297.戻るべき場所
人間界に戻る準備が整うまでにかかった時間は、半日にも満たなかった。
アケディアが目覚めるのを待っていたので、実際に行動したのはそのうちの何時間か。
今は謁見の後に連れてこられた湖。ネロによって露わになった水底で、その時を待っていた。
剥き出しになった崖の断面。注視しなければ分からぬほどの僅かな穴。気付いたとしても、それが人間界に聖水を流している門に繋がっているとは推察できなかっただろう。
アケディアの提案は至って単純。聖国に繋がっている穴を広げて帰るというもの。
言うだけなら簡単だし、実際にディアンはそれを提案して却下された。
確かに人が入れる大きさではないし……こんな場所にあったなら、無理矢理広げればとんでもない災害になってしまう。
辿り着くことはネロの力で可能であっても、門を広げ、それを元に戻すのを考えれば現実的ではないとも。
だが、アプリストスの力を吸収し、万全に近い今のアケディアであれば可能だという。
デヴァスは渋ったが、それは協力するとはしゃいだネロの失敗を恐れてのことで、その提案自体は止めなかった。
シュラハトやアピスも、エルドも。全員が納得したということは、それは虚言でも誇張でもなく、本当に実現できるということ。
それだけアプリストスの力が膨大であり、アケディアの秘めた力もまた恐ろしいということ。
とはいえ、互いの世界の影響を考え、広げられるのはほんの数秒。精霊界だけでなく、人間界側からも維持することで万全を期す。
アケディアが妖精たちに伝言を託し、ロディリアも了承した。あとは、示し合わせた時刻を待つばかり。
「ティ、言うこと、ある」
促されたというよりも、それは強制に近いものだろう。肩が跳ねるのは、事実を突きつけられた羞恥と動揺からくるもの。
思い出し、振り払い。意味を理解し、向き直る。やはり視線は絡まないが……その態度こそ、彼が本当に反省していると示すと同じ。
「……申し訳、ありませんでした」
「そっちもだけど、違う」
「…………ごめん、なさい」
最初はエルドに対して、次はディアンに対して。謝り方は異なるが、どちらも偽りはない。
深々と下げられた頭を見れば、エルドも不満はなかったのか。溜め息は水音にかきけされ、ディアンの耳にだけ届く。
「次はないぞ。……今回の沙汰は、アケディアに一任する」
「心配いらない。反省させる」
強張るマティアの身体が、間を置かずに弛緩する。
あの光景の後でなくとも彼が怯えるのは当然。されど、受け止める覚悟はできているのだろう。
恐怖を呑み込み、銀は一度だけ伏せる。そうして開いた光が、ようやくディアンと交差する。
「……服」
「え?」
「婚姻の儀に着る服。……お詫びに、作ってあげてもいいわ」
ぶっきらぼうな言い方。だが、それにどれだけの意味が含まれているかディアンは知っている。
アケディアの為だけに振るうと決めた技術。その彼女と共にいる妖精たちのために費やした年月。他の者に割くにはあまりに重い時間を、ディアンに振ると言っているのだ。
「……私には、それしかできないから。嫌なら、別に」
「マティア様」
もう一度、逸れた視線を引き戻す。困惑と、気まずさと、彼なりの誠意。なんとも複雑な表情に、自然と表情が緩む。
「ありがとうございます。……では、ベール以外をお願いできますか?」
「ベール?」
「はい。それだけは既に決まっているんです」
「……選定者のベールだ。エヴァドマの柄は分かるか」
今もディアンの部屋で、大切に保管されている白い布。
エヴァドマの地、エルドを慕い、そしてディアンに渡してくれた巡礼者のためのベール。
一度目は偽るために。そして、二度目は……エルドと結ばれる日に。
儀式の準備はまだ進んでいないが、それだけはもう決まっているのだと。笑うディアンに訝しんだマティアも、エルドの補足で理解したらしい。
「ああ、あれね。下地は変わらないにしても、柄に関しては資料がないわ。後で調べるにして――」
「話はそこまで。……ヴァール様、ディアン」
やはり服に関すると調子が戻るのか。饒舌になりだしたマティアを止めたのは、崖の傍で待っていたアピスの呼び声。
時間が来たのだと互いに目を合わせ、共に前へと進む。
「アピス様、ありがとうございました。シュラハト様も」
「次に会うのは婚儀の時になるだろう。それまで息災で」
「ま、ヴァールに貸しってことで。ロディリアにも、僕のことちゃんと伝えておいてね」
握手を交わす横で託された伝言に、顔を歪めるロディリアの姿がよぎる。
報告する時点で知られるとはいえ、彼女のシュラハトに対する憎悪は、簡単に拭いきれないもの。
アピスとシュラハトの仲が良好であっても、この先も消えることはないのだろう。
「アピス。お前から伝えたいことはあるか」
僅かに詰まる息と、寄せられる眉。それはすぐに元に戻り、彼女が示すのは静かに首を振る動作だけ。
「開ける。じゃあね」
アケディアの合図と同時に、穴が広がる。眩しい光は魔力ではなく、単純な光量の差。
穴の淵は凍り、固定されると同時に横抱きにされた身体が穴の中に飛び込む。見えたのは、自分たちを待ち構えていたロディリアたちの姿。
身体に与えられていた圧が軽減され、息を吐くよりも先に捉えたのは、ディアンからその背後へと映る彼女の視線。
金と青。その色は異なれど、似た瞳は一度も瞬くことなく。その交差は、時間にして一秒と満たないもの。
伝えられる言葉も、表情を変える間もなく。されど、その視線は。アピスが向けたのは、確かに……母が娘に対する愛情。
音もなく穴が閉じた後。そこにあったのは見慣れた泉と、何も変わらない像の姿。
「ディアン、無事か!」
「……大丈夫、です。ご心配をおかけしました」
駆け寄るロディリアに頷き、それからやっと地面に降ろしてもらう。
イズタムとリヴィ、それから……ようやく再会できたゼニスの姿を捉え、ようやく帰ってきたという実感を抱く。
帰ってこれたのだ。エルドと二人で、この場所に。
「傍に戻れず、申し訳ありません」
「いや、よくやってくれた。大事ないか」
頷きと、短い会話。それだけで彼らには通じ合ったのだろう。
そうして視線はディアンに移り、その唇が僅かに笑む。
「ゼニス」
「おかえりなさい、ご無事で何より」
「……うん。ただいま」
迎えの言葉を噛み締め、その姿に変わりないことに互いに安心する。詳しい話は落ち着いてからになるだろう。
今は無事に戻れたことを喜んでいいはずだと、エルドに合わせた視線は柔らかく交差した。
◇ ◇ ◇
診察を受け、自室に戻ってきたのは日が落ち切ってからのこと。
精霊界に出向いてから、おおよそ二週間。それ以上に懐かしく感じるのに、まだそれだけしか経っていなかったのかという矛盾も抱く。
すっかり時間の感覚が狂っていると吐いた息に反応してか、足元に擦り寄る感覚に浮かぶ笑顔は自然なもの。
「大丈夫だよ、ゼニス」
「イズタムも言っていたでしょう。二週間も精霊界の空気に晒されていたんです。異常はなくとも、暫くは安静にするように、と」
それは傍で経緯を聞いていたロディリアも、そしてエルドも同様に。今は気分が高揚して気付かないだけで、明日以降に不調が表れる可能性があると。
一足先にゼニスと部屋に戻されたのも、ディアンの大事をとってのこと。エルドも、ロディリアとの対話が終われば暫くは共に過ごすと言っていた。
精霊界に向かう前は一人で就寝していたが、今日からはゼニスと一緒。エルドとも、添い寝までは許されていないが、できる限り一緒に居るとも言っていた。
離れている間に死にかけたことを考えれば、過剰な対応とは言えない。ディアンも、そちらの方が安心できる。
自室でのみ獣の姿に戻ることを許され、ゼニスとしても悪くはない話だろう。
人の姿にも慣れていたが、やはりこちらの方が馴染み深いと。頭から背中まで撫でつければ、早く休むようにと咎めの言葉を受ける。
「ごめん、こうして撫でるのも久しぶりだと思って……」
素直に手を離し、用意されていた寝間着に袖を通す。疲れてはいるが、それ以上に頭が冴えて眠れるかどうか。
エルドが戻ってくるまでは起きているつもりだが、それもゼニスには怒られてしまうだろうか。
とはいえ、ディアンがいてはできない話もある。あの場に留まることはできなかっただろう。
ベッドに腰掛け、足元で寝そべるゼニスをもう一度撫でる。
「上がってもいいよ」
「分かってて言っているでしょう?」
「ゼニスになら、エルドも許してくれると思うけど……」
そうでなければディアンの警護を任せることはないし、就寝時にも一緒にいることを許すとも思えない。
今回の一件でディアンの安全を最重視するとしても、気の許せない相手には任せないこと。
そう言う意味では、やはりゼニスが一番安心できるのだとディアンも再確認したが、当のゼニスは呆れた息を吐くばかり。
「無駄に嫉妬されるのは御免被ります。……それに、シーツが汚れますから」
ここで十分だと少し離れた位置に座り直すのを見て、仕方なく添い寝は諦める。
温もりを求めているということは、やはり自分も弱っているのかと。
自覚したところで身体を横たえようとして……シャラリと、響く音に動きを止める。
妖精の羽の音なら、ここに帰ってきてからも聞いている。
驚いたのは、その光があまりに近く、そしてそれ以外の要因があったからだ。
二匹で抱えるように運ばれたのは、桃色の可憐な花。見覚えがなければ単純に贈り物だと思っただろう。
遠目であったが、まだ忘れていない。これは……紛れもなく、彼女が『愛』と呼んでいた花。
「ディアン、それは……」
ディアンが知っているのなら、ゼニスが知らないはずがない。立ち上がり警戒するゼニスに対し、受け取ったディアンは冷静なまま。
これからしようとしているのは、エルドのことを考えれば、行うべきではないこと。
最たる疑問は解消され、彼女と話す理由はない。
……だが、そう。もう一つだけ確かめてもいいのなら、その機会はきっと、今この時だけ。
「……エルドには、あとで説明するから」
だから今は見逃してほしいと、妖精たちが示す場所へ。ベッドの横、用意されたコップの中。注がれた水の中へ花を滑らせる。
発光する淡い光。伝わる魔力は、あの時に比べれば弱々しい。
だが、それが彼女に通じたのだと。そう理解するには、十分過ぎるもの。
『――よかった。あなたがそうしてくれないと、お話しできなかったもの』
サリアナとも、メリアとも異なる。それでも聞き慣れた声は、間違いなくフィリアのものだった。





