272.アケディアの伴侶
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ディアンが精霊界に来て、おそらく一日が経過した。
断定できないのは、精霊界に昼夜という概念がなく、窓の外がずっと明るいせい。
その上、ディアンの容体が悪化しないようもう一度眠っていたのだから、時間の経過が曖昧になるのは仕方のないこと。
人間界では夜が明けたという知らせで、ようやくその事実を知ったのだ。
眠る前よりは身体は楽になったが、それでも万全とは言えず。障壁の外へ出ればすぐに耐えられなくなるとは、言われずとも理解したこと。
状況は依然悪いまま。だが、眠っている間に、アピスとアケディアの話はついていたようだ。
その会話がどのように交わされたか、報告だけでは雰囲気を知ることはできない。アピスからは、承諾を得た、の一言のみ。
あの謁見で向けられた怒りからして、そう簡単に話が進んだとは思えないが、詳しく聞くことは許されず。
今はただ、そのアケディアの伴侶が来るのを待っている。
「すまない。本来なら私が共に残るべきなのだが……」
「いいえ。ここまでしていただいたこと、感謝しています」
謝罪するアピスに対し、振った首の重さも昨日よりは軽いもの。
万事を期すなら、アピスが残っている方が確かに心強いだろう。伴侶の統括者でもある彼女がディアンと共にいるなら、それだけで不要に関わろうとする精霊は減る。
だが、その立場故に彼女にもしなければならないことが多い。
精霊界で最古の伴侶。彼女でなければ対処できず、また助けられない他の伴侶もいる。
最優先事項には変わらずとも、彼女の立場を考えればディアンだけに手を割く訳にはいかない。
シュラハトを説得してまでディアンを匿ってくれているのだ。その上で、ディアンを人間界に帰るための手段も探してくれるならば、十分だと言える。
自然と出た感謝の言葉は、アピスの眉を広げるには至らずとも、瞳を和らげることはできたようだ。
「できる限り、私もシュラハトも情報を集める。まずは無事にインビエルノ様が人間界にたどり着けるかだが……」
視線はともに下に落ち、ディアンの足元へ。こちらを見上げる姿は、昨日から変わらずディアンにとっては馴染み深いもの。
屈んだところでその視線は同じにはならないが、近づくことはできる。
「ゼニス……」
「私のことより、自分のことを心配してください」
突き放すようにも聞こえるそれは、ディアンの身を案じるものだ。
もし門が昨日と同じ状態になったとしても、精霊に並ぶ力を持つゼニスならさして影響は受けない。
そのうえ、ゼニスが帰ってくるかの検証まではエルドたちが付き添う。
無事に人間界に戻れたか確認する方法があるかはともかく、少なくとも今危惧すべきはディアンの方だと、見上げる蒼は訴えかける。
「精霊界のどこかに誤送されたとしても、それなら自力でここまで戻ってこれます。聖国から離れた位置であっても、私の足なら大して時間はかかりません」
ポルティ……俊足の精霊にはさすがに適わないがと。
笑えないのは冗談なのか本気なのかわかりにくい言葉ではなく、それでも取り除けない不安のせい。
落ちかけた瞳に差し込まれるのは、獣特有の突き出された口。軽く肩を押され、向き直った瞳に宿るのは暖かな光。
「焦る必要はありません。私なら大丈夫ですから」
「……うん。でも、どうか気をつけて」
それでも心配はさせてほしいと背を撫でれば、苦笑するように細められる瞳に、ディアンの表情もつられる。
……ゼニスの言う通り、自分の身を守ることを優先しなければならない。
分かっていても胸は重く、それは魔力の負荷のせいだけではないのは、言われずとも。
「ディアン。俺たちが出て行った後は、絶対に敷地から出ないように。万が一、誰かが来た場合はマティアに対応を任せるように」
促され、立ち上がり。改めて言い聞かせられるのは、昨日も言われたものと同じ。
違うのは、付け足された聞き慣れない単語。その人物を指す言葉。
「アケディア様の伴侶ですね」
思い出すのは、綿毛のようなフワフワとした容姿。頭の先からつま先まで、全てが白に包まれた少女。
その隣にいた色彩鮮やかな存在も同時に思い出し、あの鋭い視線に抱くのは形容しがたい後ろ暗さ。
……アピス様の要望と言えど、よく許してもらえたものだ。
あるいは、彼女もまた、伴侶を個人ではなくただの人として見ているのか。
彼女にとって、彼女が守っている妖精たちが失われた原因はディアンにもある。そんな者の元に、自分の伴侶を協力させるとは。
「そうだ。癖は強いが、根は悪い奴ではない。苛立つこともあるかもしれんが、幼稚だと聞き流してかまわない」
確かに見た目は少女そのものだが、癖が強いようには見えなかった。いや、あの場では姿を見ただけで、実際の性格までを知っているわけではない。
とはいえ、ディアンにとっては先輩にもあたる存在だ。聞き流す……のは、少し厳しいかもしれない。
「確か、服飾の才があったとか。トゥメラ隊の鎧も、マティア様が考えたものだとお伺いしました」
ロディリアの話では、アケディアの伴侶に選ばれたその日から、アケディアを着飾ることが使命だと宣言し、その日から彼女のための衣装をあつらえ続けていたという。
実際に精霊界に持ち込めたのは数点。それ以外の、膨大な数の試作品はまだ王宮の一室で保管されているとか。
トゥメラ隊の鎧も、今の物に変わったのは彼女がロディリアに直訴したからとは聞いていたが……。
「トゥメラ隊だけじゃなくて、アピスの服も彼が考えてくれたんだよ。それで精霊王とも揉めて、例の毒を賜ったってわけさ」
懐かしいねと笑うシュラハトは、口調通り笑い話と思っているのだろう。アピスにとっては今でも思い出したくない光景だと、しかめた眉が語っている。
だが、違和感は相対する反応ではなく、その彼の口から語られた言葉に対して。
言い間違いかと、そう問いかける前に響いたノックの音に僅かな緊張。
「……マティアです」
僅かな沈黙の後、響いたのは真のある高音だ。ロディリアやアピスとは違う響きに、快く迎え入れるシュラハトの声。
それを合図に扉が開き――飛び込んできた色彩に、目を見開く。
スラリと伸びた身長。シュラハトには劣るも、輝かしい金の光に紛れる様々な色。複雑に編まれた髪は、一度見れば忘れることはない。
銀色にも見える瞳を縁取る化粧も、その身に纏う服も同じく。カツン、とヒールの音を響かせながら入ってきたのはディアンがアケディア本人と思っていた人物。
想像と現実の乖離が強すぎると声すらも出なくなるのかと、そんな発見に耽る間もなく、足はアピスたちのそばで止まる。
「ディアン、こちらがさっき言っていたマティアだ。マティア、挨拶を」
促され、それでも口を開かず。見下ろす瞳は、不満であることを隠しもしていない。
もう一度、咎めるように名を呼んでようやくその頭が僅かに傾き、編まれた三つ編みが揺れる。
「……お久しぶりです」
「マティア。挨拶の仕方は教えたはずだが」
「…………アケディアが伴侶、マティアと申します」
長い沈黙は、息を殺したものだろう。相手によっては不敬だと罰せられてもおかしくない。
「すまないディアン。この通りの相手だ、あまり気にしないでくれ」
「あ……い、いえ……」
咎めるのも時間の無駄だと、そう判断するアピスの視線がディアンに戻れば、同時に強い瞳もディアンの元へと注がれる。
突き刺さるそれは明らかな敵意。……心当たりは、十二分に。
「ヴァール様」
「……撤回はしない。我が伴侶に害を与えないのであれば、多少は目を瞑る」
硬い言い回しは、それだけエルドの気に障っているということ。
だが、確実な味方が少ない現状、選り好みはしていられないと諦めたのか。
そもそも、久しぶりということは、一度は面識があるということ。マティアの性格の難しさはエルドも理解していたこと。
ゼニスの代わりに置いておくのに納得できるだけの信頼は……おそらく、あるのだろう。
「ディアン」
呼びかけられ、逸れていた視線がエルドの元へ。薄紫に見つめられ、そこでまた強ばっていたことを自覚する。
「……なるべく、早く戻る」
だから心配することはないと。ここで待っていてほしいと。
頬に触れた手は温かく、自然とディアンも手を重ねる。
不安なのは彼も同じ。それでも、互いに望む結果のために行動してくれるエルドに対してディアンができることは、ここで彼を信じて待つこと。
そう、大丈夫。……ディアンは、彼を信じている。
「二人とも、どうか気をつけて」
頷き、見つめ合い。そうして、ゼニスへもう一度別れを告げて、温もりが離れていく。
「マティア。くれぐれも彼を頼んだ」
アピスからの念押しに返答はなく、行ってくるという言葉に反応したのはディアンだけ。
そうして、扉が閉まった後に残されたのは、気まずい静寂。
……嫌われているのは疑いようもない事実。だとしても、こちらから何も言わないのは失礼にあたるだろう。
せめて挨拶だけはしておくべきだと、そう向き直ろうとしたディアンに降りかかるのは隠す気もないため息。
「ほんっと、サイアク……」
だが、怯んだのはその息の大きさではなく、続けて吐かれた声の低さに対して。
どう聞いてもそれは女性とは思えない……否、完全に男のもの。
思わず見やったその瞳は、変わらずディアンに冷たい視線を向けている。その派手な化粧に意識をとられていたせいで、ずっと気づかなかったのだ。
その喉に突出している、喉仏の存在に。
「あ、の……」
「言っておくけど」
それでもと、絞り出した声は突きつけられた指と共に押し込められる。
爪に塗られた赤は、まるで彼女――否、彼の怒りを表しているかのよう。
「アタシ、あんたのこと、大っ嫌いだから」
話しかけてこないでよね、と。睨み付ける銀色に、ディアンから出せた言葉は一つもなかった。





