270.選択と我が儘
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それこそ、まさに突き立てられた杭のように、強くディアンの心を抉るもの。
掻き抱くように背中を握られなければ、きっと今も息は止まっていただろう。押し出された肺から出たものだって、実際に呼吸であったかも定かではない。
「え、る、」
「お前が、俺の傷を恐れたのと同じように。俺もお前が苦しむことを、恐れている」
分かるはずだと、手の力は強まる。もうそこに傷はなく、滲む血だって存在しない。
それでも、その恐怖は。怒りは。悲しみは、形が消えても強くディアンの中に刻まれたまま。
同じなのだと、エルドはなおも強く、強く、訴える。
「……俺は、お前の救いにはなれないのか」
それは。それは、問いではなかった。責める響きはディアンではなく、呟いた自分自身に向けられたもの。
ここに来てからずっと傷つけてばかりだと。嘆き、怒り、苦しめ続けていることに、誰よりもエルド自身が苦しんでいる。
「っ……違います!」
今度こそ、否定は詰まることなく紡がれた。偽りなく、ディアンの想いを表すように。
「違います、でも……っ」
僅かに距離が離れ、見上げることが許されて。続けようとした言葉は、薄紫の光で再び喉の奥でつかえる。
違う、違うのだ。ずっと彼は助けてくれた。ずっとディアンと共にいてくれた。
この地の危険性も、精霊の異常さも、その理不尽さも。誰よりエルドが知っていたのに、それでも共に来てくれた。ディアンの選択を優先してくれた。
だからこそ、傷付けているのは……そうなる原因を作ったのは、他でもない自分自身で。
「っ……僕の、せいで。あなたを、傷付けて……」
「違うというのなら、そもそもそこから間違ってるだろ」
狭まる眉、強くなる眼光。咎める口調であっても、そこに含まれる真意をもう間違えることはない。
「お前の言葉があったからこそ、俺はここに来ると選択した。お前がお前自身の意思で選び、共にいると願ってくれたからこそ、俺はここにいる」
そうでなければ、ここにはいなかったと。いたとしても、それは自分の意思ではなかったのだと。
選択ではなく強要されたとして、この地に戻ってくることになったと。
結果としてはどらちも同じ。だが、その意味は大きく異なることを知っているはずだと。訴える瞳の光は強く、強く。
「俺は確かに、お前の意思を尊重する。だが、それは全てを愚直に受け止め、許しているわけではない。お前に説得されたことは否定しない。だが、お前がそれで背負うのは違う」
自分のせいだと。傷つけていると。責任を。苦痛を。葛藤を。後悔を。
……そして、恐怖も。
震える呼吸は、どうしたって、ディアンの言葉を紡がせてはくれない。
「共に分かち合うと言っただろ。だったら、お前が今抱えているものを俺にも分けてくれ」
再び寄せられた身体は包み込まれて、だけど苦しいのは彼に締めつけられているからではない。
胸底に食い込んだ衝動が、じわじわと解けていく。そうしてはいけないと、気付いてはいけないと、繋ぎ止めようとする理性は、頭に添えられる手でふつ、と千切れる。
「……辛い思いをさせて、悪かった」
いよいよ衝動は熱になり、瞳を満たす。そうでなくとも、既に世界はエルドの肩に覆われて暗いまま。
隠されているせいで隠すことができず、涙は零れる間もなく吸い込まれていく。
本当は。……本当はもう、とっくに限界だったのだろう。
ほんの少しの切っ掛けで崩壊してしまうと分かっていた。分かっていて目を背け続けていたのは、そうしなければ耐えられなかったからだ。
平気だと思わなければ。大丈夫だと、そう思い込まなければ、ここで正気を保つことはできないのだと。
そうでなければ、エルドの愛し子であると、認められないのだと。
震えた指で縋り、握り締めた手の中。何度と確かめた首飾りの温かさも、今はディアンを助けてはくれない。
辛い思いをさせているのだと。自分のせいで、連れてきたのだと。だから、自分は大丈夫だと言わなければ、彼をもっと傷付けてしまうのだと。
平気なふりをしなければ、平気だと思わなければ、きっと認めてもらえなかったから。
そうだと突きつけられてしまったから。そうであると、この目で見てしまったから。
だからディアンは耐えていた。何度正気を失いかけようと、精神が削られようと、その身が恐怖に掻き立てられようと。
……そうだと気付きたくないと、そう願い、縋っていたことすら無意識のままに。
耐えなければならなかった。それこそ、エルドの言う通り、ディアン自身の限界を超えたとしたって。
そうでなければ。そうで、なければ、
「あ、なた、と」
落ちていた手が、背中に触れる。握り締め、掴む服をもう離すことはできない。
限界だった。怖かった。それでも耐えたのは、耐えなければならなかったのは、
「離される、と、思っ……て……っ……!」
浴びせられる無数の視線。自分ではなく、ただ人間であれば誰でもいいのだと求める者たちの心なき声。
謂われなき罪を償うよう強要され、それでも耐えきったのはエルドと共に生きたかったから。
彼と生きていけないと。エルドと引き剥がされると、そう突きつけられていたから耐えなければならなかった。
他の精霊と契ることではない。エルドと離れることが、彼の愛し子でなくなることが、彼と共に生きる資格を失うことが、何よりも恐ろしかったから。
耐えなければならなかった。どれだけ世界が明滅しようと、心臓が悲鳴を上げようと、肺が潰され息もできず、胃の全てが明らかになったとしたって。
どんな苦痛だって、どんな恐怖だって耐えなければならなかった。
エルドと引き離されるぐらいならば……彼と、共に生きていけないのならば!
「わかっている」
語りかける声はディアンに伝わるように、ゆっくりと。わかっているのだと囁く声は、ディアンがずっと、ずっと求めていたもので。
「わかっている、ディアン。……わかっている」
だからこそ、言わなければならなかったと。止めなければいけなかったのだと。男の声は強く、ディアンに響く。
「よく、耐えてくれた」
それは。それは、あまりにも優しく。だからこそ、耐えられるものではなかった。
亀裂は胸を裂き、堰き止められていた感情が喉を通って呻きに変わる。
顔を埋め、声がくぐもっても、もう抑えることは……耐えることはできない。
怖かった。ずっとずっと、怖かった。この腕の中に戻りたかった。彼のそばで、生きたかった。
そうできないのなら、それ以外を捨てていいのだと思うほどに。その恐怖に駆られるのであれば、いっそそうしたいと願ってしまうほどに。
だけど、もう一人で耐えるなと。耐えなくていいのだと。そう伝えるように、伝わるように、抱きしめる腕は、今やかき抱くかのように。
「シュラハトたちが言っていることは正しい。お前を今、ここで抱いて迎え入れるのが最善だとも分かっている。お前の不安を取り除くのも、それ以外に方法がないことも分かっている」
それでも選べないのだと。それだけは、まだ選べないのだと。ディアンよりも苦しみ、縋る男が振り絞る声は辛いもの。
「だが……お前が人として生きられる期間はあまりに短い。それは漠然とした終わりではなく、明確なものだ。ただの死ではない。たとえあの地に戻ったとしても、お前はその違いを突きつけられることになる。それは……お前が覚悟している以上に、残酷なものだと俺は知っている」
生の終わりではない。人としての終着点。人ではない存在へと変わること。そして、その者たちが抱えてきた傷。
ずっと自分たちを見てきた彼だから。ずっと守り続けてきてくれたエルドだからこそ、それを知っている。
「だが、それはお前が持つべき権利だ。既にそうなると定まり、その期限も分かっている。それでも……それは、お前が大切にしなければならないものだ」
だからこそ、今を。今この時だけなのだと、人を愛し続けた精霊は願う。
「……頼むから、簡単に手放さないでくれ」
誰よりもディアンを愛しているからこそ。ディアンの幸せを願っているからこそ、その権利を捨てないで欲しいと。
どうか、こんな形で人としての形を諦めないでほしいと。いつかディアンからそれを奪う男は……それでも、望まずにはいられないのだ。
「っ……ですが、エルド」
「ディアン」
状況は緊迫していることは分かっている。その上で、どうしてもそれを選べない男が名を呼ぶ。
「……俺にできる限りのことをする。だから、少しだけ時間をくれ」
怒り、葛藤し、その上で導き出した選択なのだろう。諦めきることもできず、だけど受け入れることもできず。
それは自分の我が儘だとエルドも分かっている。だからこそ、その声は苦しく、微かに震えているのだ。
「お前をすぐに迎えたいのと同じほどに、俺はまだ、お前を迎えることができない。お前が犠牲になるような形でなど、望んでいない。……だが」
それでは、今までの『選定者』と同じだと。それでは意味がないのだと、薄紫は揺れる。
……それでも、その時が来てしまうのなら。それが、もし今であるとするならば。
「全てを尽くし、それでもどうしようもなければ……その時は、今度こそ諦めてくれ」
すまないと、謝る光が滲む。その未来を思いたくないのに、その可能性がどうしたって消えないのだと。
これ以上ディアンに何も強いたくはないのに、自分では及ばないのだと。苦しむエルドに、伸ばした手は握りしめた拳に触れる。
「……いいえ、エルド」
ほどいた中に滲むのは赤ではなく、彼の握り潰したかった想い。それごと手を重ね、首を振るのは精一杯の否定。
だが、それはエルドの恐れているものではないのだと。絡む指は柔らかく、優しく。
「僕は諦めて選ぶんじゃない。……あなたと生きることを望んだのは、僕です」
その形がどうなろうと。たとえ、このまま人としての道を外れるとなっても。
ろくな別れも告げられぬまま。もう二度と親しい人に会えなくなったとしても……それでも、彼を失うこととは比較にもならない。
薄情者だと罵られても仕方ない。それでも……ディアンだって、それしか選べないのだ。
彼と共に生きる道を。エルドの傍にいることを。
「だから、信じます。あなたが、あなたにとっての最善を選ぶことを」
紫は力強く。その覚悟を持って、滲む薄紫を見つめる。その色がこぼれ落ちてしまう様は、抱きしめられたディアンに見ることは叶わず。
いいや、見えたところで意識はできなかっただろう。
離れたくないと、離したくないと。未だに胸に巣くう恐怖を誤魔化すように込めた力は、同じだけの想いで返された。





