286.アケディア
思考はめまぐるしくとも、硬直は一瞬。
伸ばされた手を掴み、腰を支えて補助した身体は、ディアンの心配も余所にしっかりとした足取りで歩き出す。
健やかに眠るマティアの横に座り直し、そうして欠伸を一つ。
……お礼の言葉もなければ、勝手に入り込んでいることへのお咎めもなく。
「ティがお世話になった」
マティアへ注がれる白から感情は読み取れず、眠たげな瞳がディアンに向けられたのは、気まずい沈黙が流れて暫くした後のこと。
「……ティ?」
耳慣れぬ響きを繰り返し、それから再び落ちた視線から考える。そうでなくとも、彼女が愛称で呼ぶとすれば一人しかいない。
マティア、だからティ。マティでも、ティアでもなく、ティ。
独特な抜き出し方だが、少しでも発音を短くしようとした結果だろうか。
少なくとも、彼を愛称で呼ぶだけの愛着は抱いているようだ。この時点で、マティア自身の認識と誤差が生じている。
「あの……質問しても、いいでしょうか」
視線はディアンへ。だが、返答はなく。容認も拒否もないが、表情もまた変わらない。
「マティア様は、儀式……えっと、伴侶となる際の行為をしていないと言っていましたが……」
「ふあぁ……」
聞いているのかいないのか、大きな欠伸が一つ。それは答える気がない、ということでもあるだろう。
……さっさと出て行け、ということかもしれない。
帰り道が分かればディアンもそうしたが、とても自力で戻れるとは思えない。第一、一人で外に出れば、またアプリストスに絡まれる可能性もある。
さっきは運良く逃げ出せたが……と、考えて、ぐるりと頭が回る。
……そもそも、どうやって逃げただろうか。
倒れて、マティアがやってきて、それから……自分は、何を?
「ティは、可愛いから」
「……え?」
「馬鹿で、可愛い」
一度目の疑問は、聞いていなかったことに対して。二度目は口に出さずとも、最初よりも遙かに大きなもの。
質問の答え、なのだろうか。とてもそうは聞こえなかったが、それはディアンの捉え方の問題だ。
「それは、つまり……マティア様が誤解していると?」
やはり返答はなく。だが、笑う顔に否定の動作はなく。ディアンを見つめる目も穏やかなものだ。
無表情ならともかく、とても憎い相手に向ける視線ではない。
「あの、僕を恨んでいないのでしょうか」
「なぜ?」
「なぜ、って……」
問い返され、思わず眉を寄せる。
問われるまでもない。彼女にとって、ディアンは妖精たちが失われる原因となった男。その手で直接害したわけではないが、ディアンがいなければ彼女たちが犠牲になることだってなかった。
恨まれて当然。だからこそ、その憎い相手を見るために、わざわざ謁見の場にまで来たと……そう思っていたのだが……。
「僕……あ、いえ、私は、アケディア様の妖精が失われる原因で……」
「面倒」
「……んん……?」
簡素だが、あまりにも圧縮されている。
考えることか、怒りを抱くことか。はたまた、相手をすること自体なのか。
嘘ではないだろうが、真意を見極めるにはあまりに言葉が足りない。
嫌悪を表に出すこと自体が面倒だとするなら、いよいよもってアケディアという精霊がわからなくなる。
もしマティアが起きていれば、通訳してくれたのかもしれないが……いや、起きていれば余計に話が拗れていた可能性もある。
だからこそ、彼女はマティアを眠らせたのだろう。
「ああ、でも。餌はありがとう」
「……餌?」
それこそ、本当に心当たりはない。食べ物なんて持ってきていないし、与えた記憶なんてそれこそ。
もし魔力を指しているのだとしても、吸われている実感もないし、そもそも人間程度の魔力で賄えるとは思えない。
「もらってから調子いい。あと五十年は保つと思う」
「え、っと……」
本当に何を指しているのだろうか。
いや、ディアンが知らない間に、エルドが何かを渡したことも考えられる。
彼女が失った妖精を補えるだけの物。その見当はつかないが、そうだと考えればまだ納得もいく。
「エルド……じゃなくて、ヴァール様にお伝えしておきます」
「……知らないの?」
眠たげな瞳がパチリと瞬く。浮かんだ疑問は、その身を侵す気怠さに勝ったらしい。
「すみません。どれのことか……」
誤魔化しても気を損ねるだけだと素直に謝れば、もう一度瞳が大きく瞬く。そうして僅
かに考える素振りの後に、再び欠伸が一つ。
「足の下」
告げられ、下を見て、足を上げる。もちろんそこにあるのは木の床で、それ以外に変わった物は何もない。
「地下。中。根元」
言い換えられ、埋まっていると改めて説明されて、それでも思い浮かぶ物は何もなく。
再び顔を上げ……ふと、彼女が微笑んでいることに気付く。
弧を描く唇。柔らかく歪む目蓋。だが、その奥から覗く光は冷たく、鋭く。
「――罪人」
鼓動が響く。その可憐な音で紡がれた意味を、ディアンは知っている。
彼女が罪と呼ぶ、たった一つを。否、その人をディアンは、知っている。
己の名を呼ぶその少女を。自分を求め、全てを狂わせた、あの姿を。
ディアンは知っている。忘れていない。……まだ、忘れることは、できない。
あの声も。最後の叫びも。全部。深く、刻み込まれたまま。
「あれ、人間にしては、魔力が多い。微々たるものでも、無いよりマシ」
多くなる口数。それは、ディアンの反応に気を良くしたのだろう。
青ざめ、息を呑み。込み上げる何かを咄嗟に押さえ込んで、息を吸う。
……生きたまま、苦痛と恐怖の中で、妖精たちのための糧とする。死ぬまでずっと、永遠に。
確かに、あの時ディアンはそう聞き、そしてサリアナの刑は執行された。実際にその場に立ち会ったわけではなく、全ては事後報告。
だが、そう。ディアンは……彼女の最期を、確かに、聞いていた。
今なら分かる。種というのは比喩ではなく、本当にそうであったのだ。
この妖精樹の地下深く。ディアンの足の下で、今も彼女は……生きたまま、その苦痛を味わっているのだ。
人のままでは生きていけぬはずのこの場所で。死を望まれながら、死ぬことすら許されずに。
「まだ時間かかる。けど、使い切る頃には、大抵戻ってくる。妖精はそういうもの。疲れたら帰ってきて、眠って、また生まれる。だから、もういい」
でもね、と。美しい少女の姿をしたソレは笑う。動揺し、立ちすくむしかできない人間を。その様を含めて、わらう。
「ティは私のだから、だめ」
まるで子猫を思わせるような愛らしさ。されど、その言葉は喉に食らいつく牙のように。
正面から。頭上から。真後ろから。取り囲む妖精たちが共鳴し、クスクスとわらう声が木霊していく。
高々と響き、ディアンを覆い尽くし。音の中に溺れる、
「――君がここにいるのは珍しいね、アケディア」
……その前に、耳慣れぬ音に救い出された。
はっとして振り返った先。そこにいたのは、一人の男性だった。
クリーム色に程近い茶髪。丸みを帯びたショートカット。目元は前髪に隠れて見えずとも、口元の穏やかな笑みに人柄が表れている。
麻で作られた白い服と、カーキ色のズボン。どちらも装飾は施されておらず、素足よりも目立つのは、その手に持っている杖だろう。
持ち手が大きく湾曲した、人間界でもよく見かけるデザインだが、その大きさは背丈ほどもある。
ペタ、という素足の音と、コツ、と杖の先端で叩く音を交互に響かせながら、男はアケディアの元へ。
「マティアに頼まれたの、持ってきたよ。……こんにちは」
「こ……ん、にちは」
杖の反対に持っている袋は、その頼み物とやらだろう。どこに置けばいい? と、問いかけたあとに顔が向けられ、何事もないように挨拶を一つ。
思わず普通に返してしまったが、……彼も精霊、なのだろうか。
確信が持てないのは、その外見があまりに素朴だったからではなく、アケディアのような圧を感じなかったからだ。
ベールを外せば知覚できるのかもしれない。あるいは、彼女に圧されていて感じにくい可能性も。
アケディアとの会話を聞く限り、精霊に間違いないはずだが……。
「君、ヴァールの伴侶だよね?」
「送っていって。ティはまだ起きないから」
欠伸混じりのお願いに、言われた本人よりもディアンの方が戸惑う。
帰れるのはありがたいが、この精霊が誰か見当が付いていない。
伴侶を持っているとしても、これまでの経緯を考えると、素直についていくには恐怖が勝る。
だが、アケディアの言う通り、マティアはまだ眠りから覚める気配はない。起きていたとしても、素直に帰してくれたかは……。
「うーん……でもなぁ……」
「ふぁ……お願い」
「…………うん。お願いなら、仕方ないかな」
長考の末の承諾。一体なにが仕方ないのか、ディアンに読み取ることは不可能。
当人の思考は考慮されないまま、男の持っていた袋はマティアの傍へ。
「僕からだって言えばわかるから」
「そう」
もう興味がないと全てで表し、最期に大きな欠伸を一つ。
男の視線は、それきり黙ってしまったアケディアからディアンへ戻り、笑みは絶やされないまま。
「それじゃあ、行こうか」
よろしくね、と。そう差しだされた手を握ることは……今のディアンには、あまりに難しかった。





