287.神の遣いではなく、
耳慣れない音が続いている。
自分の靴と、男の素足と、杖の叩く音。それぞれのリズムで刻まれる中で、時折紛れるシャラリという音は妖精たちの声だ。
アケディアの命令か、単に付いてきているだけなのか。やはりディアンに知ることはできず、ただ男の背についていくばかり。
平凡な茶髪。特徴のない顔立ち。服装も他の精霊に比べると質素で……人間界で会っても違和感はない。
それは外見だけでなく、こっそりとベールを捲って確かめた魔力からも同じ。
誰かの伴侶なら、アケディア様に敬意を払っているだろう。
だから、精霊であっているはずだが……それとも、こちらでは誰かの伴侶となったら、精霊への対応も同等になるのか?
いや、アピス様の対応を見るにそれは違うだろう。
ならば、やはり精霊ということになるが……。
「……あ、の」
「なんだい?」
外見からも、アケディアとの会話でも特定できず。どれだけ悩んでも答えが出ないと悟り、呼びかけた声にすぐ男が振り返る。
柔らかな笑み。人のよさそうな顔。もしかすると、前髪に隠れた瞳は温度がないものかもしれないが……やはり、今のディアンに判断できる材料はない。
「失礼ですが……お名前をお伺いしても……?」
「僕? 僕はカルーフ。君は?」
「ディアンと、申します」
「うん、よろしく」
なんともあっさりとした会話。それは彼の性格か、単にディアンに興味がないのか。
アプリストスのように迫られるよりはマシだと区切りをつけて、それから記憶を引き出しにかかる。
カルーフ、カルーフ……たしか、その名前は……。
「……その、カルーフ様」
「カルーフでいいよ。なにかな?」
先ほどの握手といい、今といい、なんとも軽い。
本当に精霊か疑わしく思えるが、告げられた名は間違いなくかの精霊を指すもの。
「いえ、そんな。……間違っていたら申し訳ありませんが、カルーフ様は確か……羊の……?」
「ああ、覚えてる人がいるのは嬉しいな」
笑みが深まり、喜ぶ様はまるで花が飛ぶよう。実際、周りに飛び交う妖精は花そのものだが。
それはともかく、確かめたことで彼の格好にも納得がいった。
麻の服に、大曲杖。首から提げていたネックレスは、装飾品ではなく犬笛。
まさしく、伝え聞く羊飼いの姿そのものだ。人間界で出くわしても、きっと気付けなかっただろう。
他の精霊に比べれば知名度は下がるが、羊飼いたちにとっては何よりも関わりの深い精霊だ。
……そう、納得はしたが、あくまでも羊飼いではなく、羊の精霊。
「羊の姿じゃないのが変?」
慌てて否定をしようとして、メェ、とひと鳴き。
人間の声帯では到底出せぬ響きに虚をつかれ、クスクスと笑う仕草に、アケディアやフィリアの面影が重なるのは考えすぎか。
「そ、そういうわけでは……精霊は各々好きな姿をとると聞いていましたし、実際と違うぐらいは……ただ……」
「ただ?」
「……その、カルーフ様があまりにも私たちに似ているもので」
外見だけではない。魔力も、伝わる雰囲気も、何もかもが。
精霊だと確かめた後なのに、それでもまだ人間にしか見えていない。
人間界に紛れるために力を抑えているエルドよりも、隠す必要のない彼の方があまりにも人間じみている。
服装は、まだ精霊と対話が許されていた時代、彼の姿を伝え聞いた子孫たちが逆に真似をした可能性もある。
でも、それだけではない。外見だけでは説明のできない違和感。
それとも、ディアンが接してきた精霊が強すぎただけで、他の者は皆このぐらいなのか。
「うん。僕は愛し子の姿をそのままもらっているからね。だからじゃないかな」
「……愛し子、というと」
先も言った通り、カルーフは羊の精霊。そして、精霊が皆、人間相手に加護を与えるわけではない。
愛し子というなら、カルーフの相手は羊のはず。だが、その姿はどう見ても人間。
例外があるとするなら、それはただの愛し子ではなく……彼にとっての、本当の唯一。
「うん、もう何千年も前に会ったきり。こうでもしないと忘れそうだから、姿を借りてるんだ」
人にしか見えていないということは、上手く模範できているんだねと。浮かべる笑顔はどこまでも柔らかいのに、その説明はあまりに途方もない。
それこそ、人間と精霊の世界が別たれる頃にまで遡るのだろう。
伴侶に迎えたいと思うほどの相手。彼が願った唯一。何千年も前の、記憶。
どれだけ精霊界の時間が早く感じようと、紛れることのない年月。それこそ、その姿をとらなければ忘れてしまうと恐れるほどの。
……ならば、どうして。彼はその人間を娶らなかったのか。
「気になる?」
「……気にならない、と言えば嘘にはなります」
「うん、じゃあ話してもいい? いつもは聞いてくれる人がいないから」
興味を持っても、踏み入っていい話ではないと引きかけた足は、むしろカルーフの方から踏み込まれ、断る理由はない。
ディアンのためではなく、本当に自分のためなのだろう。同じ精霊には語り尽くしたか、あるいは……愛し子と同じ、人間だからこそ話したいのか。
返事はせずに頷くことで了承とすれば、小さな感謝の後に、笑んだままの唇から始めるのは昔話。
「出会った切っ掛けは覚えてないけど、まだ僕らがあっちの世界にいた頃に出会ったのは覚えてる。名前はエパ。羊飼いの家系で、エパは一族の中でも特に優しい人だった」
彼の中で、どれだけその光景が残っているのだろう。
説明するというよりは、まるで一つ一つ確かめるように。その記憶を噛み締めるように、言葉が紡がれていく。
「お願い事を断れない人で、いつも笑っていた。羊たちに紛れて近づく僕を、エパはいつだってすぐに見つけてくれた。エパは僕の毛を撫でるのが好きで、僕もエパに撫でられるのが大好きだった」
ディアンにも、その光景が浮かび上がる。
広々とした牧草地。たくさんの羊たちに囲まれる中、本来の姿で愛し子と過ごすかけがえのない時間。
語る口調も、浮かべた笑みも、全てが幸せだったと語るもの。
……だが、その全ては、過去の話。
「だから、シュラハトがアピスを迎え入れて、結婚して。世界を別つことが決まった時、僕も結婚しようって言ったんだ。ずっと一緒にいたかったし、彼以外と結婚しようとは思わなかったし。今でもそうだよ」
「……では、なぜ……」
「振られちゃったんだぁ」
肩をすくめ、苦笑する彼に後悔の念が見えなかったのは、それすらも彼にとっては大切な思い出だったからだろう。
何千年のうちの、ほんの十数年。忘れ去ってもおかしくない遠い昔の、彼らにとってはほんの一瞬。
悲しさも、悔しさも通り越して。それすらも愛おしい時間だったのだと、唇は柔らかく笑んだまま。
「僕のことは愛しているけど、僕が大事にしている羊たちを置いていけないって。僕が残ると言ったら、それだと僕が消えてしまうかもしれないからって」
「消える……」
「実際、それで消えた精霊も何人かいたしね。ヴァールが特別なだけで、僕も無理矢理残ってたら他のみんなみたいになってただろうなぁ」
他人事のように語っているが、その予想は間違っていないだろう。
今はもう存在したかすら確かめられない精霊たち。
ヴァールがロディリアを助け、礎を築くまでに何人の精霊がそうしていなくなってしまったのか。
カルーフの愛し子の気持ちを、ディアンは理解できる。もし逆であれば……死ぬと分かって、同じ地に留まってほしいはずがない。
羊ごと精霊界に移動することも難しかっただろう。この世界は人間も、それ以外の生き物も、到底生きていけない。
だから、彼らは選択したのだ。愛しているからこそ、共にいないということを。
「もし次に生まれ変わったら、その時こそ番おうねって約束したんだ。……でも、もうずっと待っているのに、まだ生まれ変わらない。他の精霊の愛し子は、もう何回も見かけてるのにな」
「……その、わかるものなんですか?」
「うん。だって、大好きだもん」
堂々と言い切る姿は、微塵も疑っていないのだろう。
全ての命は精霊の元に戻り、そうして再び芽吹く。それが真実なら、かつての愛し子を間違えることはないだろう。
だが、それは彼が愛した本人そのものではなく、その者の生まれ変わり。
決して同じではなく、そうして、再び結ばれるとは限らない。
それでも、その可能性に賭けたかったのだろう。そうでもなければ、きっと互いに破滅すると理解していた。
理解してなお、諦めきれぬほどに。彼らは確かに、愛し合っていたのだ。
「早く会いたいなぁ……」
切実な願いはいつ叶うのだろう。数千年待ち続けて、それでも会えぬ相手を諦めきれず。
出会えたとしても、今の選定では選ばれるかも定かではなく。それを逃せばまた、少なくとも数百年待ち続けることとなる。
途方もない時間だ。……それでも、彼は待ち続けるのだろう。
ディアンには想像もできない。エルドでさえ耐えきれないと言った途方もない時間を。その愛し子を思い続ける限り、ずっと。
「だから、ちょっとヴァールが羨ましいなって。愛し子に出会えて、すぐに結婚できるんだもん」
口調が徐々に子供じみたものに聞こえているのは、これが本来の彼の口調なのだろう。行動もそれにつられ、杖で足元の花を突く姿は幼子そのもの。
その光景に抱いたのは微笑ましさではなく――気付いてしまった、違和感。
道に咲き誇る桃色の花。同色の服を纏った妖精たち。鬱蒼とした森はとうに抜け、ディアンたちを囲んでいたのは花で溢れる空間。
蔦が絡み合ったトンネルをくぐる間、祝福のように妖精たちの声が降り注ぐ。
美しい景色だ。……されど、ディアンに見覚えはない。
「あの、カルーフ様」
「なにかな?」
口調は愛し子のものに戻り、響きも落ち着いたものへ。
だが、ディアンの心臓は騒いだまま。むしろ、その声を聞いて急き立てられる。
「エルド……っ、いえ、ヴァール様の元に戻っているのですよね?」
「うん。でも、その前に寄り道」
「寄り道って……」
「真っ直ぐ帰るとは言ってないだろう?」
反論はできず、聞いていたところで拒否権もなかっただろう。
ディアンにできたのは、不満を抱きながら後ろをついていくだけ。どちらにせよ、結果は変わらなかった。
それでもどこに向かっているのか。その目的について問いかけ、心構えはできたはずなのにと。
そう思っている間も足は進み続け、やがて一面の桃色に行く手を阻まれる。
壁と錯覚したのは、垂れた大量の花たち。花弁のみで形成されたカーテンに躊躇無く手を突っ込み、裂いて入り込むのを見習ってディアンも中へ。
鼻腔を擽る花の香り。明るいままの世界。妖精たちの声に紛れて聞こえる水音。そして、
「――連れてきたよ、フィリア」
聞こえてはならない名前に、目を、見開いた。
聞き間違いであれと、男の背を凝視する。だが、見つめたはずの背はすでにそこにはなく、見えたのは、泉に横たわる一つの影。
周囲に割くどの桃色よりも鮮やかな髪。どの草花よりも活き活きと輝く緑の瞳。
ゆったりと起き上がれば、白く透き通った肌の上を、服の裾が滑り落ちていく。
美しさと可憐さ、その両方を兼ね備えた完璧な姿。
だが、目を奪われたのは、ディアンが固まるのは、息が止まっているのは、そうでは、なく。
「えぇ。ありがとう、カルーフ」
「っ……カルーフ様……!」
自分が騙されたのだと気付き、探した姿は既に壁の中に埋まっている。
花弁が前髪を引っかけ、隠されていた瞳がようやくディアンと重なり……潰れた瞳孔に、息を呑む。
「言っただろう?」
金の中に浮かぶ、黒の楕円。それは紛れもなく、獣――羊の瞳と、同じで、
「僕はお願い事を断れないんだって」
メェと鳴く声は、壁の向こうに吸い込まれて消えた。





