミヒェルダの姿はない。
ペルデがこの王宮に滞在している間、確かに彼女が付き従うことになっている。だが、それはあくまでも日中だけ。
こんな夜中に書庫に来ているとは思ってもいないだろう。
無人とは言わないが、忍び込むには最適な時間帯。最も人が少なく、イズタムもこの時間は休んでいることも調べたとおり。
どれだけ足音を殺そうと、クスクスと笑う声は纏わりつく。
先導するように漂うものもいれば、翻弄するように回るもの。それから、ペルデの行為を咎めるように前から後ろへ流れていくものも。
その全てに意味がなく、何か伝えたいのでもない。ただそこにあるだけと切り捨てられないのは、まだペルデが人間としての感性をたもっているからだろう。
昼間の光景を思い返しながら、誰にも気付かれることなく目的の棚に辿り着く。
夜中に出歩くのは初めてではないが、明確に目的を持って抜け出したのは数える程度。それも、書庫に至ってはこれが初めてだろう。
鼓動がややうるさいのは、若干の罪悪感のせいだ。
夜中の外出。誰にも知られたくない行動。……そして、本来ならペルデが知るべきではない情報。
周囲を確かめ、もう一度人影がないと確認し、改めて棚を見上げる。納められている背表紙は、どれも各国についてのもの。
既に滅んだ国。今も歴史を刻む国。そして、今まさに滅び行く国。
だが、求めているのはこの無数の中から一冊しかないアンティルダの文字。
聖国の干渉できぬ地。精霊の加護の至らぬ果て。
交易も最低限でしかなく、かの国から取れる鉱石の希少価値は高い。サリアナの婚約に、その取引が絡んでいたのは表向きの話。実際は、精霊の力の発揮できぬ地へ、あの女を追放するため。
各国で起こっている愛し子の誘拐も、裏ではアンティルダが関わっている。ペルデが知り得ているのは、そこまで。
改めて列挙したところで、新たな情報は出ない。サリアナの件以外は、聖国に至るまでに知ったことばかりだ。
なぜ、アンティルダが聖国に執着しているのか。
なぜ、かの国との不干渉盟約が結ばれたか。
それを結んでおきながら、なぜ、儀式への参加が認められているのか。
昼間の様子からしても、女王が明かすことはないのだろう。
誰がどこまで知っているのかは些細なこと。ペルデにそれを知る権限はないし、知ったところで防衛には繋がらないのだ。ただの知識として取り入れることは、経験の代替にはならない。
いわば、これはペルデの知識欲を満たすだけの行為だ。教会にとって必要なことではない。今度こそ罰せられる可能性もある。
それでも目は文字を辿り、答えを求める。意味のない行為だ。婚約式がどうなろうともペルデにできることはない。
ディアン自身の安全は、あの精霊だけでなくトゥメラ隊が守り通すだろう。国民への対策も、今必死に考えている。
アンティルダとの確執についても、面倒ではあっても大事に至ることはないだろう。
何も問題はない。何も必要ではない。教会に従事する者として、ペルデの行いは全て無駄なこと。
だが、ペルデ自身にとって、これは、
「お前の探しものは、その棚にはないぞ」
……人とは、驚きすぎると声も出ないらしい。
見つかったことを認識し、されど振り返るまで声の主を特定できず。暗がりの中、見据える色素の薄い紫に、心臓がさらに痛みを訴える。
表情こそ見えない。見えたところで、この男の……この精霊の思考を、理解することはできなかっただろう。
「そこは選定者の目に付くからな。簡単な場所には置いていない」
うっすらと捉えた輪郭は、男のみ。そこに伴侶となる人間の姿もなければ、付き従う獣の姿もない。
ふわふわと浮かぶのは妖精の光ではなく、引き寄せた本の影。
「……その選定者様のそばにいなくて、よいのですか」
一時たりとも離れたくはないと、時には醜く喚き、時には女王相手に訴え。その大半は語ることなく、その目と態度で示して。
それほど執着しているのに、まだ精霊界に迎えようとしない矛盾に、女王だけでなくトゥメラ隊も何度呆れたことか。
期限が定まってからは口に出すことはなくとも、抱えている思いは同じだろう。
あと半年。あのバケモノを人と呼べるのは……あと、半年。
彼らがその期間に抱く想いを、ペルデが理解する必要は、それこそない。
「ゼニスがそばにいるからな。それに、添い寝は禁止されている」
影は男の手へ。払われた埃こそ見えなくとも、その動作だけで相当に古い物だと知る。中を開けば、途端に埃とカビの匂いに見舞われるだろう。
改めて、薄紫が向き直る。
人が本来見てはならぬ光。人ならざる力の鱗片。
だが、近づかれても足を引くことはなく、差し出された本を確かめるまで、顔は自然と合わさったまま。
賑やかな光に照らされる文字は……間違いなく、ペルデの探していたもの。
「どうした。探していたのはコレだろ」
見つめ、動かず。ただ沈黙するペルデに焦れたのか、エルドが問いかける。否、それは問いではなく、確認したのだろう。
求めていたものを取るか、取らないか。その判断を鈍らせている物が、何か。
この好機を逃せば、二度と手に入ることはない。それもペルデの知らぬ場所、届かぬ棚となれば、探す前から見えている結果。
ゆえに理解しても手が伸びないのは、この男を頼ることへのプライドではなく、それ以前の問題。
「……止めないのですか」
「なぜ?」
「これは、俺には許されていない知識のはず」
疑問に疑問が返される。分かりきったこと。確かめるまでもないこと。それでも、問いかけるだけの理由。
見上げた光。そこに恐れる濃さは覗かず、されど煌めくのは確かに人ではないという証。滲むのは汗と、これまでの生で得た直感。
「それでも知りたいからここに来たんだろ?」
深入りするべきではないと鳴る警鐘は、男が笑うことでより強まる。
耳鳴りはない。視界が白く染まることもない。叫び出したくなるような、喚かずにはいられなくなるような、抑えらない衝動に襲われることもない。
おかしな話だ。ペルデがバケモノと称するあの男より、目の前にいる存在の方が恐ろしいはずなのに、まだ向き合おうと思えるなんて。
「……精霊にとって、人間に知られることは不都合では」
「正確に言うなら、不特定多数の民に開示されることだ。どうせ奴らが来れば、お前は遅かれ早かれ知ることになる。余計な先入観を植えられる前に履修しておくことは悪いことじゃない」
動機はともかく、結果を考えればマシだろうと。男の指で捲られるページは形を保ったまま。綴られた文字も掠れていないのだろう。
求めているモノはここにあると、薄紫は再び重なり、無言で示す。
それでもまだ手は動かず、顔を反らすこともないまま。ペルデは問い続ける。
「仮にそうだとしても、あなたが俺に手を貸す理由にはならないでしょう」
「なぜ?」
「……俺がそれを知ったところで、あなたの伴侶に関係ないからです」
光が揺れる。クスクスと、シャラシャラと。煌めき、揺らめき、漂う。
人と精霊の間を保つもの。人間に固執し、この世界に残り続けた者。精霊たちに巻き込まれる弱者を哀れみ、愛したからこそ、己の愛し子を定められなかった精霊。
どれだけ人に似ていようと。それこそ、ディアンより人間じみていても、その根本が重なることはない。
こうして会話を交わせていても、目の前にいるのは精霊だ。人が崇め、恐れるべき存在。
半年前、ペルデの要望を受け入れたのだって、それがディアンのためになると判断したからだ。
今もこうして滞在を許すのも、あのバケモノの行動を見届けることを許されているのも、ペルデがディアンの害にならぬと判断されているから。
されど、この行為に意味はない。ペルデはかの国の知識をディアンに伝えることもなければ、そもそもアンティルダの者と接触する機会も与えられない。
益にも害にもならない、無意味な行動。単なる気まぐれ。ただの暇つぶし。そうでなければ説明できない行動。
光が目の前を横切り、眩しさのあまり目を細める。ペルデの視界を奪った可憐な声は、やがて肩にとまってクスクスと囁く。
まるで、この問いかけこそ無駄と嗤うように。
「……確かに」
無意識に光を追っていたことに気付き、戻した視線の先。クツ、と鳴る喉の理由が分からなければ、細まった瞳の理由は余計に。
「お前の言う通り、俺の唯一はディアンであり、それが変わることはない。ディアンを害する者がいれば、容赦なく制裁するだろう。お前や、お前が父と呼ぶ男も例外じゃない」
回りくどい言い回し。あえてそう表現したのに含まれた意味を、男の笑みが有耶無耶にする。
挑発ではなく、哀れみでもない。それも含めて見守るのだと。人間ではない存在が、笑う。
「俺は精霊であり、それが変わることもない。……だが、これぐらいは、中立者の範疇に収まるだろ」
「隠してあった本を無理矢理引き摺りだすのが?」
「子どもが読みたがっている本を、大人が渡して何が悪い?」
子ども扱いと憤ることはない。この存在にとって、人間は赤子のようなもの。
全てに手を差し出すわけではない。ほんの気まぐれ。興味を惹いた対価。施し。
その根本に精霊としての性があると男は言う。自身の本質。
与えられ、辿り着いた答えは一つの可能性。
「……あなたは、どこまで知っているんですか」
脈略の無い会話。踏み込えてはならぬ一線、その手前。薄紫の目が細まるのを、榛色は確かに捉えた。
知っている。勘付いている。ペルデがそれを選ぼうとしていることを。
「確かに俺はそれに聡いが、あくまでも予想だ。俺が明確に言えるのは、お前が苦悩し、葛藤し、生きようとしていることだろう。……その起因が俺に絡んでいることもな」
一瞬だけ、薄紫が揺らぐ。よぎるのは、自分のせいで生き方を狂わされた己の愛し子。それに巻き込んでしまった者。そして、これは身勝手な償いであると。
だからこそ、選択を差し出すのだと。その幅が狭められないように、ペルデがペルデ自身の意思で選ぶように。
謝罪は意味を成さず。されど、サリアナの処罰だけでは償いきれないと。
ならば、少なくとも。この精霊は自分の邪魔をすることはないのだろう。
ペルデが選択したその先、辿り着く最後を迎えるまでは。きっと。
「今回の儀式は、選定者を危険に晒してまで行う必要が?」
「私欲が絡んでいるのは否定しないが、あの発言も嘘じゃない。長い目で見れば、これも精霊の存在を示すためのものだ。教会で語り継ぐだけでは、人はすぐに忘れてしまう。……人間にとっても、精霊にとっても、必要なことだ」
それにと、付け加えられた最後。微かに揺らぐ薄紫に、映り込むのはいつかの後悔。
「間接的にとはいえ、あいつもアンティルダとは関わりがある。今でなければ晴らせないこともあるだろう。最終的にはあいつの判断に任せるが、危険に晒すつもりは毛頭ない」
人間相手に後れを取るはずがないという自信であれば、ペルデも傲慢と呆れただろう。
だが、人間だろうと容赦しない決意であれば、笑い事ではない。
精霊の伴侶と知って危害をくわえるなら、裁きは人ではなく精霊の手に委ねられるもの。
それこそ、あのバケモノが止めようとも容赦なく、その怒りのままに。
「そこまで聞いて、選定者様が儀式をしないと?」
「あいつなら、説得せずともそう選ぶだろうな。……だが、建前と本音ぐらいは見極められる」
本当に嫌がったなら。本当にしたくないと願ったなら、それに気付かないはずがないと。
そうだと選択した想いを、この精霊が気付かぬはずがないと。強まる薄紫に滲む汗。
だが、ああ。やはり、あの紫には到底及ばず。
「で? お前はどうする」
差し出されるのはペルデの選択だ。受け取るか、否か。選ぶか、選ばないか。
選択のための選択。これはその分岐の一端。その末路を覗き見る光は、ペルデの上から容赦なく降り注ぐ。
「とはいえ、これから得られる知識は十分とは言えない。なんなら俺から説明してもいいが……」
「いいえ」
否定は早く。だが、伸ばした手はそれよりも早く。触れた表紙、ザラつく埃の感触、纏わり付く不快感は指先から全身に巡り、喉から息となって吐き出される。
それこそ選ぶまでもないと、答えを手にする人間を、細まる薄紫は満足そうに見つめていた。





