271.『勝つ』ために
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「……で、結局踏ん切りがつかないってわけだ」
呆れる息は、狭い空間にはよく響く。木目の晒されたテーブル、人数分の椅子。周囲に置かれた他の家具も、人間界にあるものと大差ない。
質素すぎる印象を抱くのは、それまで目にしてきた光景があまりに幻想的だったからだろう。
今は落ち着きやすい場所だと思い始め、ここの家主であるシュラハトたちの方が浮いて見えるほど。
子どもの姿に戻ったシュラハトが頬杖をつき、もう一度深く息を吐く。咎めるアピスの声も、口調ほど厳しくはない。
ジトリと睨む金の瞳に対し、見られているエルドの顔は涼しいものだ。互いにこの反応は予想していた通り。差しだされた紅茶の湯気は、そんな冷たい空気を暖めるには到底至らず。
「それで? これからどうするわけ?」
「人間界に戻る方法を探るしかない」
「それはそうだけどさぁ……」
真上からカップを掴み、指の間から啜るなんて器用な技を披露した後。最後の溜め息が鼓膜を揺らしたことで、ようやく無意味な睨み合いが終わる。
「さっきも言った通り、精霊王はこのまま儀式を進めさせたいと思うよ。君らが二人きりになった隙に実力行使もあり得る」
「だからこそ、ここに一度避難したんだろ」
「そうじゃなきゃ入れてないっての! 仕方なくだって分かってる!?」
全く、と悪態付いて、どこからか取り出したクッキーを貪る姿はまさしく拗ねた少年と同じ。
全身で不本意だと主張するシュラハトを横目に、アピスが同じ菓子を差しだしてくれるが、盛られた皿はディアンの前にだけ。
「本来、その精霊が住む空間に他人が入るには当人の許可がいる。……まぁ、これは人間界でも同じだが、許可がない者は空間に弾かれるので、入れないと言った方が正しい」
「……障壁と同じでしょうか」
「術者がいなくても発動するあたりは、障壁というより絶対に破れない鍵に近いな」
「僕が嫌って言ってもアピスが許しちゃったら鍵の意味もないけどね」
菓子の破片を手で払い、喉を潤すためにお茶を一口。今度は普通に傾けた……なんて考えてしまうのは、いつもの現実逃避なのか、まだ頭が回っていないせいなのか。
体調を問われ、大丈夫だとは答えたものの、まだ少し怠い。
「まぁ、どれだけ尽力しても犯人は見つけられないだろうね。魔力を辿ろうとしても足が掴めなかったし、他の連中だってほとんど協力するとは思えない。むしろ、これ幸いに他の奴らもちょっかいを出してくる可能性がある」
「愛し子を奪うなんて恐れ知らずはいないでしょうが……善意でからかいに来る者はいるでしょうね」
ディアンの足元に触れる柔らかさは、ゼニスの尾から。
親しんだ姿に戻っているのは、ひとまず警戒する必要がない、ということだろう。
状況は依然悪いままだが、それだけでもディアンの気持ちを落ち着かせてくれる。
……一番安堵できるのは、言わずもがな。隣にエルドがいるという事実であるが。
「デヴァスは味方だろうけど、頼りにはならないよね。こういうことには向いてないから」
「……あいつというよりも、ネロがな。口止めしても、うっかり誰かに零しかねない」
確かに頭脳派ではないと精霊記にもあるが、頼れないほどであっただろうかと。浮かんだ疑問は顔にも表れていたらしい。
エルドの説明で、納得してしまうほどには、ネロの迂闊さはあまりに有名なこと。
デヴァスがどれだけ気を付けていようと、ネロが悪意なく漏らしてしまえば意味がない。
とはいえ、婚姻を結んでからデヴァスとネロは常に行動を共にしているおしどり夫婦。彼女だけに隠すことは厳しいだろうし、むしろ隠した後の行動の方が恐ろしい。
犯人を突き止めた後の抑制であれば話は別だが……今はまだ頼るわけにはいかない。
「可能性は低いとしても、どこに犯人が潜んでいるか分からない以上、武具連中にも頼めないし……やっぱり、君が主体で動くしかないんじゃない?」
「ロディリアから返答は?」
ディアンが気を失っている間に、人間界にも連絡を取っていたのだろう。
いつまでも戻ってこないディアンたちに、異常が起きているのは彼女も察しているだろう。その内情を伝えられれば、帰る手立てを考えてくれるはず。
だが、問われたアピスの首は否定を示すもの。
「何度か伝えようとしたが、これも妨害されている。妖精の行き来と聖水の流れを見る限り、門そのものに問題はないが……」
「聖水の流れ、というと……人間界に流しているという?」
今はディアンのお気に入りの場所ともなっている、聖国での一室。中庭を模した空間に置かれた、アピスとシュラハトの像。
そこから流れる聖水が、門を介して精霊界から直接人間界に流れているという。
水は王宮内を巡り、山を下っているうちに人間界の空気に触れ、魔力が抜けて、害のないものへと濾過されていく。
有事に備えて各教会に配布されている聖水は、すなわち濾過される前の精霊界の水ということだ。
「その水を運んでいる場所から、人間界に出ることは?」
「聖水用の門は、謁見が終わった後に連れて行ったあの湖の中にあるが、到底人が入れる大きさではない。かといって無理に入り口を広げようものなら、聖国が沈没するだけの水害も考えられる」
常に水が供給できる場所。そのうえで、人間界側で耐えられるだけの水圧。充分に濾過できるだけの環境。全てが計算された上で設置された門であれば、そう簡単に変えることはできない。
「僕から離れた位置で門を展開させてみるのは……」
「だめだ。安全である確証がない以上試したくはない」
浮かんだ希望も、代替案も、どちらも呆気なく潰えて肩を落とす。
門については、精霊であるシュラハトやエルドの方が詳しいのは当然だ。ディアンが思い浮かぶ程度のことは、既に試すなり考えるなりしているだろう。
だからこそ、八方塞がりだと頭を悩ませている状態だというのに。
「こちらでも方法は探すが……人間界から試す価値はあるだろうな」
「だが、ロディリアに伝える手段がないと言っていただろ」
「伝令は無理でも、直接赴くことはできるかもしれません」
先ほどと言っていることが矛盾していると、エルドの眉が僅かに寄る。見つめられたアピスは怯むことはなく、されど紡ぐ言葉に自信はないもの。
「もし、ディアンの魔力に反応してこちらを妨害しているなら……彼から離れれば、それ以外の者が通ることは可能ではないかと」
「――却下だ」
青はディアンの足元。同じく、アピスを見つめる蒼へと注がれる。その視線の意味を、改めて言葉にする必要はない。
だからこそ、音になる前に遮る声は鋭く。睨む瞳も、一段と鋭いもの。
「ゼニス以外に、こいつを任せるつもりはない」
エルドにとっては、アピスもシュラハトも、この件においては安心できない相手だ。
味方ではあっても、だからといってディアンを第一に考えることはない。だからこそ、フィリアが近づいた際も逃がすのではなくただ匿うだけで済ませ、ディアンにいらぬ負担を強いた。
たとえアピス自身はそれを望んでいなかったとしても、それを止められない立場であるならば、エルドにとっては同罪。
アピスからすれば、ディアンは守るべき他の精霊の伴侶。導かなければならない新たな『選定者』。それでも、何もかもかなぐり捨てて守るだけの義務はない。
それを責めることはできない。だが、納得するわけにもいかない。
「でも、アピスは人間界には戻れないし、僕が行ったってロディリアが困るだけだ。なら、インビが一番適任だと思うけど?」
それを任せられるのはゼニスしかいないのだと、唸る男を遮るのは己の伴侶を睨まれた精霊。
「戻せない」ではなく「戻れない」というのは、言葉の綾ではなく、その通りなのだろう。
そして、シュラハトを憎んでいるロディリアの元に彼を向かわせることはできない。そもそも、彼が向かえばペルデの容体にも関わる。
……彼は、人間のためにその魔力を抑えることはしないだろう。
「この状態で、こいつを連れ歩けとでも」
今は建物ごと張られた障壁と、エルドの魔力のおかげで身体の負担もマシにはなっている。だが、一歩でも外に出れば、再びその身体は地に伏せてしまうだろう。
多少耐えられたとしても、ディアンの命にも関わる。そばにエルドがいたとしても、絶対に安全とは言い切れない。
だが、他の精霊の協力を仰げないのであれば、エルド自身が調査するしかない。そして、やはりディアン一人を放置することは……それこそ、エルドにとっては考えたくもないこと。
やはり儀式を、とはディアンも言わなかった。
共に足掻くのだと決めたのだから。その上で選び取るのだと、そう彼と約束したのだから。
机の下。怒りに戦慄く手を握り、包み込んでも震えは止まることはなく。
「分かっています。ですので、信用できる者……アケディア様の伴侶を、彼のそばにつけるようにいたします。性格に難はありますが、少なくとも我々の敵ではありません」
「……あいつか」
納得されないのは当然のこと。理解していると答えるアピスに対し、驚いたのはディアンだけ。
思い出すのは白く小さな……ディアンよりも遙かに幼い少女の姿。
同時に、わずかに抱く違和感の正体に気づかないまま、エルドとゼニスの視線が絡む。
時間にしてほんの数秒。その間、言葉はない。否、そんなものがなくとも、意図は十分に伝わったのだろう。
「……犯人ではない、という意味なら確かに信頼はできます。それに、彼の安全を守ることも重要ですが、そればかりに重きを置くわけにもいきません」
「こちらに戻れる保証はない」
「だとしても、試す価値はあるかと」
ディアンを一人で放置することのリスクは、ゼニスも理解していることだ。だが、こうしている間もディアンの体力は削られ、またいつ耐えられなくなってもおかしくはない。
最善を尽くしたいのはどちらも同じ。だが、そうできないのならば……。
「あのさぁ、あれもこれもなんて我が儘言わないでよね」
答えが出ないことに焦れたのか、苛立った声に顔を上げれば、剣呑とした瞳が貫いてくる。開いた瞳孔の中、チラつく光は決してその色だけではない。
わずかに強まる魔力は、そうしている本人にとって無意識のもの。
それは怒りでも威圧でもなく……きっと、渇望であるのだと。
「勝ちたいんだろ? 精霊王にも、こんな妨害してくる奴にも。そのうえで、君の望んだとおりに儀式がしたいんだろ? だったら、潔く諦めてもらわないとさぁ……勝てるわけないだろ」
これは『戦』のはずだと。武具を手に取らずとも、その相手が定かでなくとも、それは確かに『戦い』なのだろうと。であれば、それは自分の性分であると。
その欲望はエルドに選択を迫り……やがて、薄紫は一度、伏せられる。
再び開いたそこに、もう迷いはなく。
「――分かっているな、アピス」
ゼニスを向かわせられるだけの信頼が本当にあるなら。真に敵ではないとしても、危害を加えてくるのであれば……それは、その者だけではなく、そうだと主張するアピスにも咎を求めると。
そうでなければ頷くことはできないと諦めるエルドに、見つめる青は揺るぐことはなく。
「……アケディア様に許可をいただいてきます」
そして、答える声も震えることはなかったのだ。





