288.愛の精霊
同じように手を差し込んでも帰れないことは、試さずとも分かっていた。
クスクスと笑う声が木霊する。それはディアンを嘲笑うものではなく、見慣れない訪問者に対するものであることも。そして……ここに逃げ場がないということも、同じく。
動かなくとも事態は解決せず、焦れた妖精たちがディアンを取り囲み、膝の裏や肩を押し始める。
小さくとも集えば抗えぬ力となり、再びこの空間の主と対峙する。
既にその姿は泉から離れ、小さなテーブルの前に。花と蔦で作られた椅子に座り、手で対極を示すまで。
それは少女のような可愛さだけで誤魔化すものではなく、成熟した女性が身に付けた、非の打ちようのない動作。
指の動かし方、首を傾げる姿まで。あまりに抱いていた印象と異なり、その姿が誰とも重ならない。
メリアと同じ顔、サリアナと同じ声。恐ろしいはずなのに呼吸は乱れず、衝撃が過ぎた今も、こうして冷静に考えられている。
「……あっ!」
その理由を突き止める前に、視界が一段と明るくなる。
妖精たちが、そのベールを剥ぎ取ってしまったのだ。
ふよふよと浮いていく黒い布。咄嗟に伸ばした指は空を切り、押し寄せる魔力に耐えようとして、息ができていることに気付く。
圧迫感も吐き気もなく、ベールを剥がされる前と全く変わらない。数日前、ディアンを一目見たいと押しかけてきた時とは明らかに違う。
カルーフでさえ、意識すれば魔力を感じ取れた。なのに、今は意識を集中させても何も感じられない。
これまでの負荷で耐性がついたと、答えを出すにはあまりにも強い違和感。
あまりにも落ち着いている。ディアンも、そして……会いたいと、あれだけ騒いでいた彼女自身も。
「……よくないものね」
妖精から白い手へとベールが渡る。
眺める顔はしかめられる訳でもなく、淡々とした呟きは、ディアンに聞かせるものではないのだろう。
下から上に。そして、再び絡む緑に、恐れていた狂気は見えず。
「どうぞ座って。楽な道ではなかったでしょう?」
背を押され、されど先ほどよりは抵抗もなく。近づいても、嫌悪も恐怖も感じられず、困惑したまま腰を落とす。
いつの間に用意されたのか。独りでに注がれるカップの中に、ふわりと浮かぶ白い花。
紅茶と思われる香りと、強い花の匂い。どこか甘く感じるその中で、戸惑うディアンにフィリアは微笑む。
「これはヴァールからの贈り物ではないのでしょう? でも、ここまであなたが無事でいられたのはこれのおかげ。……なんとも皮肉なものね」
少しだけ細められる瞳。一瞬の瞬きの後には、その表情は穏やかなものへと戻っていた。
故に、どうしてそれをディアンが手に入れたのか。その疑問が浮かんだ端から消える。
「驚かせてごめんなさい。こうでもしないと、あなたに会えないと思って」
素直な謝罪を受け止められるだけの器量はない。連れ出したのはマティアであり、それは彼の目的があったからだ。
カルーフがあの場に来たのは偶然ではなく、ディアンに会うためだったなら……一体いつから、彼女はこれを狙っていたのか。
追い返されたあの日か。それとも、ディアンが連れ出されたと知った時なのか。
「カルーフを責めないであげて。彼女には、あなたが外に出ることがあったら、ここに連れてきてほしいとお願いしたの」
「えっ」
「あら、ひどい人ね。あんなにも一途な乙女を勘違いするなんて」
なじりながらも唇は笑んだまま、整えられた爪先は匙を摘まんでクルリとカップを撫でる。
中に砂糖もミルクもなく、浮かんだ花が無意味に回る様を、集まった妖精たちが眺めている。
「忘れないために姿を変えて、ただその人だけを想い続ける。……切なくて、だけどとっても素敵。そうは思わない?」
確かに彼……否、彼女がそう言っていたことを思い出し、先入観に反省する。
やはり、この精霊界では自分の常識は通じないのだと認識を改め、今もそうであると突きつけられる。
愛を語る瞳に、爛と宿る光。
僅かな寒気は、されど怯えるだけの脅威ではない。
安堵するには早いだろう。だが、逃げられない状況の中、呼吸も会話も可能なら、まだ切迫した状況ではない。
どちらにせよ、今のディアンに選択肢はないのだ。
「……僕に話とは、なんですか」
「そうね、色々と聞きたいことはあったけど……」
匙は妖精の手に。指先は汲まれて顎の下。小さな顎が乗せられる仕草は子どものようで、与えられる印象もまたくるり、変わる。
「今は、あなたの方が私を求めているみたい」
細まる緑。馬鹿馬鹿しいと笑えなかったのは、僅かでも動揺したからだ。
無意識を叩き起こされ、そのまま引っ張り上げられる。浮上したそれは、既に彼女の手の中。
「私に聞きたいことがある。……違うかしら?」
悪戯に成功したように笑う顔は少女そのものなのに、問いかける声はやはり落ち着いたまま。
同じはずなのに別人のよう。あるいは、本当に違う精霊なのか。
……いいや、こんな相手が何人もいては堪ったものではない。
一人悩むディアンの反応も、目の前の彼女は予想していたのだろうか。答えは、微笑みに紛れて明かされることはない。
彼女に聞きたいこと。聞くべきこと。浮かぶいくつかのうち、最も強いそれを胸の奥に押しつけて、小さく息を吐く。
「精霊門の異常は、フィリア様の仕業ですか」
ディアンとエルドが帰れなくなった原因。干渉できぬはずの精霊門への妨害。
未だ見つからない犯人。問うたとて、素直には認めないだろう。
それでも口走ったのは、自身の何を隠すためだったのか。直接聞ける機会は今しかないと、そう考えたのは後付けだと認めたくなかったからか。
「あなたはどう思う?」
「……エルドは、いえ、ヴァール様は違うと」
「えぇ、だってそうする理由がないもの。あなたも分かっていたでしょう?」
想定通り、答えははぐらかされる。エルドの言葉を信じていたし、ここに来て疑う理由もない。
だが、信じることと確信を得ることは違う。
「あなたは、僕とヴァール様が番うのを待ち望んでいる。一年の猶予を持たず、今すぐにと考えての行動である可能性は否定できません」
「待ち望んでいるのは間違いないけど、どうして私が急く必要があるのかしら」
「どうして、って……」
「だって、あなたたちはそうすると決めた。もうあなたたちが番うと決意したなら、私が焦る必要なんてないでしょう?」
おかしな子だと、笑う顔は心からのものだ。蔑みも、哀れみも、呆れもない。
心底不思議そうに、どうしてと問いかけている。そんな必要なんて、どこにもないのにと。
「むしろ、焦っているのはヴァールじゃないかしら。アピスや精霊王も急かしているけど……ふふ、自分の在り方と葛藤する姿は、いつ見ても素敵なものね」
明確に言葉にされずとも、何を示しているか理解している。
人間界に戻らずに儀式を迎えるか、否か。
本来なら、人間界での準備を整えた後に結ばれるはずだった。
人としての時間を惜しみながら、然るべき流れに則り、そうして別れを告げる。
それはディアンへの配慮でもあり、エルドの希望でもあった。
人間でなければ得られぬ経験を。その終わりを迎えるための過程を。
全てを叶えることはできずとも、それでも悔いなく生きたとディアンが思えるために。
……それを望まずして捨てることを拒むのは、エルドの信念に反すること。
現状の切迫と、己の在り方と。その間で揺れ動きながら、そうだと決めることができずにいる。
フィリアにとって、これ以上素敵なことはないのだろう。
「では、誰だと思いますか」
「さぁ、誰かしら。人間を諦められない精霊は大勢いるし、知っての通り私はここに籠もっているから。確信を持って言える相手はいないわ」
誤魔化している様子はない。否、人間であるディアンが、精霊の……それも、彼女の嘘を見抜くことはできなかっただろう。
されど、それは確かに真実。アプリストスと決めつけるには、候補はあまりにも多すぎる。
それこそ、ディアンの知らぬ精霊……それも、複数である可能性だって。
固執すれば真実から遠ざかり、問わねばそもそもたどり着けず。
溜め息を呑み込んでも喉は潤わず、紅茶は妖精たちの遊び道具と化したまま。
「それより、もっと聞きたいことがあるでしょう?」
落ちた視線が戻される。見抜く緑。メリアと同じ色。されど、全く違う輝き。
もう二度と会うことのない、見ることのない面影の中。ディアンを明かさんとする声は、問いかける。
「私でなければ聞けないこと。ヴァールに明かすことのできない、その胸の奥。……あなたが彼との誓いを守るために、不必要なもの」
指は顎の下に汲まれたまま。故に、ディアンの心臓を貫いたのはその声だけだ。
抉られ、脈打つ鼓動。それは恋を自覚した時に似て、それよりももっと強く、抗い難いもの。
これは誘惑だ。甘く囁く、破滅の声。従うべきではないという理性が、不安によって傾いていく。
まるでお茶菓子を摘まむように軽く、些細な動作で。奥底に隠そうとしたそれは、引き摺り出されてしまった。
彼女にしか聞けないこと。愛の精霊である彼女にしか明かせない……ディアンが後悔しないために、問わねばならないこと。
拳を握り、ほどく。ゆっくりと呼吸を整え、紫に宿る覚悟に、緑は歪む。
その鱗片を味わうように。素敵だと、恍惚するように。
「――なぜ、妹に加護を与えたのですか」





