281.作業場
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歩くのを再開して、どれだけの時間が過ぎただろうか。
シュラハトたちの住居からを考えても一時間以上は経過しているだろう。だが、それもディアンの体感でしかなく、時間を計る術がない以上、確かめる方法もなく。
周囲の魔力に酔っている間、感じていた時間は一瞬のようで。もしかすると、すでに数時間も経過しているかもしれない。
それまでと違うのは、四肢の感覚がしっかりと残っていることだろう。ただ朧気に、引かれるまま進んでいた時とは違う。
それこそ、人間界にいる時と同じ、違和感の欠片さえ見つけるのが難しいほど。
おそらく、いつの間にか被っていたベールの効果だろう。視界を確保しようと捲った途端、周囲の空気に圧されそうになって被り直したことからも間違いない。
おかげで視界は薄暗いままだが、それでも景色を確かめられるだけの余裕も戻ってきている。
鬱蒼とした森の中。光が差し込む隙間は辛うじて。黒いベールも相まって見えるものは限られている……はずなのに、周囲はあまりにも明るい。
シャラシャラと擦れる音の中、クスクスと笑う声も紛れる。それは何十、何百と重なり合い、されど不快ではないもの。
ここに来る道中は覚えていなくても、ディアンが倒れてからここに至るまで、妖精の数は明らかに増え続けている。
最初はディアンを案じたか、単に人間を珍しがっているかと思ったが、それだけではこの数は説明しきれないだろう。
全員が全員、ディアンに興味を示しているわけではない。単純に数が多すぎて、個体の判別さえできない状態。
王宮に来た頃に比べれば、彼女たちの存在にも慣れたし、いちいち驚くこともなくなった。
リヴィ隊長をはじめ、トゥメラ隊の者たちは見慣れすぎて気にすることもないと言っていたが……この数を見て、ようやく納得する。
王宮にいる妖精の数も相当だが、周囲にいる数はそれを遙かに陵駕する。足を勧めるほどに数が増え、もう光は眩しいほど。
この明るさも、ディアンが精霊に近づくほどに落ち着いてくるとはいつ聞いた話だったか。
ベールをまくり、潜り込もうとする一匹を指先で諫め、それから視線を前に戻す。
迷うことなく進むマティアは、既に彼女たちの光は見えていないのか。あるいは、心地良いものに見えているのか。
それよりも気になるのは、彼を追いかけていく布の山……もとい、それを持った何匹もの妖精たち。
少なくとも、ディアンを連れ出す時には持っていなかったし、プィネマと別れる際にも用意していた気配はない。
考えられるのは、ディアンが倒れている間に取ってきたものだろうが……よくよく見れば、どれもローブのようなものだと判別できる。
謁見の際に纏っていたのを覚えていたのだろう。この距離では魔術がかかっているかは分からないが、あの状態のディアンを置いてまで取りに行ったと考えれば、その線は強い。
そもそも、ディアンが倒れたのは彼のせいだが、時折振り返って様子を窺うあたりは反省しているのだろう。
……ディアンに気付かれないよう、こっそりとしているつもりだろうが、その演技は察するに至る。
分かっていても、行動せずにいられないほど焦っていたのもあるはずだ。というのは、まだディアンの憶測でしかない。
ともかく、彼と話をしなければ何も確かめられず。その為には、やはり今は歩き続けるしかないのだと。
もう何度目になるか分からない、バレバレの窺いを眺めて……ふと、視界が開ける。
思わず立ち止まったのは、魔力に圧されたのではない。その光景そのものに、圧倒されたからだ。
そびえ立つ、なんて表現では到底足りない。それはあまりに巨大で、果てのないもの。
謁見の間から説明の場に移るまでの間、数分だけ見た外の景色。一等目立っていた巨木の前に、今、ディアンは立っている。
まだ木の幹まで何十メートルとあるのに、あまりにも巨大すぎて距離感が狂ってしまったかのよう。
木の根だけで全長を越えている、なんて可愛い想像だ。比べずとも、それが自分の何倍もあると理解してしまう。
根だけでそうなら、幹の部分など説明するまでもない。もし何も知らずにここに連れてこられていれば、木だと認識することさえできなかっただろう。
現に、この距離でさえも幹の端が視認できない。城ほどもある、とたとえられたって疑うことだってない。
枝と呼ぶべき箇所はあまりに遠く、ディアンの目では影すらも視認できない。だが、そこに灯る光が届いているのは、その数があまりにも多いからだ。
木の葉ほど、とは言えないし、周囲を飛び交う妖精よりも遙かに小さく弱いものだ。
だが、無数の光はまばらに散り、明滅し、確かにそこにあるのだと主張している。
まるで夜のように暗いはずなのに、溢れる光に照らされて、ただただ見惚れ、息を呑む。
「帰ってきたんじゃないわ、まだ用事があるのよ」
見惚れていたのも、マティアの声が聞こえるまで。慌てて追いかけようとして、立ち止まっている間に妖精に囲まれていると気付き、身動きが取れない。
せめて足元にいなければと、どう抜け出そうかと戸惑っていれば、大股で近づいてきた男に光がさっと散る。
「珍しいのは分かるけど絡まないの。あなたもよ、足から退いてちょうだい。……ほら、アンタもボサッとしてないで、こっち」
口調こそ偉そうではあるが、声色も、退こうとしない数匹を払う手つきも優しいものだ。ついでのように呼びかける声さえも同じく。
邪険にされたというのに妖精たちが機嫌を損ねた様子はなく、むしろ彼を歓迎するように周囲をクルクルと回っている。
予感が確信に近づいてきたところで、また囲まれる前にと追いかけた先に続くのは木の根元。
ここが目的地には違いないが、その理由はまだわからず。辿り着いた先は木の幹しかない。
「許可するわ、入って」
首を傾げることはなくとも、疑問はさらにディアンの頭を埋め尽くす。
入る。……入る、と言われても、扉のようなものは何もない。
悩むよりも先に腕を取られ、マティアが木の中に沈む。比喩ではない。文字通り、まるで水に沈むかのように。
戸惑う間もなかった。繋がれたままの手が抵抗もなく入り込み、そうして一歩進めば顔まで。反射的に目を閉じていなければ、瞳は焼かれていただろう。
そう思ってしまうほどの強烈な光に呻き、目を覆い、立ちすくんで数秒。
覆う指を小さな手たちが剥がしかかり、目蓋までこじ開けられてはたまらないと、薄く確かめた世界に、ディアンは呼吸を忘れてしまった。
「う、わ……!」
思わずそんな声が漏れてしまうほどに、そこは広く、高く、そして――色に溢れていた。
赤も青も緑も黄色も、この世に存在する全ての色がそこにあると思わせるほどに、その空間は大量の布で埋め尽くされていた。
横幅こそ王宮の書庫に比べれば小さい方だが、その高さも奥行きも到底比較できない。
上は天が見えぬほど、先は辛うじて果てが見えているのか。見えている範囲全てを覆い尽くす色彩の隙間から覗くのは、ここが内部であると主張する木目。
よくよく見れば、引き出しにも似た構造だ。ただ、そこに収まりきっていないのか、あるいは飛び交う妖精たちに引っ張り出されてしまったのか。今も頭上を漂う青色を見る限り、後者の可能性が高いようだ。
窓らしきものはないのに中は明るく、物で溢れているはずなのに煩雑に思わないのは、混沌を極めているのが頭上に限定されているからだろう。
ようやく視線を前に戻せば、幅の広い机と裁縫道具が整頓された状態でディアンを迎える。そのすぐ傍に置かれた数体のトルソーはどれも小さく、そして可憐な服が既に着せられていた。
「こら、そこは弄らないって約束でしょ。危ないから上で遊びなさい」
座っていたらしい数匹を指で摘まみ、息をかけて飛び立たせる姿は手慣れたもの。彼にとってはこれが日常で……そして、この場所こそが、目的地。
「す、ごい」
「とっ……当然じゃない。アケディア様がアタシの為に用意してくれたんだから」
ふふんと鼻を鳴らし、上機嫌であったのもそこまで。すぐに顔は曇り、再び絡む銀色に若干の後悔。
「とりあえず座って。体調は? どこか変なところもない?」
指の動きに合わせ、地面からせり上がったのは植物の蔦だ。複雑に絡み合ったそれが椅子の形になり、促されるまま座れば同じくマティアも腰をかける。
肘を机の上に置き、態度はとても心配しているようには見えない。だが……やはり、顔に出やすいタイプのようだ。
「今はなんともありません」
「そう。…………」
念のためヴェールは外せないが、不調と言えるものはやはり影も形もなく。残り続けているのは、連れ出された当初から抱き続けていた疑問だけ。
ようやく話ができると吐いた息をどう捉えたか、頬杖をつく仕草は、バツの悪さを誤魔化しているよう。
このまま感情に任せてなじるのは簡単だし、どんな理由があろうと彼は咎められなければならない。
彼の行為は、ディアンだけでなくエルドに対しても行われたもの。まだディアンが敷地から出たことを彼は知らず、そして伝える術もない。
その胸中を思えば、到底許せるものではない。
……だが、その根本を確かめるだけの余地はあるだろう。





