302.習慣の綻び
王宮から最も近い街とはいえ、実際の距離が短いわけではない。
オルレーヌ聖国女王の棲まわれる王宮は、この国で最も高い山の頂。徒歩で向かおうものなら、どれだけ急ごうとも一日で辿り着くことは不可能。
険しい山道では馬も途中までしか登れず、そもそも正式な訪問者は門で向かう。つまり、ペルデもその例に外れないということ。
グラナートの住居から、街の教会。そこから設置された門を通って、王宮に向かうのがペルデの習慣。週に一度の制約は、門を使用する際の負荷も関係している。
最初こそ、通ってすぐは吐き気や目眩に悩まされていたが、今では数秒で歩き出せるほど慣れてしまった。
サリアナに強要されて通った時に比べれば雲泥の差。
もう二度と味わいたくないと思っていたはずなのに、本当に何が起きるかわからないものだ。
いや、それを言うなら、あんなに離れたかったバケモノとほぼ毎日顔を合わせているなんて、半年前の自分が聞けば、耳を疑うか絶望したに違いない。
それこそ、あの日以上に。ペルデが自身の人生を理解した、あの時以上に。
朝からあんな夢を見たせいか、蓄積した疲れのせいか。余計な思考は、馴染んできた酩酊感によって戻される。
暫く頭が揺れる感覚に悩まされ、それからゆっくりと、目蓋を上げる。
白い壁に、白い床。これこそ、ペルデが見慣れてしまった場所。正式に訪問する者が必ず最初に訪れる部屋。
出迎えは訪問者によって変わるが、ペルデの場合はいつも同じ。
到着に気付いた蒼がひるがえれば、馴染み深い顔が向けられるところまで変わらない。
「おはよう、ペルデ。ゆっくり休めたかしら?」
ふわふわと柔らかな笑みも、おっとりとした口調も、それだけならノースディアにいた頃から変わりなく。
だが、纏うのはシスターの服ではなく、女王に仕える騎士、トゥメラ隊のみが許される蒼の鎧。
あの頃は見えなかった髪も、違和感がないと言えば嘘にはなる。
半年経ってもまだ薄れぬ印象は、当時の記憶が強いからこそ。
「おはよう、ミヒェルダ」
だが、交わす挨拶まで変わるものではない。
ノースディアで一緒に暮らしていた頃も。ペルデがこの王宮に居る間、傍につくように命令されてからも。
残りの期間――あのバケモノが精霊界に嫁ぐまで、あと半年となった今でも。
「グラナート様はお変わりなかったかしら?」
変わったとすれば、この一文が増えたぐらいだ。
王宮は限られた者のみが許される場所。本来なら選定者以外の男は存在できない。
グラナートはその規律に従い、基本的にあの街で従事している。
そして、ミヒェルダを含むトゥメラ隊の者は、女王の命令がない限り、この王宮から出ることはない。
長年任務を遂行していた仲だ。近況が気になるのは当然。
特にミヒェルダは、ノースディアにいた頃からペルデのことを気にかけ、グラナートとの仲を案じていた。
それも、ペルデにとっては負担になっていると、彼女はどこまで察しているのだろうか。
「いつも通りだった」
「……そう」
答えも、それに対する返事も変わらず。それでも繰り返されるのは、彼女もグラナートとの和解を期待しているのか。
ペルデの中では欠片すら存在しない可能性を。本来、あるべきだった光景を。
確かめることに意味はなく、部屋を出た二人を出迎えたのは、白と蒼に統一された廊下。その空間に浮かぶ小さな光たちを視界に入れぬように、書庫に向かうまでの道も慣れたもの。
精霊から各国に至るまで、全ての知識が揃った宝庫。その管理を任されるイズタムから直々に教育を受けられることは、従事者を目指す者にとってこれ以上ない名誉。
とはいえ、ペルデも特例と自覚しているため、他のトゥメラ隊や関係者と話すことはほとんどない。
すれ違う者に会釈し、ただ黙々と進む。その間も光はペルデの前を横切り、シャラシャラと耳慣れぬ音を纏わり付かせる。
クスクスと笑うような、面白がるような。到底心地いいとは言えぬ、本来なら聞こえてはならない音。
その正体をペルデは知っている。知っていながら目を背けているのは、見なければいないのと同じだから。
そう、見えてはいけない。だから認めてはいけないと、そんなペルデの心境を見透かすような音がやかましいせいで、ミヒェルダと話す気になれない。
もっとも、ペルデに話題はなく。彼女もまた任務を遂行しているだけ。
ここはノースディアにあった教会ではなく、彼女は本来の地位へ戻った。
そして、ペルデがここにいるのは、己の願いを叶えるため。互いにそれ以上の意味はないのだ。
とはいえ、イズタムから学べる機会は無駄ではない。
学園の環境はともかく、勉学自体は嫌いではなかったと、辿り着いた書庫の前で小さく息を吐く。
時間はいつもより早い。よぎるのは遅刻の心配ではなく、既にあの男がいるかどうか。
いなくとも、すぐにその顔を見るのにと。苦笑する顔は背後にいるミヒェルダに見えることはなく、掴んだノブはペルデの心境よりも軽く動く。
壁も、二階も、見渡す全てが本に埋め尽くされた空間。
その大半が精霊に関するもので、実際にペルデが読めるのは一部でも、一生かけても読みきれるとは思えない。
何もかもが規格外で、全てが、おかしい。初めからわかっていたはずなのに。
人の血が流れているといっても、その本質は非なる者が統べる国。
ここで人と呼べるのは。普通だと言えるのは、自分だけだと言うのに。
本の森を抜けた先、ようやく辿り着いた奥に並ぶのは、この書庫を管理する彼女たちの作業机だ。
最低限の物しか置かれていない、整然とした環境……のはずが、今日は様子が異なる。
なんてことはない紙の束だが、その量があまりにも多すぎる。報告書らしきものもあるが、その大半は手紙の類。
それを一つずつ開封し、中をあらためている彼女たちの表情に滲むのは疲れ。
到底、普段通りとは言えぬ光景。
「……おはようございます」
「あ――えぇ、おはようございます、ペルデ」
この距離まで、ペルデが来たことに気付かないほど集中していたのか。後ろに向けられた視線はミヒェルダにではなく、まだディアンが来ていないことを確かめたもの。
「ごめんなさい。もうそんな時間だったんですね」
回収されていく手紙に教会の証印が見えたところで、今の自分が見ていいものだったかと考える。
恐らくは、各地から寄せられた嘆願の類。グラナートも、ノースディアにいた時に同じ作業をしていたと思い返すも、あまりに膨大な量だ。
教会単体と、世界各地にある教会全てを纏める地とでは量が異なることぐらい分かっているが、それを加味しても異常なほど。
溜め込んでいたのでなければ、短期間で届けられたことになるが……心当たりとなる出来事は、それこそ半年前。声が届くにはあまりにも遅すぎる。
「選定者様は、今どこに?」
「……部屋を出たところのようです。到着にはまだかかるかと」
壁の中に流している聖水を通じ、報告を受けたイズタムの顔が緩んだのは、説明できる時間があることに対してか。
「ペルデ、今から話すことは選定者様には内密に」
「……ノースディアに関する声にしては、時期が遅いように思いますが」
精霊との盟約を破ったことで、一国が滅んだ事実。精霊に対する不安、故郷を奪われた者たちの怒り。それに煽られた他国からの批難。
半年経っても届いているなら納得できたが、ゆるく振られる首が示すのは否定。
「それも関係していますが、大半は選定者様に対するものです」
「というと?」
「本来の選定の流れは覚えていますか?」
思い出すまでもない。本来、選定者は一度目の洗礼を受けた後、聖国にて教育を施され、二度目の洗礼で彼の地に召される。
アケディアの伴侶となった者も例に漏れず、そうして任を果たしたという。
そして、その二度目の洗礼は国外問わず集まった者たちに見届けられる慣例だが、今回は特殊な事例であることから、お披露目はしないという話だったはず。
「関係者以外が選定者を目にすることができるのは、二度目の洗礼の儀と、選定者として認められてすぐ。それは精霊への目通りではなく、教会が正式に認めたと認知させるためのものです」
ここまではいいですねと、求められるまま頷けば、見つめる瞳が僅かに陰る。
「問題は、その慣習がここまで知られていることです」
「大体の内容は民にも伝わっているはずでは?」
この王宮で学ぶほど詳細ではないが、各地の教会では書籍もあるし、誤解のない程度には知ることができる。
ノースディアの教会でもそうだったし、ペルデも学んだ記憶がある。国民が知っていても、なんら不思議ではない。
「儀式の頻度や必要性についてはそうですが、一度目のお披露目に関してはほとんど記載していません。それなのに、問われた内容の大半がソレに関することばかり。民に語り継がれていたとしても、ここまでの量が集まるとは考えられません」
「漏洩できる存在がいないなら、噂が広まった結果では?」
確証のない噂でも、真実を捉えることはある。
教会に残された記述はもとい、個人の残した手記まではいくら教会でも把握していないだろう。精霊の伴侶となれば書き残されていても不思議ではない。
……だが、言ったペルデ自身も、ただの噂だけでこれだけの量が集まるとは思っていない。
ペルデが見ているのは集まったほんの一部だろう。実際は何倍か、何十倍か。こんな場所で、うっかり露見させてしまう程の量と考えれば納得もいく。
「ならば、その噂を流した者が必ずいます。狙いは定かではありませんが、害があることに変わりありません」
ただでさえ聖国は秘められた場所。最も精霊に近いとされる地であれば、善悪関係なく興味を抱く者は多い。
王宮への潜入。女王の尊顔を拝もうとする者は過去の例でも限りなく。中には、男性禁制というだけで邪な思いを抱く者も。
軽く考えただけでもろくな者はいない。
「特に今回は、メリア・エヴァンズの件もありました。民の関心は当然としても、今の選定者様をお披露目すれば、逆に民に影響が及びます。……今の彼は、既に適応しすぎていますから」
イズタムの吐息と、ペルデの溜め息に込める意味は重ならない。
前例のない精霊界への訪問。精霊王への謁見。あの二週間で、あの男はよりバケモノに近づいた。
人に似て違うもの。よく似た何か。人が近づいてはいけないと、そう理解できるだけの異物。
まだ隠そうとするだけ、隣にいる精獣や伴侶の方が人間じみている。
もうあれは人とは呼べない。だが、完全に精霊と同じとも言えない。
……それこそ、バケモノと呼べる存在。
「女王陛下も、この件に関しては静観せよとのご命令です。……ですが、教会に携わる者として知っておく必要はあります」
特にあなたはと。念を入れる視線に、同じ異形の鱗片を捉え、改めて彼女たちも人ではないと突きつけられる。
同じ姿。同じ形。……されど、その本質は、まだあのバケモノよりマシなもの。
この先も『候補者』に関わった者として。精霊の本質に近づいた者として、知っておくべきことだと。刻まれる言葉が響いていないことを、彼女はどこまで気づいているだろうか。
「暴動が起きる可能性は?」
「それについては、あなたが案ずる必要はありません。……いいですね、ペルデ」
「……はい」
柔らかな笑みは、説明が終わったのと同時に、かの存在が近づいたことを知らせるものだ。
照明の輝きが一層強くなる。
否、その光は後ろから流れ込むように。シャラシャラと、音を連れ立つようにして増えたもの。
扉が開き、光量が増える。無意識に止めた息に、なんの意味があったのか。
「おはようございます、イズタム」
肌が粟立つ。聞き慣れたはずの声に混ざる異質さが。もうそこから違うのだと突きつける何かが。それでも対峙しなければならぬ恐怖が。ペルデの心臓に爪を立てる。
ドクドクと脈打ち、ザァと冷えていく指先を握り、すぐにほどいたのは意地から。
この現状は、自分の目的のために選んだこと。だからこそ逃げないのだと、光に導かれるまま振り返り、眩しさに目を細める。
「――おはよう、ペルデ」
妖精に囲まれ、近づく一歩。笑うバケモノは、すぐそこに。
息を吐き、呼吸をする。思い出すのは、静観という無駄な選択。
きっと簡単に終わることはないと。確信じみた予感を胸底に沈めながら絞り出した声は、いつもと同じ響きだった。





