298.悔いなく生きるために
コップごと手の中に。包み込んだ中は淡い光を放ったまま、覗き込んだそこに姿は見えずとも、明確に思い浮かべられる。
泉に横たわる桃色の髪。思惑通り行動したことへの歓喜による笑み。
『ゼニスもいるの? よく許したのね』
「止められる前にしたんです」
『まぁ、いけない子』
クルクルと変わる声色に対し、ゼニスの眉間が狭くなる。
こうなると知っているから何も言わなかったのにと、咎める瞳はディアンに対して。
その蒼の中に、この行動への疑問が含まれているのを捉え、今は苦笑するだけ。
『さっきの、見ていたんでしょう? 怖がらせるつもりはなかったんだけど……どうしても抑えられなくて』
思い浮かべるのは互いに同じ光景。内側から花に食い破られ、精霊樹の養分となったアプリストス。
その決定打を与えた本人は、あまりにも軽い調子で呟く。
「ふふ……我ながら、どうしようもないわね」
またやってしまったと。どうしても止められなかったのだと。されど反省する色はなく、元からするつもりもないのだろう。
それは彼女の本能に従った結果。彼女が、最も大切にしている概念を穢されたことへの報復。
今からディアンが投げかける問いは、きっと正しくはないだろう。その答えもきっと、もう自分の中にはある。
それでも彼女と話をするのは……出会った精霊の中で、最も自覚しているのが彼女だと思ったからだ。
エルドでも、アピスでもなく。最も遠ざかりたかった、この存在こそ。それを、分かっているのだと。
「なぜ、狂ったフリをしているのですか」
『――まぁ』
囁く声が僅かに低くなる。カルーフに騙され、連れ込まれた時。望まず対面した時と同じ声色。
本来はあれが素なのだと、予想したディアンを肯定するように、穏やかな笑いは続く。
『あなた、本当に賢いのね。でも……ふふ、残念。フリではなく、狂っているのよ』
「自身を狂人と称する者は、まだ正常という説がありますが」
『それはあなたたちの場合だわ。姿こそ似ていても、あなたの目の前にいる存在に、その理屈は通用しないの』
子どもに言い含めるような柔らかさと、それでも隠しきれないものと。
ここにティーカップはないのに、甲高い音が蘇ってくる。
『言ったでしょう? 私たちはどうしてもそれに惹かれてしまうの。分かっていても、抗うことができない。……今なら理解できるんじゃないかしら』
理解しながらも人間を求めた精霊たち。禁忌と知りながら求めた愚か者。ただ真っ直ぐに惹かれ続けた彼女。
……そして、この世界に戻ってくることを諦められなかった彼。
「皆、あなただけを狂っていると称していますが」
『そうでしょうね。だって、愛は理解できないし、恋とは堕ちるもの。理屈では説明できず、制御だってできないもの。でも、他の精霊も根本は同じよ』
どれも形は違っていても、根本は同じ。人間にとっては、狂っているとしか思えない執着。
されど、それが彼らにとっての在り方。精霊という存在。
『私たちは子どものようなもの。見つけてしまうとはしゃいでしまうのよ。シュラハトの時のように、ヴァールも同じ。でも、あなたはヴァールのその狂気ごと愛してしまった。……ふふ、素敵』
図星だが、動揺することはない。彼女にはお見通しだ。そもそも隠すつもりだってない。
人間を愛し、守り、共存してきた彼だからこそ。人間の選択を、生きる力に惹かれてきたエルドだからこそ、ディアンは彼を愛している。
エルドという存在を。彼たらしめるものも含めて。欠けることなく。
「あなたは、僕を求めようとは思わないのですね」
『あら、ヴァールを愛しているあなたはとっても素敵よ? どうしてそう思うのかしら』
私も例外ではないのよと、笑う声は一層高らかに。だが、ディアンは答えを知っている。
彼女が求めているのはディアン自身ではなく、ましてやただの人間でもない。
「あなたが魅入られているのは、エルドを愛している僕だから」
『――ふ、ふふ』
水面が振動し、光が溢れる。揺れる花弁は、まるで彼女の喜びを表すかのように。
『ふふふ、あはははっ! そう、そうよ! ええ、その通りよ!』
もし目の前にいたのなら、きっと踊り出していたと。そう分かるほどに跳ね上がる声は、少女のように無邪気で、蜂蜜のようにドロリと溶けていく。
『ああ……かわいいこ。あいらしくて、いとおしいこ。そう、確かに私もあなたを欲している。だけど、手に入れてしまえばそれは私が欲しかったあなたではない』
だからフィリアは求めない。どれだけ輝いて見えようと、どれだけ魅力的に思おうとも、ディアンを手に入れることはない。
『だって、あなたはもう私を手に入れてるんですもの』
光が徐々に弱まっていく。それは彼女の感情が落ち着いていくのとは違う反応。同時に、遠くから感じる魔力が強まっていく。
急いでこちらに向かっているのだろう。そうだと気付いたのは、ディアンだけではなくフィリアも同じ。
『ふふ。でも、そうね。もし何かあったら、あなたなら助けてあげるわ。愛し子としてではなく、あなた自身として。だって、ヴァールの愛し子なんですもの』
だから、また会いましょうと。その言葉を最後に、光が完全に消える。
花びらが沈み、ただの水に変わった後。数秒とせず聞こえた足音に顔を上げる。
「――ディアン!」
勢い良く開いた扉の先、真っ直ぐに向かってくるエルドの表情は焦りと怒りの混ざったもの。
また彼を不安にさせてしまった。そうと分かって行動したのに、綻ぶ顔を止められない。
「無事か! 今フィリアの気配がっ……!」
「大丈夫です。少し話をしただけで、何も――」
言い切るよりも先に、立ち上がった身体を引き寄せられる。閉じ込められた腕の中、ぎゅうぎゅうと締めつける力は強く、温かく。
もしコップを手放していなければ、互いに濡れていたなんて考えていた余裕も、時間が長引くにつれて引いていく。
「エルド、大丈夫です。何もひどいことは……」
「ディアン」
一層強く、腕の中に掻き抱かれる。
僅かな痛みと、それ以上に伝わってくる感情。それは怒りではなく、葛藤と恐怖であると。指の震えが、訴えている。
「っ……ディアン」
「……はい、エルド」
絞り出すような声に、そっと腕を回す。確かにここにいるのだと、もう離れないと。そう伝わるように強く、強く。
名を呼ぶしかできないその内で、今も彼は傾いている。自分の信念を貫くのか、それともディアンの選択をとるのか。
人の選択、生きる力に魅了され。そして、彼にとっては抗うことのできない光の中で藻掻き、苦しみながら。それでもディアンを幸せにしたいのだと願い、求めているのだ。
悔いなく迎える、ディアンとの未来を。
「……俺が今からすることは、お前の選択を奪うことになるかもしれない。お前は強く、逞しい。その決意が揺らぐことだってないだろう。……それでも」
「エルド」
回していた腕を上に。頬を包み、揺らぐ薄紫を見つめ。そっと、瞬く。
「言ったでしょう? 僕はあなたを信じている。あなたの選択を、あなたの想いを。……だから、大丈夫」
きっと全てを受け止められると。かの愛し子は――誰よりも彼を愛している者の微笑みは、確かにエルドへ届いたのだ。





