303.的中
「選定者の告知……ですか?」
さて、悲しいかな。ペルデの予感は数日も経たぬうちに現実となった。
イズタムの講義が終わった後もディアンと顔を合わせるのは珍しくない。時には他の者に頼まれ、呼びに行くよう告げられることだってしばしば。
だが、それが女王の元となれば、そう多いことではない。
本来なら、この場にいてはならないペルデの席が用意されたのは、これもペルデが得た権利だからだ。
ディアンが精霊界に嫁ぐまでの一部始終を見届ける。その願いは確かに受理され、だからこそペルデはここにいる。
机の上座に座るのは、女王であるロディリア。背後に控えるのはトゥメラ隊隊長のリヴィ。
最も近い席に座ったディアンが問いかけるのを、すぐ隣にいる精霊が見つめている。
後ろに立つのは長身の白い影。それを正面から見るペルデを挟むのは、イズタムとミヒェルダの二人。
相応たる面子の誰もが、この眩しい光の中で平然としている。否、彼らにはそもそも見えていない。あるいは、見えているが意識もしていないのだろう。
これだけの騒音を。クスクスと笑い続ける声を。当たり前のように、受け止めている。
「それなら、半年前に済んだはずでは?」
「ああ。本来の流れとは異なるが、教会が認定した旨は全土に漏れなく伝わっている」
限られた者しかいないからか、女王の口調は公にしているものとは違い、砕けたもの。表情こそ布に遮られているが、寄せた眉は想像に容易い。
ディアンの言う通り、選定者が見つかったことは教会を通して全世界に広められた。
オルレーヌ聖国を象徴する蒼き旗は全ての教会に掲げられ、正統な『花嫁』が見つかったと御触れも出した。
ノースディア王族の処罰が決まった後にディアンの名も明かされ、英雄と呼ばれた者たちと、『花嫁』と持て囃されていた少女の末路は今も語られている。
精霊との盟約に背いた愚かな者として。それは、多少湾曲しても後世まで語り継がれていくのだろう。
ともかく、今やディアンの名を知らぬ者はいない。
正式な選定者。本当の『精霊の花嫁』。精霊と契る名誉を得られた特別な存在。
もうこの名を広める必要はないはずだというディアンの疑問は尤も。しかし、それは民に向けた最低限のもの。
心当たりが浮かばぬということは、その説明すらされていなかったのだと気付いても、口を挟む権利のないペルデは、その一連を見ているだけ。
「おこなったのは文章と言伝でのこと。本来、選定者は聖国に来てすぐ、その存在が虚偽でないことを示すための儀式を行います」
「下は国民から、上は各国の権力者に対し、教会が選定者を……つまりは、精霊が正式に選定したことを公開するための儀式です」
「ようするに、公衆の元で行われる婚約式みたいなもんだ」
イズタムの補足が当の精霊によって噛み砕かれ、そんな雰囲気ではないのだと向けられる視線は鋭いものに。
間違っていないだけに否定できないことも、鋭さが増す理由だろうか。
「今回のことで文句を言っているのは、その権力者連中か」
「……そうだ。選定の告知があって半年も姿を見せないのは、その選定こそがノースディアを略奪するための偽りだと抗議されている」
辛うじて呑み込んだ溜め息は、女王のプライドか。それとも、吐き尽くしてもはや出る息すらないのか。
支援は行えど、侵攻は行わず。精霊という絶対的な存在があるからこそ、聖国は今日までその地位を維持し、精霊信仰を広め続けてきた。
民にとっては心強くとも、国にとっては脅威にもなり得る存在。表面こそ友好的であっても、その裏ではそれぞれ抱えている思惑がある。
虎視眈々と聖国の陥落を狙う者にとって、選定者は聖国の弱点になると睨んだのだろう。
「各国に行っている支援でさえ、いろいろと言われているからな。最終的には全土を精霊の元に……つまりは、聖国の領土にするためと連中は考えている」
馬鹿馬鹿しいことだと嗤う声。だが、今回のノースディアの件に関しては否定できないだろう。
実際、旧ノースディア領は現在、聖国の預かりとなっている。
土地狙いの戦争を防ぐこともそうだが、門が閉ざされた土地は一部を除いて人が住める環境ではない。精霊王は百年と言ったが、それも定かではなく。
これ以上被害が出ないようにするための措置だが、その現状を見た者は少ない。
聖国の陰謀だと声があがれば、信仰する者が否定を求めて教会に押し寄せる。先日の手紙は、その一例に過ぎない。
「ただ騒ぐならまだしも、民にもその話を流している者がいる。今では連日教会に押し寄せ、本来行うべき支援が滞っている地区もあると報告も受けている」
「ですが……」
困惑する紫。深まる色合いに対し、ペルデに滲むのは不快感。
人と呼ぶにはあまりに強すぎる光。見慣れてきたペルデでさえこうなら、初見の人間はどうなるのか。
精霊と人間の間に産まれた女王が顔を隠されているのは、その姿に正気を失う者がいたから。
ディアンはまだ人間だ。正式な儀式も、血を交わしたわけでもない。だが、彼から感じる全てが、人とは違うとペルデに訴えかけている。
もし顔を隠したとて、突きつけられたに違いない。目の前にいるモノは、人の道から既に外れたのだと。
本来、選定者と呼ばれる者がここまで適応することはないという。そもそも、正式な選定を行う前から精霊がそばにいるなんて事例は、過去に一度もなかった。
たとえ人の世に紛れていても、その力を抑えていても。強い魔力を有する以上、影響を与えてしまう。
そばにいただけ。一緒に行動していただけ。それだけで、ディアンはまたバケモノに近づいた。
ここまで露骨になったのは精霊界から帰ってきた後だが、結論は変わらない。
今のディアンは、もはや精霊と同じ。姿を晒させるわけにはいかない。
本人もさすがに自覚があるのだろう。儀式を行えないという認識だけは、共通している。
「いや、確かに精霊にも非はあるが、これは人間側の問題だ。お前を危険に晒すつもりはない。本来なら耳に入れるつもりもなかったが、下手に伝わるぐらいならと思ってな」
クスクス、シャラシャラ。視線はディアンの肩。そこに座っているだろう光の正体に注がれる。
実際に囁いているのは別の存在だろう。空中を飛んでいるか、部屋から出て行ったか、それともペルデの手にじゃれつこうとしているものか。
トゥメラ隊も、イズタムも、この王宮にいる誰もが女王の命令に忠実だが、妖精である彼女たちには通用しない。
好き勝手に広げられた噂から誤解を招けば、それこそエルド――精霊の怒りを買うと判断したのだろう。
当の精霊に苛立ちは見えず、どこまでも冷静に見える。だが、それも結局はペルデの主観でしかない。
精霊の思惑を、人間ごときが理解できるはずもないのだから。
「今後も耳に入るかもしれんが、儀式を行うことはない。引き続き、お前はイズタムから――」
「いや、ロディリア。これはやっておいた方がいい」
ただの報告。今後も変わらないことの意思表示。わざわざ呼び出したのは、その意志が固いことを正式ではなくともエルドに示すため。
だというのに、その精霊から促されるとは。
「言ったとおり、これは人間側の問題。無駄に選定者を危険に晒す必要はない」
「それには同意できるが、選定が遅れたのは精霊側の非もある。ここで儀式を拒めば、それこそ侵略ととられて教会の根底が揺らぎかねん」
黙するのは否定できないからだ。精霊とはいえ、同時にエルドは中立者でもある。下手な誤魔化しは通用しない。
今でさえあの手紙の量だ。各国、各教会に届いている量はさらに多いことだろう。ペルデだって、次に街に行けば何か聞かれてもおかしくはない。
グラナートがすでに対応に追われている可能性だってある。
あるいは、表面化していないだけで、すでに不安は広がっているのか。……それも、時間の問題だろう。
「儀式を行えば、納得まではいかなくても、真実だと示すことはできる。民の混乱さえ抑えれば、他国連中は対処できるだろう」
「儀式の期間中は外部からの侵入を許すことになる。警備の万全は期すが、そもそもの要因を引き入れる理由はないと言っているんだ。王宮への侵入はないにしても、これ以上のリスクを負いたくはない」
「……あの、よろしいでしょうか」
このままでは言い争いに発展すると思ったか、渦中の人物が手を挙げる。
ディアン自身、自分の伴侶が言い出したことに困惑しているのだろう。その点だけは同意できるが、諫めるつもりはない様子。
「顔を隠せば僕とはわかりませんし、最初から代役では……」
「ダメだ」
「無理だな」
否定は同時に。食い気味に遮った精霊の顔は途端に険しいものに。不満と怒りを滲ませた薄紫に、背筋が冷たくなるのもペルデだけなのだろう。
直視しているディアンが怯んだのは、単にその勢いに驚いただけにすぎない。
「儀式には選定……いや、洗礼も含まれている。代役が宣言するなど、それこそ精霊への冒涜だ。特に、お前は既に精霊王の前でも誓っている。人間を騙すため、などという理屈は通用しない」
「そもそも、茶番であってもお前以外に誓わせるつもりはないし、誓うつもりはない」
人間にとっては催し物でも、当の精霊にとってはそうではないらしい。婚約式とたとえたのは、少なからず思うところがあったからこそ。
他の精霊だけでは足りず、人間の前でも確固たるものだと示したいのだ。
……もしや、それが真の目的かと。見つめる薄紫に確かな欲を覗き見て、これ以上考えるべきではないと振り払う。
理解することはできない。しようと思ってはいけない。
「とはいえ、今のディアンを晒せば、それこそ民に影響が出る」
「それこそ顔を隠せばいい。俺とゼニスも、儀式の期間中は常に共にいる」
「期間中はともかく、大聖堂での選定で顔を隠すわけには……まさか、精霊としてそばにいるつもりか?」
「本来はそういう儀式だ」
「馬鹿か! それこそ気を狂わせる者がでる!」
ロディリアが声を荒らげなければ、他の誰かが咎めていた。
ディアンでさえ他に影響を与えていると言っているのに、精霊自身がその姿を晒すなどあり得ない。
実際、かの精霊を直視したメリアは精神を病み、幼子のようになったという。
消息こそディアンには伏せられているが、回復の兆しがないことは報告が上がっている。
ラインハルトが発狂しなかったのは運が良かっただけだ。普通の人間なら、到底耐えられない。
それを理解してなお、そうするだけの理由があると、この男は本気で思っているのか。
「大聖堂には認識阻害と防衛魔術をかけるだろう? なら、精神に異常をきたすことはない」
「そう言う問題ではっ……!」
「ロディリア」
声は呼ぶ。変わらぬ口調、変わらぬ声量で。低くも高くもなく、されど、確かに彼女の名を。
甲高い耳鳴りを奥歯で噛み潰し、鈍い痛みに耐える。
魔術負荷に侵された身でなくとも、ソレは強すぎるものだ。
誰もが平然とし、苦痛を感じていなくとも。それはペルデがこの場に居る唯一の人間だからだ。
彼らにとっては呼吸をするのと同じ。異様なのは、ここにいるべきではないペルデだけ。
机の下、触れる感触に耳鳴りが薄れる。影響を受けないための防衛魔法は、隣に座っていたミヒェルダに施されたものだ。
視線は合わせず、彼女もまたペルデを見ていないだろう。その心遣いを無駄にしないよう、気付かれぬように息を整える。
「そこまでしなければ、奴らは納得しない」
「だからそれは……」
「焚きつけているのはアンティルダの連中だろう。お前があの国と関わりたくないことは分かっている。だが、奴らが絡んでいるならなおのこと、ディアンにとっても無関係ではない」
反応したのはペルデだけではなく、されど息を呑むのはディアンだけ。
アンティルダ。精霊の干渉を受けぬ唯一の国。他国との関わりはなく、唯一繋がりがあったノースディアも故国となった。
ペルデが知っているのは、アンティルダの第一王子が、あの悪魔の婚約者であったこと。
ノースディアの盟約違反に関与していたことも、各国から愛し子を誘拐していることも、ほぼ真実だということ。
そして、妖精たちを……聖国を欺くための道具として、大勢殺したということ。
未だにその罪を追及できないのは、アンティルダ側を責めるだけの証拠が足りないため。全ての罪はサリアナに被せられ、かの国の目的は未だに明かされず。
計画通りに行っていれば、ディアンは姫付きの騎士という名目で監禁されていただろう。
聖国の力の及ばぬ唯一の場所。互いに不干渉であれと、盟約を交わしたはずの。
そもそも、なぜその盟約を結ぶに至ったか。その理由は明かされたことはなく、誰も知ることはない。
知るとすれば、まさに今、反論できず口を閉ざした女王陛下と、彼女を見ている精霊だけ。
「以前、ノースディアがアンティルダの二の舞と仰っていましたが……それに関係が?」
「……ロディリア」
沈黙は続き、ディアンの疑問は答えられることはなく。ましてや、布に隠れた表情を読み取れることもなく。
「今を凌いだところで解決にはならない。民は教会の真実を求めている。このままディアンを精霊界に迎えれば、示す機会はなくなる。教会の信頼が揺らげば、それは精霊への疑念にも繋がるだろう。……これは中立者としての意見だが、お前も分かっているはずだ」
精霊ではなく、人に寄り添う者として。精霊界と人間界の均衡を保つ存在として必要なことだと訴える声に、己の欲も、怒りもない。
たとえその胸の内に何を抱えていようと、共に思う事があったとしても、それは避けられないことだと。
溜め息は長く、沈黙はさらに重く。
「……できるかぎり、策を練ろう」
やがて、緩く首が振られ。ようやく時間の終わりが告げられた。





