294.愚者 ☆
膨れ上がる魔力。滲み出るそれに呼応するように背筋に走る悪寒。
避ける間もなく頬に拳を打ち込まれ、受け身も取れずに床に倒れる。
血を吐き出し、睨み付けた先。手に入れるはずだった人間の姿はなく。そこにあったのは、忌々しい男の姿だけ。
「っ……マティアアアァ!」
視線は横へ。男の後ろで眺める元人間へと滑り、睨み付ける。
騙された、騙された、騙された! 同じ精霊に騙されるならまだしも、人間の伴侶などに! 自分が!
精霊としての矜持を傷つけられ、堪らず吠えた声にマティアが怯む気配はない。ただその銀は冷たく見返し、鼻で笑うかのよう。
「騙しやがったなてめぇ! 後でどうなるか分かって――」
「ふあぁ……」
威勢良く噛み付いた声が、気の抜けた欠伸一つで押し込まれる。
眠たげな顔。されど目蓋から覗く白は強く、みるみるうちに色を失っていく姿に、前提が違っていたことを改めて突きつけられる。
そもそもここに、人間は来なかったのだと。
「お、お前っ……!」
「……ティが、世話になった」
気怠げな口調。挟まれる欠伸。しかし、膨れ上がる魔力は近づくヴァールと同等。
ヴァール一人でも厄介である事態に、アケディアまでくわわればアプリストスと言えど無事では済まない。
それも、この様子だとちょっかいを出していたこともバレている。
「色々、吹き込んでくれた。お礼、しにきた」
「っ、ま、待て! 俺が狙ってたのは今回の人間だ! お前のには手を出してないだろ!」
脳裏によぎるのは数百年前、数多の精霊を巻き込み危うく戦争にもなりかけた諍い。それをたった一人で、しかも無傷で止めきったアケディアの姿。
武力ではなく、されど抗う術もなく。情けも容赦もなく、百を超える精霊たちが倒された光景に恐れを抱いたのはアプリストスも例外ではない。
ただ眠らされるだけと笑えないのは、それこそ精霊が恐れるものの一つだからこそ。
動けず、話せず、意識もなく。死の概念がない精霊にとって、眠りとは死に等しくあるもの。
その間に存在を忘れられ、消えるかもしれないという恐怖すら抱くこともできず。ただ、身を任せることしかできない。
特別に加護を与えずとも、信仰を得られずとも、己を確立できる。そんなアプリストスでさえも、それはあまりに恐ろしいこと。
何としてでもこの場を切り抜かなければ……!
「ティを虐めたから、駄目」
されど、苦し紛れの言い訳が通じるぐらいなら、そもそも始めからここには来ていないのだ。
状況が悪すぎる。体勢を立て直さなければと、そう焦る間に飛びかかる影を寸前で避ける。
精霊に死という概念はない。だが、床をたやすく割った拳に命の危機を悟る。
思い返しても、ヴァールという精霊が本気で怒った回数は多くはなく、それを目の当たりにした回数は遙かに少ない。
されど、必要以上に言葉を発することなく、的確に急所へ打ち込もうとする様は、間違いなく理性の切れた時のもの。
精霊王に最も近い分身。その力の鱗片を示され、滲む汗は焦りと恐怖から。
本気でキレた精霊が、それも二対一で向かってくる。アプリストスでなくとも、これに誰が敵うというのか。
分が悪すぎる。まともに戦うなど、馬鹿のすること。
「っ、な……!」
だが、逃げ出そうとした足は地に縫い付けられたまま。それは文字通り、しっかりと男の足首を絡め取っていた。
ひび割れた地面から這い出た根。細く、されど頑丈なそれはみるみるうちに膨らみ、アプリストスの下肢を締めつける。
搾り取られる己の魔力。精霊であるからこそ、その正体に青ざめ、叫ぶ。
「ま、さかっ……俺を取り込むつもりか!?」
この精霊界の全土に張り巡らされた、精霊樹の根。アケディアの加護する大樹。
その維持には膨大な魔力を用い、本来であればアケディア一人では維持できぬはずのそれは、彼女の献身と犠牲によって成り立つもの。
それでも担えぬ量は、正統に他の精霊に振り分けられる。数百年前、アケディアが伴侶を得た時と同じく、罰という形で。
そして今、それは己の身にも襲いかかろうとしている。
「ティを虐めて、他の愛し子を奪おうとした。理由は十分」
軋むのは肉か、骨か。燃やそうとも切り刻もうとも這い上がってくる根は、何の苦もなく腹部まで辿り着く。
その間も近づいてくるヴァールから遠ざかることは、もはや不可能。
「大丈夫、ヴァールの気が済んでから埋める。終わったら起こして」
アプリストスを睨み付ける薄紫は答えない。その色に怒りを携え、滲む魔力に肺が押し潰されてしまいそうだ。
そうでなくとも、全身を戒める根はじきにアプリストスから呼吸さえも奪うだろう。そのまま数百年も眠らされるなど耐えられない。できるはずがない!
こんな仕打ちを受ける通りは、ない!
「そもそもアレは俺のもんだろうが! 娶るつもりもないくせに、何を今更! 愛し子を設けないと誓ったくせに!」
そうだ、最初からあの人間は自分のモノだった。他の誰でもない。伴侶を得るのは自分以外にいない!
ずっとずっと待ちわびていた! 再び人間を手に入れるその瞬間を。取り上げられてきた権利を、ずっと!
愛し子を得るのは、肯定されるのは、求められるのは、他でもないこの自分――!
「娶るつもりもないくせに、お前は――ぎっぃ!」
「だとしても」
掴みかかった指が顔に食い込み、頭蓋骨が悲鳴をあげる。ミシミシと軋む音と、頭を潰さんとする握力に掴んだ腕はビクリともせず。
「お前に渡す道理はない」
手の平で見えぬはずの薄紫は冷たく、鋭く。されど熱く、強く。
それは脅しではなく本気であると。淡々とした響きが告げる。
みしみし、ぱき。聞こえる音は錯覚ではなく、どれだけ叫ぼうとも指が外れることはない。
割れる、割れている、痛い、苦しい、なぜ、なぜ、なぜ! なぜ!!
どうして俺が! 俺こそが、なぜ! ありえない、ありえない! ありえない!
眠るのは嫌だ、眠るのだけは絶対に! それだけは!
「っ――フィリア゛ぁ! 助けろ゛っ! 協力するつっただろうがああぁあああ゛ぁ!」
恐怖のあまり声が割れる。届かぬはずの叫び。されど、それは確かに彼女の耳に届いた。
痛みに明滅する視界に張り込む閃光。淡い桃色を纏った球状の光に、薄紫が不快に歪むのさえ、断罪される男に目には映らず。
『ご機嫌よう、アプリストス。……そうね、確かに言った気もするわ』
思い出すかのように揺れる動きも、今のアプリストスにとっては煩わしいだけ。
『でも、約束なんてしたかしら。あなたが本当に彼を愛しているのなら、手伝ってあげられるとは言ったけど……』
「愛している! 俺は誰よりも愛している! 今までの人間の中で一番!」
口走るその言葉がどんな意味を持つのか。喚く男は理解していなかったのだろう。
愛はともかく、自分は人間を求め、そして与えられるだけの権利がある。自分以外に人間を迎え入れるに相応しい精霊はいない。
だからこそ、フィリアの協力が必要だった。愛だの恋だのと騒ぎ場を乱すだけの、この狂った女の力が!
アプリストスには理解できない。されど、この身は欲している。人間を。崇められることを。求めることを、ずっと!
それを埋められる唯一を、永遠に!
愛しているとさえ言えば、フィリアは協力する。そのはずなのに、なぜこの女は自分を助けようとしない!?
『……ヴァールよりも?』
「そうだ! だから早く助けろ! こいつより俺の方がずっと――!」
途切れたのは、痛みから解放されたからだ。
拘束こそ緩まないが、ヴァールの手が離れただけでも進展と言える。フィリアさえこちらに付けば、アケディアがいようとも負けるはずもない。
まずはヴァールを。それからアケディアを。自分を精霊樹の養分にするなど考えた腹いせに、マティアを含めて手に入れてやる。
身の程を弁えないからだとニヤけるアプリストスを、薄紫は変わらず見下ろす。
その光から熱は消えずとも、寄せた眉が示す感情は怒りではなく……愚か者への呆れ。
「アプリストス。あなた、本当に馬鹿」
「あ゛ぁ?」
眠ろうとしていたアケディアさえ息を吐き、緩く首を振る。否定の動作はヴァールと同じ感情を示すもの。
罵声されて唸ろうとも、その視線が変わることはなく。もはや、結末の定まった男へ投げる言葉もない。
「自分が言ったことだから。知らない」
それでもアケディアが零したのは慈悲か、その身を蝕む倦怠感に勝る呆れだったのか。
正体こそ明らかにはならず。されど、違う答えはすぐに与えられる。
胸の奥に与えられた、チクリとした痛み。虫に刺されたような、針に突かれたような、そんな些細な違和感。
……だが、平然としていられたのは一瞬だけだった。





