278.強欲
咄嗟に離れようとしたのは無意識。そこにディアンの認識は絡まず、故に力の入らない手足はただ体勢を崩しただけ。
跳ねたようにしか見えない足。クツリと笑う声は、ディアンに被さるように覗き込む男の口から。
短く刈り揃えられた頭部。吊り上がった目。知るはずのない姿。だが、唯一記憶に掠めるのはその声だ。
あの謁見の場で、真っ先に異議を唱えた男。本来はディアンを娶るのは自分だったと主張した本人。
強欲を司るその男は、舐めるようにディアンの姿を眺め、よりその笑みを深くする。
「妖精どもが騒がしいから来てみれば……こんなところで会えるとはなぁ」
細めた瞳の奥、籠もる熱はシュラハトから向けられた物と同じ。だが、あの時と違うのは、ここにエルドがいないということ。
思わぬ収穫だと喜ぶ男に、それでもディアンの身体は動かず。見上げ、その挙動を警戒する他ない。
もちろん、それで男が止まるはずもなく。むしろ、それしかできぬディアンに笑みは深まるばかり。
「あれだけ啖呵切っておいて自分の愛し子を放置してりゃあ、ざまあねぇな」
より覗き込むように、近づく顔を遮るのは動かぬ手ではなく、間に割り込んだ光。咎めるように響く可憐な音は男の指で呆気なく払われて、意味を成さぬもの。
気力を振り絞って展開させた障壁はあまりに薄く、魔力からも男からも守れるとは思えない。
「随分と可愛い抵抗だな。いいねぇ。……まぁ、長くもたねぇだろうが」
実際、鼻で嗤われたそれは、維持するのが精一杯。これ以上強くすることも、この場から逃げることもままならず。ただ、男の挙動を注視するしかできない。
目の前で屈まれ、物理的にも逃げ道を塞がれる。ギラギラと燃える瞳に、重なった奥歯の異音は押さえられるものではない。
「可哀想になぁ、無駄に苦しい思いをさせられて。同情するぜ」
吐かれる声に、言葉通りの意味は含まれていない。哀れみと、喜びと、渇望。隠しきれぬ欲は滲み、いつその手がディアンに触れてもおかしくはない。
視線は紫から首元へ。縋り、握り締める指へと移り、再びディアンへ合わさる。
「おいおい、お前が苦しんでるのはヴァールのせいだろう? それなのに、まだあいつを信用しているのか?」
「……今回の、件は、あの人が悪い、わけじゃない」
呆れる仕草は大袈裟に。されど、投げかける疑問自体に演技はない。
これが自分を揺するための戯言だと分かっていても否定を止められず、まんまと引っ掛かった子どもに、吊り上がる目は猫のように歪む。
「お前がそう思いたいだけだろ? ……あぁ、今までもそうやって言い聞かせてきたわけか」
心臓が跳ねるのは、心当たりがあるからこそ。否定しきれないのは、ディアン自身もそれを疑っているから。
違うと否定しているそれこそ、選択を間違えていないと。そう思いたいからこその自己暗示ではないかと。疑いの欠片がまだ、ディアンの中に残っているからこそ。
実際はそうではなくとも、言い切られるだけで説得力を持つ。
そんな僅かな揺らぎであっても、獲物を追い詰める男が見逃すことはない。
「今回のことも、今までのことも。あいつが最初から娶るなり諦めるなりすれば、お前の周りの奴だって狂うことはなかっただろうに」
カツカツと障壁を叩く爪先は丸い。鋭い牙も、垂れる涎も、ディアンの印象でしかない。
だが、そう。猫は猫でも大型の獣と相違なく、覗く歯はいつこの首に突き立てられてもおかしくはない。
そうだとディアンは分かっている。そして、ディアン以上に、弄ぶ男は確信している。
「お前の親父も、妹も、王女も、お前自身も。全部ヴァールのせいでこうなったんだもんなぁ」
「っ……悪いのは、エルドでは……!」
「あいつがさっさと娶れば、お前が加護なしだと馬鹿にされることもなく、フィリアが付け入ることだってなかった。お前の妹も父親も狂うことなく、王女様とやらが死ぬことだってなかった。……違うか? 違わねぇよなぁ」
言葉を返せぬディアンをどう捉えたか、クツクツと笑う声は粘り気をもって鼓膜に纏わり付く。
歯を食いしばり、唇を噤み、どれだけ睨み付けようと、たかが人間の視線に精霊が怯むはずもないのだ。
それも、こんなにも弱り切った人間相手に、誰が恐れを抱くというのか。
「そもそも、今だって娶るっていうんなら、さっさと番えばいいじゃねえか。そうしないってことは、やっぱり娶りたくないってことだろ」
ぐるぐると掻き混ぜられるのは胃だけではない。込み上げる不快感は、容赦のない言葉と魔力の両方から与えられるもの。
右か、左か。咄嗟に口を押さえたのは突き出していた手で、支えられていた障壁が大きく揺らぐ。
もう出せる体液もなく、出るのは嘔吐くのを堪える音ばかり。
「お前も分かってんだろ? 誰と契ろうとも、婚姻を結べば人間界に戻ることはできない。人間が大好きなあいつが、お前一人だけのために他の全部を捨てられるわけがないもんなぁ」
耳を塞ぐことも、その口を閉ざすことも叶わず。視線を持ち上げることも、今のディアンにはあまりに困難。
それでも抵抗する餌を弄ぶように、鋭利な爪はディアンの心を引っ掻き続ける。
「あいつの我が儘のせいで、今もお前はこうして苦しめられているわけだ。そして、捨てられると思いたくなくて、あいつの分かりきった嘘を信じようとしている」
可哀想。可哀想にと。繰り返される言葉に、違うと叫べれば楽になれたのか。
否定し、反論し、そうしてこの想いを伝えれば満たされたのか。
だが、ディアンは知っている。それは無意味だと。彼が求めているのは納得ではなく、人間そのものだと。
ディアンがどう思おうと、何を考えようと関係はない。それが人間である。それだけで充分なのだから。
「俺なら楽にしてやれるぜ? そうすりゃヴァールも人間界に残れるし、お前もこれ以上苦しむことはない。俺も伴侶を迎えられて、みんなが幸せになれる」
そうだろうと、同意を求める爪はディアンの顎に。滲む瞳を覗き込まんと、無理矢理上げる顔に力はない。
障壁が保たなかったことをそこで自覚し、吐いた息は小さく、弱々しく。
確かに、自分と番わなければエルドはこれまで通り人間界に留まれるだろう。
再び伴侶をあてがわれるかもしれないが、少なくとも、すぐに精霊界に連れ戻されることはない。
儀式を済ませれば、蝕んでいる全てから解放される。ディアンから望んだと言えば、アプリストスの婚姻だって許されるかもしれない。
それぞれの望みが叶う、最も手っ取り早い方法。
エルドが娶る意思がなく、そして人間界に帰れないのならば、そうするのも一つの手段だろう。
「……いいえ」
だが、その薄紫は歪むことはなく。そして、揺らいでもいない。
どこまでも強い光は、まだそこに。変わることなく、ただ、真っ直ぐに。
惑わされることはない。むしろ、鼻で嗤いたいほどだ。なんて勝手な言い分だと、馬鹿馬鹿しいと。
ディアンは最初から変わらない。決して、その誓いを違えることはない。
何を言われようと、何があろうとも。既に確かめ合った自分たちにとって、それは全て戯言なのだと。
その瞳は。その薄紫は。かの愛し子は、告げる。
「あの人と番えないのなら、僕は死にます」
お前と番うぐらいならば。エルドと共に生きられないなら、それを選ぶと。貫く光の報復は、胸ぐらを掴む手によって与えられた圧迫感。
「はっ、大人しく頷けばいいものを! 恨むなら、さっさと番わなかったヴァールを――ぐっ!?」
身勝手な言い分は、目に投げつけた土塊によって呆気なく途切れる。
解放され、地を蹴るはずだった足は蹲ったまま。息苦しさに咳き込み、揺れる視界に再び込み上げる酸味。
危機感が呆ける感覚の中で埋もれていく。麻痺していく思考を手繰り寄せても、もうディアンに天地の区別もつきはしない。
逃げなければいけないのに動けず、打開策を考えることさえもできず。恐怖さえも奪われていってしまう。
光が飛び交うのは、ディアンを助けようとする妖精たちの攻防か。それすらもディアンの幻覚なのか。
甲高い耳鳴りに支配され、喚く言葉が本当に投げかけられたものかもわからず。縋る首飾りの温もりさえも、もう。
駄目だ。このままでは、駄目なのに。
エルドと生きていけなくなる。あの人の元に、戻れなくなってしまうのに。
滲み、歪み、溶けて。振り絞った息は諦めか、それとも嘆きか。届きもしない救いの手であったのか。
その額が地に擦れたことさえも自覚できず、明滅する世界が一瞬で黒に覆われる。
――途端、全てから解放された。





