閑話⑤今の彼らの想い
今日は、番外編①が終わったあとの、エルドとディアンのお話です。
紙を捲る音が止めば、包み込むのは完全な静寂だった。
最小限の明かりはエルドの手元。積み上げられた本を照らす程度で、それ以外は何も見えない。
書庫の奥。完全に無人ではないが、耳を澄ませたところで聞こえる音はなく。そもそも、エルド自身が気に留めていない。
溜め息は出ず、されど指も進まず。眺める紙面に望んだ情報がないと確かめたのは、これで何度目か。
ディアンが起きるまでの時間潰し。人間に伝わっている精霊記に訂正が必要か、事例の関連性が正しいかの確認作業。
顔を出す度に行っていたことだし、エルドにとっては慣れたものだが、今は書庫の本を片っ端から眺め、戻すなんて無為な作業ばかり。
エルドは最初に作られた分身、その三人目。どの精霊よりも古くから存在するとはいえ、全ての精霊を思い出せるわけではない。
中には人間からの信仰を失い、存在を失った精霊も数多くいる。それらを個人で覚えているのは、特別仲が良かった者ぐらいだろう。
人間だって同じこと。ふとした瞬間に思い出すことはあっても、切っ掛けがなければ忘れたまま。
そのために聖国では全ての精霊を記録しているが、数が多いからこそ埋もれるのも事実。
一人ずつ確かめるなど、藁山から針を探し出すようなもの。無駄な作業と鼻で笑われても否定はできない。
現状、調べられるのはこの方法だけ。無駄と分かっていてもやらなければならない。
……いいや、違う。少しでも考える時間を無くしたいだけだ。
そうでなければ、気が狂いそうになると自覚しているから。
精霊界に戻ってから、まだ一週間。ディアンの容体は落ち着き、イシュタムの授業もじきに再開すると聞いた。
後遺症もなく、不調を隠している様子もない。だが、変化は確実に起きている。
『選定』を受けた愛し子でも、その身は人間。あれだけの魔力を受けて影響がない方がおかしい。
ある程度順応できたからディアンは生き延びることができた。だが、それは同時に彼が人の道から遠ざかったということ。
もう一年も経たぬうちに精霊と変わらぬ身になると分かっているのに、それを惜しんでしまう自分がいる。
その日を待ち望んでいるのと同じく、寂しいと感じてしまう。折り合いがつかぬ胸の内は、きっとその日を迎えたって落ち着くことはないのだろう。
今だってそうだ。ディアンを失いかけたのに、最善が分かっているのに、選ぶことができない。
彼のことを思えば、すぐにでも娶るべきだ。
エルドの伴侶として確立させれば、アプリストスも、件のヴェールの精霊も手を出すことはできない。
魔力過多でディアンを苦しめることだってなく、彼を無為に苦しめることだって。
全ての問題が解決する。言われずとも最善だと理解している。ディアンを愛してるのなら、すぐにでも娶るべきなのだと。
……わかっているのに、精霊としての自我を抑えられない。
エルドは間違いなくディアンを娶ることを望んでいる。そうして人でなくなったとしても愛し続けることを、共に生きることを願っている。
それでも、進むことはできても戻ることはできないのだ。
人間でいられる期間は、もう一年もない。
長くとも短い一瞬。その一時を、エルドの決断で失わせてしまうことを。それがディアンの枷になることを……エルドは、恐れている。
ディアンの選択を望むと同時に、後悔してほしくないと願っている。
だが、ディアンはそう思うことすら捻じ伏せてしまうだろう。共にいられるならそれでいいのだと。そう笑って、想いを殺してしまう。
その強さに惹かれ、魅入られ。……だが、同じくらいに不安になる。
ディアンはあまりに強すぎる。
常人を越えた忍耐。貫く意志の強さ。精霊が惹きつけられるだけの輝きは、他の者から見ればまさしくバケモノと称せるほどに異様なもの。
されど、彼は人だ。人なのだ。
どれだけ強くとも、愛おしくとも、眩しく輝こうとも……まだ、人間。
エルドは知っている。強固な殻の内がいかに脆く、柔いものか。その心が強ければ強いほど、本当に砕かれてしまった時に、どうなってしまうのか。
大丈夫だと笑う度に、耐えられると見つめられる度に、失う恐怖が増してく。
彼は限界を知らぬまま越えて、耐えて、耐え続けて。何度も立ち上がり続けてきた。
だが、もし本当に耐えられなくなったら。立ち上がれぬほどに砕かれてしまったら。
その時に、もし傍にいなければ。
……考えることは、こんなにも、恐ろしい。
否、そばにいたとて、なにができた?
謁見の時も、ディアンが連れ回されていた時も、自分は何もできなかった。
アプリストスの報復さえまともにできず。今もこうして、ディアンに害を与えようとした精霊を特定することさえできず、後悔ばかり。
幸せにしたいのに、苦しめてばかりだ。いっそ手放すことができればと、そう思う度に耐えがたい喪失感に襲われる。
離れるなんて、もうできない。いなかった頃になんて戻れない。
今でさえ失うことをこんなにも恐れているのに。自ら手放すなんて、それこそ……選べるはずがない。
「……はぁ」
漏れた息は小さくとも、静寂には嫌に響く。目頭を揉み込んだところで、思考は堂々巡り。
……タラサは。かつて、友と呼んだ彼は、今もこの喪失感に耐えているのだろう。
二度と戻らぬ愛し子を。己の知らぬ間に穢され、奪われ、そして……命を絶ってしまった、唯一を。
死ぬこともできず、消えることもままならず。彼女の骸があったあの地にずっと留まり続ける。
彼も魂の輪廻を待っているのか。カルーフと同じように、失った愛し子の魂が再び宿ることを。
その形を変えようと変わらぬ本質を。されど、再び番うことはないのだろう。
エルドだって同じだ。自らの過ちで失ってしまったディアンを、どうして迎えられるだろう。
今度こそ幸せになってほしい。だが、それを見ることは……それは、タラサであろうと耐えられないのだろう。
だからこそ、彼はずっとあの場所で。己の涙の底深く、彼女と過ごしたあの場所で。その時を留めたまま、朽ちるのを待っているのか。
本人がどれだけそう望もうとも、人が彼を崇め、祈る限り望みは叶わない。
彼の悲しみはあまりに深く、強く。……故に、誰からも忘れられることはなくなった。
裏切り者と、叫ぶ声が木霊する。お前だけは違うと信じていたと。分かってくれると信じていたのにと。
罵る声が。泣き叫ぶ音が鳴り止まない。
自分から愛し子を奪った人々を憎いと。それを伴侶として迎える同胞も見たくないと。
お前だけはその辛さを、苦しさを理解してくれるはずだと。そう信じていたのに。
――かつての友の嘆きは足音で遮られ、意識が戻る。
微かに響くのは、薄い靴底の音。耳慣れたリズム。そうでなくとも、その相手をエルドは知っている。
間違えるはずがない。どこに紛れていようと、なにも見えずとも。彼の気配だけは、絶対に。
「……ディアン?」
呼びかけたのは確認のためではない。その姿がいつまでも覗かなかったことに対して。
動揺する気配と、乱れる呼吸。数拍おいて出てきたのは、何よりも愛おしい存在。
暗闇の中でも鮮明に映る表情は、お世辞にも良いとは言えず。よぎる不安を悟られぬよう、口は笑みを浮かべて問いかける。
「こんな時間にどうした?」
「あ……い、いえ。少し目が醒めてしまったので、散歩を……」
月はようやく真上を登った頃。起きるにはまだ早くとも、夜更かしをするような時間でもない。
それはディアン自身も分かっているだろう。それに……ディアンが好んで出向くのは書庫ではなく、聖水の泉が多い。
散歩というのは嘘ではない。だが、それ以外の理由もあるだろうと、本棚の裏に隠れたままのもう一人へと意識を移す。
『何があった?』
『うなされていたので起こしました。夢見が悪かったようです』
案の定、付き添っていたゼニスからの報告はエルドの耳だけに届く。
悪夢を見ただけなら、言葉を濁すことはない。……ならば、隠したいだけの理由があるのだ。
エルドが気にすると思っているような。そう、それこそ、先の精霊界での出来事に絡むこと。
身体の調子は戻り、日常を取り戻し。それでも、その傷はまだ深く残ったまま。
「仕事中、ですよね」
「いや、お前が起きるまでの暇つぶしだ。大した内容じゃない」
事実、これはディアンが起きるまでの時間潰し。優先順位は遙かに低く、そうでなくとも会いに来た恋人を放置する程の価値はない。
本を閉じ、ソファーにもたれる。そうして横の空間を軽く叩くも、ディアンが動く気配はない。
僅かに揺れる紫は、エルドに気を使わせたという困惑からくるもの。こうなると、単純に否定しただけでは納得しないだろう。
以前よりかは慣れてはくれたが、肝心なところで甘えるのが下手なのは変わらない。
呆れのような、愛おしさのような。そんな複雑な感情のまま笑えば、揺れる紫にますます衝動が込み上げる。
「前は自分から飛び込んできてくれたのになぁ」
「あ、あれは色々あったからでっ! それに、あの時とは状況が……」
「悪い夢を見たってのは同じだろ」
苦し紛れも言い訳も、核心を突けばそこまで。交差する視線はディアンの方から下ろされ、俯く顔に影が差す。
「……すみません。でも、隠すつもりではなくて……よく、思い出せなくて」
遅くなる口調は、誤解なく伝えようとする努力から。説明したくなかったのではなく、できなかったのだと。自身の腕を掴む手に力が入るところまで、薄紫は捉えたまま。
「怖かったことは覚えているのに。……どうして、そう思ったのか」
白く変色する指先。握るにはあまりに遠すぎる距離を、エルドから詰めるのは容易いこと。
だが、一方的に与えるだけでは駄目なのだと。動くのは足ではなく、隣を示していた手。
「ディアン」
ソファーから、膝へ。叩き示した場所に、やはり戸惑う紫をじっと見つめる。
揺れる光。その煌めきに胸を締めつけられて、愛おしくて。だからこそ、この手を取ってほしいと、誘う声は柔らかく。
「おいで。……いや、ここに来てくれないか」
頼っていいのではなく、頼られたいのだと。望んでいるのは自分の方なのだと、伝え直した言葉に狭まる眉。
どっちであれ、ずるい言い方だ。そう言えば断れないと知って甘えているのはエルドの方。
それでも、踏み出された足を。乗り上げる身体を。そして、回される腕にどうしたって愛おしさと喜びが込み上げてしまう。
微かに震える身体を抱きしめ、丸い背を撫でる。湿った感触は、悪夢を見た寝汗のせい。
「…………すみ、ません」
消え入るような謝罪は胸に埋もれた唇から。紡ぎながらも開放されないことに安堵し、背から頭へと指が動く。
旅をしていた頃に比べて滑らかになった髪。日々の手入れだけではなく、エルドの魔力が浸透しているという事実を、本人だけがまだ知らない。
少しずつ。僅かでも、こうして共にいるだけで変化は起こっている。
伴侶になるための適応を喜ぶと同時に浮かぶのは、人でなくなっていく寂しさ。
矛盾するようで共存する二つの感情は、彼を迎えるその日まで続いてしまうのだろう。
「謝るな。愛し子が精霊に甘えるのは当然の権利だ。……それも、伴侶ならなおのこと」
過去、人間を伴侶に迎えた精霊全てに恋愛感情があったとは言えない。だが、最も気に入った者という共通点はある。
『強欲』もやり方こそ許せないが、その根本は同じ。甘えられて、想われて喜ばない精霊はいない。
……なんて、これまで愛し子を迎えなかったエルドが言ったところで、他の精霊には呆れられるのだろう。
だから言っただろうと。ゲラゲラと笑って酒の肴にされかねない。
「言っただろう。お前が抱えているモノを分かち合いたいと。お前が甘えてくれることに、俺も安心するんだ。……必要されていると、実感できる」
「……いいえ」
もたれていた顔が上がり、視線が絡む。揺らぐ紫の中、映る自身の瞳はそれ以上に頼りないもの。
「あなたはいつだって助けてくれました。今だって。……精霊界にいた間も、それは変わりません」
漏れた息は、悟らせてしまったことの迂闊さ。気にしていることを意識させていたのだろう。
いいや、あんなに情けない姿を晒してしまったのだ。ディアンなら気付いて当然。
自分よりも苦しんだのは。誰よりも傷付いたのは、彼なのに。
気にしていないと、虚勢を張ることはできる。このまま押し殺し、ディアンを騙そうとすることは簡単だ。
これ以上惨めな姿を見せたくないと、その欲に従えばそれでいい。
だが、それが無駄だと知っている。
彼は聡く、そして優しい子だ。騙されたフリをしても、騙し通すことはできない。
口にしても、しなくても。それはディアンの不安を残すだけ。ならば、こんなちっぽけな自尊心をたもつ必要はない。
ディアンを守るための嘘でないのなら、それは……彼への裏切りにも等しいもの。
「……お前が辛いときに、そばにいられなかった」
この身体を抱いたのは、もう全てが終わった後。
マティアに連れ出され、『強欲』に襲われかけ。未だ正体の掴めぬ精霊に脅かされ、挙げ句、フィリアとの会話まで許してしまった。
愚妹に関しては、こちらに戻ってきてからも。肝心な時に助けられない精霊など、どうして助けを求めようと思うか。
それで甘えてほしいなど、助けを求めてほしいなど。おこがましいとわかっているのに、求めてしまう。
「でも、あなたは来てくれました。あなたが待っていると信じていたから、僕は耐えられたんです」
「……耐えるなんて状況自体、作りたくなかった」
未然に防げたはずだ。ゼニスを人間界に戻さなければ、調査をアピスたちに任せておけば、もっと早く決断していれば。
結果としてディアンは生きている。それでも、苦しんだことも、怖がらせたことも、無かったことにはできない。
ディアンは……この子は、あまりに強すぎる。どんな状況も、苦難も、耐えきってしまう。
自身の限界を超え、精神が悲鳴をあげようと、彼は何度だって立ち上がり、前に進むだろう。
それでも、どうして苦しむ姿を望むだろう。傷付き、恐れ、それでも進まなければと奮う姿を願うだろう。
その強さに惹かれたとしても。それ以上に彼を大切にしたいのに。幸せに、したいのに。
「エルド」
冷たく、されど震えのない柔らかな指が頬へ触れる。いつもエルドがディアンにするように、その視線が逸れないように。
確かにここにいるのだと、示すように。
「あなたが気にしていることを、それ以上考えないでほしいとは言えません。……まだやるべき事はたくさんあって、僕らの望んでいない問題も起きるでしょう。それでも、僕はあなたがいるから乗り越えられるんです」
紫は柔らかな光でエルドを見上げる。嘘偽りの無い本心。耐えきれるだろうという、彼の中にある確固たる想い。
それこそがエルドの恐れなのだと、ディアンが気付くのは、いつなのか。
「最初から……あの夜、会いに来てくれた時からずっと、あなたは僕を助けてくれた。僕をここまで導いてくれた」
「それは……」
「あなたは、それも自分のせいだと思っているでしょう。でも、最初に洗礼をいただけたとしても、きっと今のようにはなれなかった」
もし……もしも最初の洗礼で加護を与え、『選定者』として迎えたとして。今の関係を築けたとはエルドも思えない。
ディアンは義務として、エルドは悪習を絶ちきるためと割り切り。こうやって、互いに触れる喜びを知ることはなかっただろう。
それでも、加護を与えていれば彼が苦しむことはなかった。
フィリアに狂わされた者たちに翻弄され、その欲望に打ちのめされることも。絶望することもなかった。
それでも、ディアンは言う。エルドに会えたからこそ幸せなのだと。助けてくれたのは、エルドなのだと。
「エルド。あなたがいたから。あなたが僕を選んでくれたから、今の僕がいるんです。たとえあなたが傍にいなくとも、あなたの存在そのものが……僕の、救いなんです」
だから、悲しまないでほしいと。救えなかったと思わないでほしいと。かの愛し子は笑う。
その胸を満たす想いのまま。辛く、苦しい記憶と共に。エルドと一緒だったからこそ得られた幸せを噛み締めるように。
胸底から滲む感覚が末端まで行き渡っていく。
熱とは違う、されど温かな充足感。満たされていくという実感は、己を思う人間がいるからこそ。
どれだけ酒を喰らおうとも、どれだけ人の選択を眺めていようとも、得ることのなかった温もり。一度知ってしまえば、もはやそれは……麻薬のように、精霊を虜にする。
だからこそ、精霊は人を求め、忘れられることを恐れる。自分の存在を失うことを。この幸福を、思い出せなくなることを。
ああ、本当に。……なんと、救いようのない。
「……これじゃあ、どっちが慰められているかわからないな」
苦笑は自分自身に対して。呆れながらもディアンを開放することはできず、腕に閉じ込めた存在をギュウと締めつける。
同じだけ返される腕の力に、いよいよ始末におえない。
「不安にさせてごめんなさい」
「それは俺の方だ。……信じてくれて、ありがとう」
強い抱擁はどちらからともなく離れ、交差する紫に込み上げる息は、溜め息とは異なるもの。
「あー……他の奴らをどうこう言えないな……」
項垂れた頭はディアンの肩に僅か届かず、伸ばされた手によって撫でられ、嬉しいやら情けないやら。
複雑な感情をくみとる優しい手つきに、ますます顔は戻せず。
「ねぇ、エルド。あなたが他にやっておきたいことって、何がありますか?」
「お前が人であるうちにか? ……そうだな」
あれやこれやと浮かんでしまうが、その全てを叶えることはできない。優先順位を振り分けるにはあまりに途方もなく、されど最優先は変わらず。
「とりあえず、人間界の酒は飲ませておきたい。プィネマのを飲んでからだと戻れないからな。……それと、お前がしておきたいことを、できるかぎり」
「……僕が、しておきたいこと」
させたいことは、いくらでも。だが、いつだって真っ先に浮かぶのはそれだ。
この愛おしい存在が、悔いることのないように。ほんの一年といえ、得られた別れの時間を惜しむことのできるように。
そうして、その日を。契りを交わすその瞬間に、何の陰りもないように。
「お前が後悔しないために、お前自身がしておきたいことだ。それは俺では見つけられないからな。……だが」
「だが?」
伝えたのは、エルドの本心だ。嘘ではないし、そう望んでいる。
……だが、それは精霊としての欲であり、エルド自身の思考とはまた異なるもの。
本当は、今すぐにでも。この瞬間にでも番いたい。伴侶として迎え、何にも脅かされないようにしたい。
だが、ディアンの想いを尊重したいというのもまたエルドの願い。せめぎ合う感情に翻弄され、額を押しつけた身体から笑いが漏れる。
クスクスと擽る声に、耳ではなく胸が擽ったく、それ以上に心地いい。
「分っています、エルド。だから、僕はあなたを信じられるんです」
頭から髪へ、そうして頬を辿る指に導かれ、見つめた紫のなんと愛おしいことか。
「まだ何をするべきか、どうすればいいのか、僕自身もすぐに答えられません。……でも、今はこうして一緒にいてくれれば、それで十分です」
「……本当に、お前ってやつは」
加護を与える精霊としては、なんとも情けないこと。だが、『エルド』としての自分を愛しているのだと。そう伝えられてまで、落ち込んでなどいられない。
抱きしめなおした身体。見つめ合う距離は近く、紫が目蓋の向こうへ消えていく。
言葉はいらないと、互いに首は傾き――。
「そこまでです」
求めた温もりとは違う、固い感触が唇に触れた。
「……ゼニス」
「止めるに決まっているでしょう、見世物じゃないんですから」
氷の板を除けようと、もう一度なんて雰囲気ではない。
止められたことで慌てて膝からも下りようとするディアンの腰を抱き、唸ったところでゼニスの表情は涼しいものだ。
止めるにしたってやりようというものが……というか、今のは絶対にそういう雰囲気だったはずだ。
「空気を読めよ……!」
「限度というのがあります。……あなたたちも仕事に戻ってください」
気付いているぞと声がかかれば、本棚の向こうで慌ただしい足音が複数。
みるみるうちに真っ赤になるディアンに衝動が込み上げ、されどその口を吸うことは叶わず。
「選択を尊重すると言ったのはその口では?」
まさしく氷のようにザクザクと突き刺さる言葉に、主に対する思いやりは一切ない。
彼を単なる従者の枠に収めるのも違うが、それとこれとは違う話。
痛いところを突かれ、反論はできず。唸り、抱きしめた身体から漏れるのは呻きではなく小さな笑い。
それだけでこの不機嫌さが吹っ飛んでしまうのだから、自分も単純だと突きつけられる。
「……儀式の時は、覚悟してろよ」
全てはその時にと宣告すれば、笑顔はエルドの胸の中に消えてしまった。





