閑話⑦ある精霊の誤算
番外編①短編、本日でラストになります。
最後は、アケディアのお話です。
7/1から番外編②が始まりますので、そちらも楽しんでいただければ幸いです。
自身が他の精霊と違うことを、アケディアは理解していた。
他の精霊が人間を加護し、求めるのと違い、アケディアだけは己の中で完結することができる唯一であった。
それは、アケディアの司るものが植物……いわば精霊樹であり、妖精の精霊であったからだ。
ある精霊は人間を隣人と呼んでいたが、アケディアにとっては妖精こそが隣人。人間の称する家族のようで、しかし非なる物。
妖精は精霊の誕生と共に実り、産まれ、いつか朽ちてこの樹に戻り、また産まれる。植物の数だけ精霊は存在し、そして妖精も存在する。
遙か昔、まだ人間と共に暮らしていた頃は、妖精たちが己の種を広めることで精霊の存在を広める意図もあったが……いつ頃からかそれは薄れてしまった。
アケディアは人間と関わることはなかったし、妖精も精霊も口にすることはなかった。
公然の理由。暗黙の了承。言葉にされず、文字にも残されないものが、時代と共に朽ちるのは当然の摂理。
だが、理由を失ってからも、アケディアも妖精も変わることはなかった。
どれが誰の妖精であるか忘れてしまったし、もう特定することもできない。否、そもそもそれだけの労力を割ける魔力がないと言うべきか。
アケディアの有する魔力の大半は、この精霊樹の維持に費やされている。
人間界に魔力を流しているのは、水だけではなく植物も同じ。
精霊界から聖国を経由し、タラサの地へ流れる物だけでは枯渇する魔力を、アケディアも支えている。
否、アケディアにその意図はなくとも、妖精が種を広げる限りそうなると言うべきだろう。
いわば、妖精は精霊樹の根。アケディアそのものと言っても間違いではない。
アケディアに代わり巡り、回り、奪い、与える。ネロの水が一方的に与えるものであれば、妖精たちは魔力を整える役割も果たしている。
彼女たちにその意図はない。ただ、そこに在るだけでその役目を果たす。
人間界にも、そして精霊界にとっても必要な存在。
だが、精霊にとって妖精はそこに在って当然なもの。
いなくなったとて、何も思わない。一人見えなくなったとて、それが誰の妖精であるか、アケディアさえも気に留めないなら誰が気にするというのか。
好意的に接する者も、邪険に扱う者も根本は同じ。いなくなったとて、彼らは何も思うことはない。
気にされないのであれば、それはいないのと同じこと。
人間だって、草花を愛でることはあっても、崇めることも敬うこともない。
とうに教えは廃れ、教会もまた広めることはなく。ただ、彼女たちはそこにあるだけ。
稀に妖精に気付く人間もいるが、ほんの一握り。そして、やはり見えたところで意味のないこと。
アケディアの魔力の大半は精霊樹の維持に使われるが、人間たちの信仰がその糧となることはない。
罰を与えられた精霊から与えられたり奪ったり、時には譲与されたり。直接的な方法でなければ、満たされることはない。
だから、アケディアに愛し子は必要ないのだ。
慢性的な魔力不足による倦怠感。満たされきらぬ感覚。ただ無為に過ぎる時間を、眠ることができればそれでよかったのだ。
肉体派と武具派の言い争いが他の精霊を巻き込み、年単位で続いたあの時だって、ただ五月蠅くて眠れなかったから黙らせたかっただけのこと。
『選定』の権利だって、アケディアには必要なかったものだ。
愛し子を得たところで、何も変わらない。それは、人に魅入られすぎて意固地になったヴァールとは違い、己がそうであると理解していたからだ。
だから、誰でもよかったことは否定しない。何を誓われようと、何を宣言されようと、このまま変わることはないのだと。
アケディアの認識は正しく。……されど、誤りでもあった。
「あっ……あ、あなたのための服を! 作りたい!」
不思議なものだ。どうでもいいと思っていたはずなのに、今でもアケディアは詳細に思い出せる。
光を浴び、輝く大きな瞳。己を認識し、赤く染まる頬。緊張と興奮でろくに紡げぬ唇で、精一杯声を張り上げるその姿を。
ただ自分を。自分だけを見つめる、幼い命を。
「あなたの傍にいて、あなたがもっと綺麗になる服を作りたい! あなたのための、あなただけのために……っ……!」
アケディアの為。アケディアだけの、為。
当時、子どもは必死で己の願いを叫んだだけ。
それは本心であり、それ以外に目の前の存在を繋ぎ止める方法が思いつかなかったのもあるだろう。
だが、それは……彼が思っている以上に、アケディアの心を捉えたのだ。
数千年。アケディアは一度も誰かに興味を示されたことはなかった。そうされる必要も、そうする必要もなかったから。
そもそも、その概念自体がなかったのかもしれない。
そこにあるだけのモノ。あって当然のモノ。それを自ら求められることを、彼女は初めて知ったのだ。
精霊に会ったことで高揚し、妄言を吐いているだとしても、興味を引かれたことは否定しない。
それが、気付けば儀式の日を迎え。再会した子どもは青年へと成長し、それでも変わらず自分を慕い続けていた。
初夜自体も、面倒であったことは否定しない。
己の魔力を人間に注がねば精霊界で生きていくことはできないのだと理解していても、その頃は倦怠感と眠気の方が勝っていた。
だが、いざ事に及ぼうとして……鼻血を出されて気絶されるとは思ってもいなかった。
当時は女体を見慣れていないせいだと片付けたが、あの初々しい反応もまた、アケディアを惹きつけるものであったのか。
今であれば、あの頃から可愛らしかったと思い返すこともできるが、当時は終わらせることしか念頭になく、ブラキオラスたちから罰として譲与された魔力も尽きかけていた。
儀式を終え、眠り続けて何年経ったか定かではなく。
いつものように目覚め、大した期待もせずに向かったマティアの部屋で、彼女は驚きに包まれた。
与えた部屋を埋め尽くすほどの布。いくつも誂えられた自身の服と、懐ききった妖精たちの違う装い。
そして、自分の目覚めを、ずっと待っていた愛し子の姿。
そこでやっと、アケディアは自覚したのだ。
――自身もまた、精霊であったのだと。
◇ ◇ ◇
「で、処罰は無事に済んだのかな?」
紅茶を口に含んでからの質問は、確信犯と言うしかないだろう。
噴き出すには至らずとも、無防備な器官に入り込む液体にむせれば同じこと。
しばらくその様を眺めるシュラハトが背を叩くこともなければ、苦しんでいるマティアもそれを望んではいない。
ようやく落ち着き、睨み付ける銀に浮かぶのは羞恥か、苦痛の残滓か。……とは、耳まで熱を持った顔を見れば愚問である。
「……き、かないで、ちょうだい」
言葉こそ拒絶だが、その声量はあまりに小さい。叫ぶ気力さえもないのだろう。今も、その頭にはこの一ヶ月の行為が走馬灯のように駆け巡っているに違いない。
そう、きっかり一ヶ月。かの精霊から宣言を受けた通り、マティアは罰を受けきった。その全てを、気を失うことなく。
それなのに覚えていないのは、マティアの許容を遥かに超えていたからだ。
もっと正しく言うなら、思い出せないではなく、思い出せば今にも倒れてしまう自覚があるからこそ。
これも人間の防衛本能だろう。敬愛する精霊と番った事実は喜ばしいはずだが……崇高も度が過ぎれば、というもの。
まだまだ思い出すには生々しく、机に突っ伏さないだけマシだろう。
うなだれる頭を覗き込むように妖精たちが滑り込み、キャッキャと笑う様も、この数日のお決まりとなってしまっていた。
生娘ならまだしも、精霊界に迎えられて数百年経った者の反応とは到底思えない。
否、本人にその自覚がなかったからこそ、今回のことに至ったのだろうが。
「相当堪えたようだけど、本当に罰になってるのかな。これまでも定期的にしていたことだし……まぁ、自覚ができたのは間違いないか」
「っ……だ、から、なんで分かるのよ」
呻きながらも疑問はしっかりと口に。一ヶ月前も散々馬鹿にされてきたことだ。
あれだけ抱かれていたのになぜ知らないのかと。どうして分からなかったのかと。
マティアの意見としては、全部夢と思っていたから仕方ないと言いたい。
気付いたら目の前に全裸の、それも少女ではなく女性姿のアケディアが自分に迫っているなど。己の醜い願望としか思えなかったのだ。
アケディアが言うには、いつもそこで気絶するので、そのまま……ということらしいが、言われたあとも全く記憶に残っていない。
あんな、あんな凄まじいことを体験していたなら、絶対に途中で起きてしまいそうなのに。だからこそ、夢と思っていたのに。
本人にさえ自覚がないのに、どうして他の精霊たちがそれを知っているのか。
今回ではない。それ以前の、度々あったという、リベンジに対して。
「当たり前だろ? いくら伴侶になったからって、そう簡単に魔力の濃度が変わるはずがない。君の魔力が増えてるってことは、君がアケディアを抱いたってのと同義だよ。まぁ、君の場合は抱かれたって言った方が正しいだろうけど」
「そういうことは言わなくていいっ!」
「君から聞いたんだろ?」
そっちではない、なんて訂正もできない。どうしてこうも余計な言葉を付け加えるのか。
確かに抱いたとは到底言えぬ醜態であったし、抱かれたというのも語弊ではない。
己に乗り上げ、見つめ、そうして腰を――と、連鎖的に思い出そうとする頭を堪らず机に打ちつけても、そう簡単に忘れることはできやしない。
ティ、と甘く己の呼ぶ声も。あの透き通った白い瞳も。可愛いと、愛おしいと、言葉にせずとも語りかけるあの表情だって。
真っ赤な額をペチペチと叩かれ、耳元では奇行を案ずる妖精がシャラシャラと音を立てる。
うっかり潰していないのを確かめるだけの余裕は残っていたが、されどそこまで。
「贈り物に関しても、あんな大きいのもらっておいて気付かないとかさぁ……アケディアの言葉も足りなかったとはいえ、鈍すぎるにも程があるんじゃない?」
「わっ、わかるわけないでしょ! 普通に、個室だとっ……!」
「普通、あんな大きい部屋与えないって。ましてや精霊樹の内部でしょ? アケディアとしては持ってるのを流用したんだとしても、希少な魔力を割いたことには変わらない」
実際、来客用の空間なんてこんなに狭いじゃないかと示した部屋は、彼が言うほど狭くはないはずが、マティアに与えられた作業場と比べれば雲泥の差。
『選定』した精霊が、己の伴侶に送る贈り物。ディアンに嫉妬した要素の一つでもあるそれも、マティアはしっかりと与えられていた……のも、あの一ヶ月の後で知ったこと。
だが、首飾りや指輪ではなく、部屋そのものがそうであるなんて。知らされもせず、どうやって気付けたというのか。
あれも、誓いを果たすために与えられたものだと……アケディアには余分に使える魔力がないから仕方がないのだと、そう思っていたのに。
「アケディアに非もあっただろうけど、どっかで気付いてもよかったんじゃない? だろ、アケディア」
それは咎めではなく、同意を求めるもの。そして、それは呻くマティアではなく、近づいていたアケディアに対して。
いないと思っていた存在に背筋が伸び、同時に身体が強張る。無意識の逃走を防いだのは、太ももに触れる指。
普段の動きからは考えられないほど軽やかに乗り上げた身体は、マティアの膝へ収まる。俯いた視界いっぱいの白い髪。普段なら和やかさと幸福感に満たされる脳は、もはやその髪よりも真っ白に。
新しくあつらえた服を着てくれている、なんて喜びは、この一ヶ月で植え付けられた記憶に敵うことはなく。
「ティをいじめるだけなら帰って」
声だけは気怠げなまま。シュラハトを見上げる視線も眠たげ。
だが、その身がどれだけ潤っているかは、彼女が今起きているというだけでも理解できること。
本来の儀式の時は、終えるなり百年以上も眠り続けていたが、この様子では逆に百年以上起き続けるだろう。
それはマティアによって喜ばしいことか、あるいは新たな悩みの種か。
「いじめだなんて。君がちゃんと成すべき事をしたかの確認だよ。……でもまぁ、その様子ならもう間違いは起きないだろうし、アピスには大丈夫だって言っとくよ」
ヴァールへの報告……否、アピスに頼まれていなければ、わざわざこんな場所まで来なかったと。それ以外の目的がないことを示しながら席を立つ来客を、アケディアもマティアも見送ることはない。
早々に立ち去った後、残ったのは全身が茹であがったマティアと、己の愛し子を見上げるアケディアだけ。
「ティ」
いつもと同じ声色。いつもと同じ呼び声。一ヶ月間囁かれ続けたものと、同じ。
だからこそ、何の変哲もないソレに肩が跳ね、心臓は早鐘を打つ。
羞恥に埋め尽くされる頭の中、必死に考えないようにしている記憶は、頬に手を添えられるだけで簡単に引き摺り出されるもの。
「ティ、私を呼んでくれないの?」
「っ……あ、けでぃ、あ、さま、」
あの時はあんなにも呼んでくれたのにと、白い瞳が弧を描く。はく、と開いた唇に通ったのは息ではなく、辛うじて絞り出せた己の名前。
そうやって足掻く愛し子に、アケディアの笑みはますます深まる。
本当に、最初はただ興味を抱いただけだった。適当に選んだと言われれば否定もできない。
されど、今こうしてアケディアの心を捉えたのは、間違いなくマティアがもたらした結果。
アケディアの為に人生を捧げ、妖精たちのために精霊王と言い争い毒まで喰らった。
精霊にとって、そこにあって当然なモノたちのために、彼は着飾るという喜びを与えてくれた。
意味のない行為だと呆れられながらも、彼はずっと尽くしてくれたのだ。
アケディアが眠り続けている間も、アケディアが目覚めてからも。彼はずっと、与え続けてくれた。
何年も、何百年も。そして、これから先も。
アケディアに愛し子は必要ない。信仰がなくとも、アケディアは存在し続けられる特別な精霊。
されど、ここまで与えられて。求められて喜ばない精霊など存在するだろうか。
ただ自分だけを。他の誰でもない、自分だけを求め続ける彼に、どうして無関心でいられるだろう。
確かにアケディアにも慢心していた部分もある。言葉にせずとも伝わっていると思い込んでいたことは反省しなければならない。
「可愛い」
だからこそ、アケディアは囁く。伝わるように。もう二度と勘違いせぬように。
あの一ヶ月ではまだ到底足りぬのだと、そう刻みつけるように。
「可愛い。可愛いティ。……私の、マティア」
いよいよ耐えきれず、泣き出してしまった愛し子に、より満たされる感覚にクスクスと笑う声がこだまする。
そう。結局のところ、アケディアも正しく、精霊であったのだ。





