293.待ち望んでいた瞬間 ☆
――その気配を感じた瞬間、男は自分の勝利を確信した。
自分たちに似て、されど弱い魔力。そして、それよりも遙かに弱々しい気配。
横たわっていた寝台から身を起こし、同時に入り口を開ける。臆することなく進む二つの気配に、自然と唇は弧を描く。
何十、何百、何千年。この時をどれだけ待ち望んでいたことか。
精霊王が世界を別ち、婚姻に制限をかけてから男の飢えは一度たりとて収まったことはない。
それまでは、望めばいつだって差しだされた。
男も女も、老いも若きも分け隔てなく。欲しいと思えば、例外なくそれはアプリストスに与えられたものだ。
人間が精霊を求め、その力に縋るほどに。その欲深さに呼応するように男は餓え、満たされたがった。
それはアプリストスにとって権利であり、義務であり、当然のものだった。
人間の扱いに慣れていなかったことは認めよう。だが、あの程度で壊れるほど脆弱だなんて、どうして予見できようか。
何度伴侶を迎え、なくしたか覚えていない。
何人かの間には子どもが生まれたと聞いたのに、ろくに姿も見ぬ間に人間界に連れて行かれているので、今やその数も存在すらもアプリストスは知らない。
自分のものになった愛し子から生まれた存在ならば、それもまた、男のもので然るべきだ。それを、シュラハトの愛し子のせいで取り上げられたのだ。
ああ、今思い返しても忌々しい。アプリストスの数千年に及ぶ、この耐えがたい渇望も、そもそもがあの人間の仕業だ。
婚姻を数百年に一度と短い期間にしただけでも耐えがたいというのに、あろうことか婚姻自体を禁じるなどとは!
自分以外に、愛し子を迎えるに相応しい精霊など存在しない。自分こそ、人間にとってなくてはならない存在。
求め、望み、奪い、得る。そうして種は存続し、人間は生きていく。自分が加護を与えなければ、人間はどうやって生きていくというのか。
自分は特別だ。どの精霊よりも、どんな存在よりも、己に勝る者はいない。
前回はアケディアに権利を奪われたが、今回こそは自分が伴侶を得ると確信していた。
忌々しい規則によれば、選定の権利を与えられた者が愛し子を選び、同意を得て婚姻を結ぶという。
だが、今回は違う。確かに伴侶を差しだすことは、精霊王と人間の盟約は交わされた。
すなわち、その人間を愛し子にさえすれば、誰であろうと婚姻を結ぶことが許される。
千載一遇のチャンス。そして、その権利は他でもない自分に与えられて然るべきもの!
そもそも、最も貢献した者に権利が与えられるというのなら、まさしく『欲』を司る自分こそが相応しかったはずだ!
あのうるさいシュラハトの伴侶を納得させるだけの理由であると。自分以外に相応しい存在はいないのだと。
そうアプリストスは確信し、疑うはずもなかった。それはもう、彼の中では揺るぎのない事実であったのだから。
……それを、あろうことか! あのヴァールが愛し子を迎えるなど!
これまで何度も促され、決して首を振ることのなかった男が! よりにもよって!
確かにこれまでも、先に権利を与えられたのはあの男だ。
されど、奴は愛し子を迎えることはないと明言し、この数千年間一度も、一度たりとも! 愛し子を定めることはなかった!
よりにもよって、唯一のチャンスを! あの男がかっさらっていったのだ!
ああ、こうして思い返すだけでも腹の底が煮えたぎる。
あの人間は自分のモノだと決まっていたのに、そうなるべきだったのに、ああ、嗚呼!
人間界に留まっている時点で憎々しいというのに、己のモノさえも奪っていくとは!
その様を見せつけに来たことだって、なんと腹立たしかったことか。……だが、誰も手を出さぬと思い込むその慢心こそ、あの男の敗因である。
まだ儀式も行っていない愛し子を精霊界に連れて来るなど、到底正気の沙汰ではない。どれだけ浮かれていたかは知らないが、人間界に戻れないという。
全くもって好都合。どのような事情があれ、儀式をしない方が悪い。愛し子といえど正式に契りを交わさないのであれば、奪われたとしても文句は言えまい。
アケディアの時は手を出せず、マティアの勘違いを助長させるしかできなかったが……それが今回に繋がったと考えれば無駄ではなかった。
フィリアにも協力を取り付け、領域に入った以上、ヴァールが入れる手段は無くなった。もはや、己を邪魔するものはいない。
視界に二つ影が入り、唇はより高く上がる。
まんまと騙された馬鹿なマティアと、その手に引かれる、アプリストスが求めていた人間。
「連れてきたわよ」
突き出された青年の足取りは危うく、転んでいても可笑しくはなかった。辛うじて立っているが、この精霊界の空気にあとどれだけ耐えられるか。
疾患こそ出ていないようだが、それも時間の問題と言える。
ヴァールの自己満足のせいでここまで苦しめられているとは、なんとも哀れなことだ。
だが、それもあと少し。
「よくやったマティア。これでアケディアは変わらずお前のもんだ」
過去とはいえ、人間であったことには変わりない。罪悪感からか、睨み付ける銀さえも今は心地良い。
「心配すんなって。ヴァールの愛し子とはいえ悪いようにはしねぇよ。まぁ、もう俺のモンになるから、あいつは関係ないが」
近づけば面白いほどに震える身体を見て、より顔は歪む。無意識に逃げようとしているらしいが、身体が追いつかないのだろう。
意識があればなお愉しめるが、気を失ったとて目的は達成できる。なんなら、その過程で意識が戻れば、それはそれで面白みが増すというもの。
もう二度とないチャンスだ。柄ではないが丁寧に、うっかり殺すことのないようにしなければ。
……否、避けたい事態ではあるが、それはそれでヴァールへの鬱憤を晴らせることには変わりない。
伴侶とするはずだった愛し子を奪われる顔を見るか、それとも殺された顔を見るか。同時に満たせぬ歯がゆささえも、今のアプリストスを高揚させるものでしかない。
自分自身の欲深さに喉を鳴らし、顎を掴んで顔を上げさせる。
フードに遮られて目は見えずとも、苦痛に歪む顔は想像通り。
「お前も可哀想に。さっさとここに来てりゃ苦しむこともなかっただろうに」
「っ……僕を、どうする、つもりですか」
そうやって問いかけること自体も辛いだろうに、なんとも健気なことだ。
この期に及んでわからないはずがないのに。あるいは、本当に純情なのか。それもすぐに明らかになること。
「そう怯えんなよ、お前を楽にしてやるだけだ。まぁ、恨むならさっさと番わなかったヴァールを恨めよ」
再び人間を手に入れられる喜びと、あのいけ好かない男がどう反応するかの期待を胸に、まずは唇からと顔を寄せる。
そこでマティアの存在を思い出したが、どうでもいいことだと考え直し――鈍い音を立てて、肉が触れ合う。
唇ではなく、己の腹部。刺されたのかと錯覚するほどの痛みは、抉るように打ち込まれた拳によって。
驚愕に目を開き、腰を折るほどの激痛に呻く。ただの人間が出していい力ではない。
文句すらも口に出せず、されど跪くこともできなかったのはアプリストスのプライドではなく、その胸ぐらを掴まれているからだ。
「がっぁ……! っの、なに、す……!」
「私の伴侶と知りながら手を出そうとしたな」
睨み付けた視線、絡む紫。声の響きこそあの人間と同じ。
されど、それはアプリストスが記憶しているものより遙かに薄く、そして強い怒りを携えたもの。
「――相応の覚悟があってのことだな、アプリストス」





