296.帰る場所
「ばっかだな~~~!」
明け透けのない罵声と、同じ声量の笑い。少年特有の高い声は、静かな部屋にはあまりにもよく響く。
映し出された遠方の景色。頭上から眺めているような視点の中、見えているのはまさしく地面に取り込まれんとする男の姿。
「焦っていたとしてもあれはないって。ほんと、アプリストスも下手を打ったなー!」
「全く……あの女が素直に協力するはずもない」
藻掻くこともままならず、花に溺れる愚か者を笑う声を咎める者はおらず、むしろ同意の声が続く。
シュラハトの住処。質素なテーブルを囲み、座る影は複数。
主であるシュラハトと、伴侶のアピス。ここに残るよう言い渡されたディアンとマティア。そして、この騒ぎを聞きつけて訪れたデヴァスとネロの二人。
遠見の魔術を展開させているネロも、シュラハトと共に眺めているアピスも、口には出さずとも反応は概ね同じ。
この地に来たばかりのディアンにはまだピンと来ていないが、それほどアプリストスの言動は呆れられているものだったのだろう。
今まさに、彼に与えられた罰は周囲の反応からして妥当だということを判断し、それからアピスの横へと視線を滑らせる。
正確には青ざめ、震え、その光景から顔を逸らしているマティアへと。
エルドとアケディアがここを出てすぐに意識を取り戻し、事の結末を見届けよとアピスに命じられ、気まずく思っていたのは数分前まで。
アプリストスが吐血した瞬間からマティアの肌は生気を失い、むしろ彼の方が倒れてしまいそうだ。
ディアンにとっても衝撃的な光景であることは否定できない。それでも目を背けずにいたのは、エルドがそこにいるからこそ。
「マティア。目を背けるな。本来であれば、お前がああなったとておかしくはなかった」
「っ……」
短い溜め息と、淡々とした響き。肩が揺れ、されど視線が戻らないのは、己が辿っただろう結末を受け入れる恐れから。
庇護することはできない。やり過ぎだと言うことは簡単でも、この地にはこの地の規則があり、それは人間には寛容しきれないことも含まれている。
それはきっと、伴侶となってからも同じ。……そう、ディアンも例外ではない。
「伴侶であったとしても、アケディアは容赦しない。ディアン、それはお前も同じだ。私たちは守られていると同時に、守らなければならぬことがある。特にお前たちは同意の上で伴侶となった。これまでの人間とはまた、事情が違う」
本来なら嫁ぐまでの十数年で、『選定者』はその規則を伝えられるのだろう。
精霊界についても、人間界についても。彼らがどのような存在で、自分たちがどうあるべきか。
それは、アピスら先人が得た知識として、これまでの過ちを繰り返さぬ為に。そして、精霊と人間のために。
「ある程度は私も守れるだろう。だが、それはお前たちに非がない場合のみ。……理解できるな、マティア」
「……は、い」
掠れた返答は弱く、だからこそ彼の真偽を疑うこともない。
彼に対し、アケディアがどのような罰を与えるか。それを知ることはなくとも、妥当なものであるはずだ。
そうだとディアンは、既に目にしている。あのエヴァドマの地で、己の愛し子に罰を与えたブラキオラスの時のように。
「ディアン」
瞳は再び青へ戻り、強い光が交差する。一つは知る者として、一つはその覚悟を伴って。
「まだ伴侶となっていないお前には酷な光景だろう。だが、精霊に嫁ぐということは、こういうことだ。お前が再びこの地に来るまでの間、覚悟を決めておいてほしい」
フィリアと対峙するエルドを見て、数秒前までの惨状を思い返す。
……冷静に見えていようと、ディアンもまた衝撃を受けている。
あの視線も、冷たい声も、投影越しなのに痛い程伝わる怒りも。自身に向けられたものではないのに、怖くなかったと言えば嘘にはなる。
いつだってディアンは、エルドのことを知ったつもりで、そうではないと改められている。
愛し合っていても、どれだけそばにいても、その根本は精霊と人。
今までも、これからも、その差を目の当たりにして傷付くこともあるのだろう。
それがディアンのためにしていることでも。きっとまた、彼に恐れを抱く日は必ず来る。
……それでも、彼の傍に居続ける覚悟は、既にその胸に。
「とはいえ、お前に関してはロディリアの管轄になるだろう」
緩む瞳は、若干の呆れと共に。それは勝手を行ったフィリアではなく、もう答えを提示していたディアンたちに対して。
「だとしても力にはなれる。まずは、あちらに戻ることを優先しよう」
「……ありがとうございます、アピス様」
「で、どれぐらいが妥当と思う?」
愛し子の話が一段落したとみるや、精霊たちが雑談に戻る。端的な問いだが、示しているのはアケディアの言っていた期間のことだろう。
つまり、どれだけ精霊樹の底に埋めておくかという話だが……。
「マティアにも接触していたことを踏まえても、三百年ぐらい?」
「愛し子の略奪であれば五百でも少ないだろう」
「彼なら魔力が枯渇することもないから、反省するまで閉じ込めておくのがいいと思うわ」
柔らかい口調だが、一番えげつないのはネロだろう。否、それが精霊たちにとっては普通であり、まだディアンたちがその感覚に慣れていないだけ。
現に数千年という単位を聞いてもアピスの表情は変わらず、むしろ同じように予測を立てているまである。
……やはり、ディアンにとっては途方もない時間でしかない。
「少なくともヴァールの婚姻が無事に終わり、儀式を見届けるまでは解放させぬ」
耳慣れぬ声、されど聞き覚えのある男の言葉。映し出された景色から見て正面、テーブルの近く。いるはずのない姿に、息さえも止まる。
全身を白に染め、エルドたちの挙動を見守る男。その姿は、それこそ生を受けた者全てが知らぬはずのない存在。
血の気が引き、反射的に立ち上がる。だが、逃げるでも向かうでもなく、硬直した身体は凝視したまま動けず。
「お、おるふぇ……っ……!」
「オルフェン王。ここは僕とアピスの領域だよ。入れるからといって、勝手に入るのはどうかと思うけど」
「オルフェン王。儀式が終わるまでではあまりに短すぎるでしょう。ヴァールもアケディアも納得はしません」
名は呼べず、されど確かに音となる。片方は呆れながら、片方は真剣に抗議し。どちらも、そこにいること自体は何も抵抗なく。
アピスに促されるまで腰を下ろすことができず、盗み見たマティアも驚きはしていたが、ディアンほどではない。
「それで済ますはずもなかろう。最低でもという話だ。厳密な期間は、アケディアとヴァールの意思によって定める」
さも当然のように席につき、今もフィリアと話をしているエルドを見つめる白に、謁見の際に感じた威圧感は微塵もない。
魔力も、畏怖も。それこそカルーフと同等か、それ以下か。
この精霊界で最も力のある存在だと理解しているのに、あまりにも存在感が自分たちに似て、その差に脳が追いつかない。
あまりにも馴染んでいるし、受け入れられている。あるいは、これも精霊にとっては普通……なのだろうか……?
「見るだけなら、わざわざこっちに来る必要もなかったんじゃない?」
「……マティアの件であれば、アケディア様が罰を与えると申しました。既にヴァール様とアケディア様、双方の間で承諾されております」
「それに関しては、私が関与することでもないだろう」
一瞬怯え、されど自分ではないとマティアの強張りがほどけた後は、ディアンが背筋を伸ばす。
この一連の結末でも、状況を確認するためでもないなら……目的は、ディアン自身。
「ディアンよ。お前からヴァールを説得する気はないか」
「……説得、ですか」
「今回の騒動において、最も咎められるべきは門に干渉した首謀者。だが、ヴァールがお前との儀式を承諾すれば、とうに沈静されていたことである」
それを言うなら、そもそも精霊界に来なければ事は始まらなかったと、反論できたとて意味はない。
互いの未練を切り捨て現状を受け入れたなら、確かにここまで事態が拗れることはなかったろう。
ディアンだって死にかけることもなく、マティアが暴走することもなかった。結果としてマティアの誤解は解けたが、エルドとディアンの問題はまだ解決していない。
今だって、婚姻を執り行うと決めたなら全て解決する。わざわざアケディアに負担を強いて、人間界に戻る必要だってなくなる。
「この地で過ごし、お前を求めている者が多いことも気付いただろう。アプリストスのように、罰を恐れず行動する者も他にいないとは限らぬ。理解していようと、我々は人に惹かれるものだ」
ギラギラと輝く視線をまだディアンは覚えている。
謁見の場、マティアに連れ出されて遭遇した宴。アプリストスとの対峙。それは容赦なくディアンに浴びせられたもの。
理解していても欲しいのだと。求めて止まないのだと。……ディアンはもう、思い知っている。
「事情ゆえ呼び寄せたこと、謝罪はせぬ。だがこうなった以上、儀式までの猶予はないと判断する。……お前の言葉であれば、ヴァールも納得するであろう」
だから彼を説き伏せ、婚姻を結びこの地に残れと、王は告げる。
威圧はない。魔力に伏せられるのでもない。だが、それは命令と同義であると理解し、一度だけ瞬く。
「ヴァールを真に想うのであれば――」
「畏れながら、申し上げます」
遮る声は震えることなく、見据える瞳も揺れはしない。
何度も考え、悩み。そうして共に選んだ答えは、変わることはない。
何を言われようと、何があろうとも。互いの意思以外に変えられるものはないのだと。
「今回の騒動が起きてから、改めてヴァールと話をしました。全ての手段を講じ、それでも戻る術がないのであれば、婚儀を執り行うと。……しかし今、自分たちは人間界に戻る手段を見つけました。婚儀は、当初の予定通りに行います」
「ほんの一年、前倒しにしたとて大差はなかろう」
帰還を遮られたあの日。ディアンたちは確かめ合い、そうして選択した。
できる限りのことを。捨てる前に抗うことを。そのうえで、諦めることを。
ほんの一年。たったそれだけのために労力を払うことは……精霊という存在には、愚かな行為に見えるだろう。
それは目の前で諭す精霊王だけでなく、シュラハトも。他の精霊だって、同じ反応を示すだろう。
ほんの一年。……それでも。
「そうかもしれません。……ですが、今の自分たちにとっては、その一年こそが譲れないのです」
できることは思っている以上に少ないだろう。勉学も賄いきれるとは考えにくい。
そこまでして得られるものが無に等しくとも、その過程こそが守りたかったもの。
人として過ごすこと。それ自体に意味があるのだ。
「捨てることは簡単かもしれません。ですが、それではヴァールとの誓いを果たせません」
「共に生きるのに、場所は関係なかろう」
「訂正を。私が彼に誓ったのは、悔いなく生を全うし、共に生きること。……そして、それは私だけではなく、ヴァールも同じ」
向けられる白は睨まずとも、咎めるように強く。それでも、ディアンの決意は揺らがない。
「残るつもりはないと?」
「私たちにとって、残りたいと願う場所はここではありません。……そもそも儀式を終えた後、私はヴァールと共に人間界に戻ります」
僅かに見開く白。動揺した声はその傍ら、この一連を静観していたデヴァスとネロから。
この中で、最もエルドに近いと言える存在。それでも、その思考までは予測できていなかったのだろう。
「ディアン、それは不可能だ。一度伴侶となれば……」
「人間界の空気に馴染むことができない。……存じています」
精霊が人間界の魔力を薄く感じ、苦しむのと同じ。精霊界の魔力に馴染みきった身体には、かつての世界の空気は毒と同じなのだろう。
これまでに戻った伴侶がいない理由の一つ。その苦痛は、これまで受けてきたものとは比にならないのだろう。
「ですが、ヴァールは長い年月をかけ、人間界の空気に耐えきりました。彼が人間界に留まりたいのであれば、僕もその努力は惜しみません」
「……説得はしましたが、意思は変わりませんでした」
なおも制止をかけようとするデヴァスに、代わりにアピスが答える。
マティアに初めて対面したあの日、婚姻しないことを煽られた後。ディアンが問うたのは、罪に値するかの一点。
精霊の伴侶は人間界に戻れない。だが、それは戻ること自体を制限しているのではないことも確認した。
罪に問われないのであれば、ディアンがすべき行動は変わらない。
エルドが人間界にいたいのであれば、自分もついていけばいいのだ。
そう確かめ合ったからこそ、マティアの言葉に動じることはなかった。彼の想いを疑うことだってなかった。
そばにいるのなら。共に生きるのに場所など関係ない。そう笑ったのは、エルドも同じだったのだから。
だから、たとえ何百、何千。膨大な月日を苦しむこととなっても……エルドが傍にいるのならば、耐えられる。
そう、だって。かの精霊の愛し子は、努力することだけは、慣れているのだから。
「私は、ヴァールの愛し子。彼がいる場所、望む世界こそが私の居場所です」
震えることなく、惑うこともなく。言い切ったディアンに、少しの沈黙の後、見つめていた白が伏せる。
息こそ吐かれず、されどその動作に含まれるのは、諦めの感情。
「……愛し子は精霊に似るか」
その呟きが聞こえたのが最後。姿はかき消え、残ったのは戸惑うディアンと息を吐く他の者たち。
「ほんっと、ヴァールに甘いよね、あの人」
「……あ、の」
「許可が下りたと解釈してもいいだろう」
頬杖をつき呆れるシュラハトと、補足をするデヴァス。まるで嵐が去った後のようだと思っているのは、やはりディアンのみ。
納得してもらえた……と、思っていいのだろう。
折れるつもりはなかったが、こうも呆気なく引かれると、それはそれで戸惑うというもの。
どちらにせよ、懸念事項が減ったことは喜んでいいのだろうと。ディアンも力を抜いたところで、扉から伝わる魔力に自然と立ち上がる。
「ほら、二人とも帰ってきたわ」
一人は硬直し、一人は自ら足を進め。開いた扉の先、真っ先に目に入る茶髪に顔が綻ぶ。
「――エルド」
何よりも愛おしい薄紫は。ディアンが愛するその光は、その名を受け柔らかく綻んだ。





