285.来訪
「何度も言わせないで! やってないったらやってないのよ!」
「い、いえ、そうではなく……」
煽られたと誤解したのだろう。噛み付くように反論され、勢いに呑まれかけたのをなんとか踏み止まる。
正直、ディアンの頭の中は混乱したままで、とても整理が追いつかない。
儀式をしていないのに、伴侶としてここにいる? そんなこと……ありえるのか……?
既にこの身体で体感してきた。この世界は人が住める場所ではない。人がいられる空間ではない。
それなのに、人間のまま……数百年……?
「儀式はしょっ……初夜であると……」
「手っ取り早いってだけで、他にも方法はあるんでしょ。知らないけど」
あまりに認識が雑すぎる。本当に他の方法があるのか? あったとして、それを本人の知らない間に全部終わらすなんて、本当に可能だろうか。
……いいや、本当にあるのなら、ディアンにもその可能性は提示されているはずだ。
選ばないとしても、手段として説明はされる。だが、誰の口からもそれを聞いていない。
儀式、という言葉の中で埋もれている可能性もあるが、恐らくは違う。
ならば、マティアは何かを根本的に勘違いしている……?
「何かの間違いでは……」
「だから! 実際に番った記憶がないんだから、間違いようがないでしょ! ……それでもいいもの」
可能性は否定よりも、絞り出すような言葉の方が強くて、言及できない。
奥歯を食いしばり、自分を納得させようと声にして。実際、この数百年、それで自分を宥めてきたのだろう。
それでもいいのだと。分かっていても、それでいいのだと。
「偶然でも、適当でも、選ばれたのはアタシ。ただの運だとしたって、アタシがアケディア様の傍にいることを許された。あの方を美しくすることが、アタシの使命」
諦めの中、それでも貫く銀色に宿る強い意志。その光こそ、数百年前に告げた決意と同じ。
そうだと宣言し、誓い、そうして今もその誓いを守り続ける者の覚悟。
「……アタシには、アケディア様しかいないの」
それは。その言葉は、少なくとも……ディアンの抱えている物と相違なく。
「――そもそもっ! アンタばっかりずるいのよ!」
ゆっくりと瞬き、再び向けられた銀は鋭いままでもその意味合いは大きく異なる。
眉を寄せ、妬ましさを隠しもしない圧に、何をと問い返すだけの勢いはディアンにはない。
もちろん、そんなディアンが驚き瞬いていると知らぬマティアが、その一言で収まるわけもなく。
「アタシはちゃんと十二年間待ったっていうのに、どうしてアンタは一緒にいることが許されてるわけ!? 私でさえもらってないっていうのに、証だって見せつけてくるし! 確かにあの人も特別な精霊とは聞いてるけど、だからっておかしくない!?」
「いや、あの……」
「こっちのことだってほとんど知らないし、アタシより頭悪そうだし! 依怙贔屓にも程があるわよ!」
キーキーと騒ぎ立てる様子を見るに、それもアピスから聞いていないか、聞き流したか。
ずるいずるいと連呼されても、ディアンに非はない。若干、妹の面影がよぎりかけて……マティアの立場からすれば、確かにそう思っても仕方がないかと考え直す。
本来、一緒に過ごすことが許されるのは精霊界に来てから。精霊との対面を心待ちにしていたマティアからすれば、不公平でしかないだろう。
とはいえ、それは結果だけを見ればの話だ。
「……僕の教育が始まったのは一ヶ月前からだし、そもそも選定者に選ばれたのも数ヶ月前です」
「はぁっ!? なにそれ!?」
どういうことかと詰め寄られ、やはりこの説明だけでは理解されないかと込み上げる息を堪える。
説明自体は問題ないが、それよりも追求すべきことがまだ残っている。
「話せば長くなりますので、それは後で。とにかく、儀式についてはなにか誤解があるのでは?」
記憶にないと言うが、やはり何もしていないのは考えにくいし、それ以外に伴侶とする方法もあるとは思えない。
本当にその……性行為をせずとも精霊と同じ存在になれるのならともかく、やはり何かが引っ掛かる。
それは、精霊だからと有耶無耶にしていいものではないと。ディアンの直感が訴えかけているのだ。
「しつこいわね! 儀式の部屋についたらいつの間にか気を失ってて、目が覚めたときにはもう終わってたのに、誤解もなにもないでしょ!?」
「気を失っている間に、そのっ……アケディア様がし、した可能性もあるだろう!?」
「アケディア様がセックスなんてするわけないでしょ!? このお馬鹿っ!」
ディアンは羞恥を誤魔化すためだが、勢いには同じく勢いで返されるものだ。
とはいえ、罵声というにはあまりにも幼稚な言葉だったが。
「やってないって言われたんだからやってないのは間違いないの! それ以上変なことを言うなら口を縫い合わせるわよ!?」
「それは、アケディア様に言われたんですか?」
「違うわよ! でも、あいつが――!
」
本人から言われたなら、ディアンがなにを言おうとそれは確定だろう。だが、否定の言葉とその名が紡がれるよりも先に、マティアの視線が勢いよく逸れる。
向けた視線は壁の中。ディアンの目には、何も映らぬその先。
「あの……?」
「シッ! 隠して、早く!」
「え、ちょっ……うわ!?」
「いいから黙ってそこにいなさい! 絶対に出てこないで!」
途端、身体が沈む。否、椅子代わりの植物が消えたのだと理解した時には大量の布が被せられて、慌てるマティアの姿さえ見えなくなる。
問いかけるよりも先に牽制する声は、若干抑えられたもの。つまり、見せたくない相手がすぐそこまで来ている、ということ。
考えられるのは、一人だけ。
「あっ、アケディア様! どうしてこちらに?」
布越しの、若干くぐもって聞こえる声。だが、その名前も調子も紛れることなく、しっかりと耳に届いている。
そして、見えずともその光景を鮮明に思い描くことができる。
冷静を装うマティアと、まさに対面しているであろう、あの白一色の少女の姿を。
「こんな場所にわざわざ来られなくても、お呼び頂けたらお窺いしましたのに……!」
「……話、したかったから」
見た目相応の愛らしい声は、淡々とした響きで綴られるもの。
若干、その声色に気怠さが混ざっているように聞こえるのは、マティアの説明にもあった負荷のせいだろう。
「な、何かあったのですか? ともかく、ここは散らかってますし、違う部屋に……」
「あなたじゃない」
「えっ……」
戸惑いと、焦りの中。それでも隠しきれない喜びが、否定に遮られて消える。
拒否ともとれる冷たい声に動揺するマティアの表情は、ディアンからはわからず。そして、それを告げたアケディアの姿も、同じく。
「彼と、話をしにきたの」
「アケディ――ぁ、」
呼びきれなかった名前。崩れるような音。そして、訪れた静寂。
何が起きたかは憶測でしか過ぎず、布に埋もれたままでは確かめることもできない。
息を潜め、耳を澄まし。それでも、誰かが近づいてくる気配も、呼びかけられることもなく。
そうしている間に布すれの音が聞こえ、前触れもなく視界が開ける。
眩しさに一瞬だけ目を細め、すぐに慣れた光の中。見えたのは、ディアンを助け出した妖精たちと、床に倒れているマティアの姿。
思わず山から抜け出し、もう一つあるはずの影を見つけられず。
「……起こして」
ともかく彼を起こすのが先だと駆け寄ろうとした足が、その声に遮られて、止まる。
可憐な声は足元。正確には、倒れたマティアの、その下から。
足の隙間から覗く白いスカート。ふわふわとした髪も胸元あたりから。下敷きになっていると気付けば、ディアンの行動は早かった。
倒れたマティアを抱き起こし、意識がないことに焦ったのも小さないびきが聞こえるまでのこと。
なんとか担いだとはいえ、意識を完全に失った成人男性は想像よりも重い。ディアンより細身だが、背はマティアの方が高い。
半ば引き摺る形で山へと寝かせ、疲労感から息を吐く。
……明らかに、筋肉が落ちている。
『選定者』になってから鍛えた記憶がないのだから当たり前だが、少し情けないような、寂しいような。自覚はあったはずなのに、いざこうして体感すると、重みが違う。
「……起こしてって、言った」
帰ったら少しは動くべきだろうかと、反省している後ろから再び催促され、まだアケディアが寝たままだったことに気付く。
もう自力で起き上がれるはずだが、それすらできないほど疲労しているのか。慌てて戻り、手を差しだしかけて……その腕が、強張る。
キメの細かい肌。ふわりと漂う花の香り。見上げる瞳の、どこまでも透き通った白。
薄く色づいた頬。まるで人形のような精巧さ。だが、確かに生きて、そこに居るという実感。
美しさよりも勝るのは、人外じみた外見への恐ろしさ。
謁見の時は、マティアがそうであると勘違いしたが……今では、どうしてそう思い込んでいたのか、疑問を抱くほど。
もしベールが外れていれば、その魔力に圧倒されていただろう。
マティアが危惧するのにも納得がいく。普通の人間であれば、虜になっていただろう。
そう、それこそ。選定を受けた時のマティア自身のように。





