269.その怒りは
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それは質問の体であったが、確信を持った響きだった。決定事項だと突きつけなかったのは、アピスを少しでも納得させるためだろう。
それがディアンの意思であると。自分たちが納得した結果なのだと。
この先にすべきことを。何を選ばなければならないかを、ディアンはもう分かっている。
選択の権利はあっても、その余地はない。示されずとも理解していることだ。
精霊の人間に対する執着も、その異常さも。精霊王の命があっても行動に移すだけの執念を。
今こうして無事なのは、偶然が重なった結果。そして、それが長く続かないことだって。
ここに足を踏み入れてから息苦しさが終わらない。楽になっても、それは一時のことだ。
長居できぬ場所だということは、ロディリアからもアピスからも知らされていたこと。普通の人間とは違い、耐性がついていることを考慮しても、好転することはないだろう。
だが、帰る手段は封じられ、その犯人を捜し出すことも困難。
シュラハトの話が真実であれば、オルフェン王も元凶を探すのではなく、儀式を行うことを勧めるのだろう。むしろ、彼としてはそれこそが狙いだったのか。
もしこれがオルフェン王の仕業であるなら……それこそ、エルドにもどうしようもないことだ。
真相はわからない。わかっているのは、己のすべきことだけ。
答えは決まっている。シュラハトの言う通り、一年も待つ正当な理由は存在しない。
教育だって義務とは言われているが、それは通常の『選定』においてのこと。
既にディアンは成人を迎え、『選定』を終わらせている。覚えなければならないことは多々あっても、婚姻を終えた後でも補えるのは事実。
ディアンだって分かっていた。教育はただの言い訳で、本当は覚悟を決めるまでの期間であることを。
脳裏によぎるのは、ろくに別れも告げられなかった者たち。
女王陛下。リヴィ隊長。イズタム。グラナート司祭。……それから、ペルデ。
父や妹の姿も浮かんで、そもそも最初から別れを告げられたはずもないと、落ちた瞳に映るのは皺の寄ったシーツだけ。
……そうやって悩む余地さえもないと、一度閉じた紫に宿るのは、そうであるという覚悟。
だからこそ、ディアンの声は紡いだ。分かったと。分かっていると。全てを受け入れると。
確かにその喉はそう発し、音になったのだ。
だが、それは誰の耳に届くこともなく。唇は分厚い手に覆われ、圧迫された肉の違和感に行き場を失った息が鼻から抜ける。
突然のことに呻いた声さえも、まともに聞こえることはなく。言葉を奪ったエルドを見上げようとして――途端、襲い来る魔力の圧に、今度こそ息を奪われる。
「全員、出て行け」
光が散る。それはこの身で初めて受けた洗礼よりも、あの謁見で発した物よりも、もっとずっと強く、痛いもの。
甲高い耳鳴りに聴覚が奪われているはずなのに、その声は紛れることなく鼓膜を揺する。
淡々とした。されど、抑えようのない怒りに満ちたエルドの声が。
「ちょっ……まさかここで始める気じゃ……!」
二度目は言わないと、そう告げるように濃度が増す。エルドの魔力でなければ、再び胃の中がせり上がっていただろう。
そうでなくとも震えが止まらない。突き刺さるのは魔力だけではなく、己に向けられる視線も同じ。
指先一つ動かせず、呼吸すらもままならない。
怒っている、なんて表現は生易しい。少しでも身動げば、それこそ、そのまま首を絞められると。そう思うほどの感情に貫かれ、込み上げるのは吐き気ではなく恐怖だ。
そう、今ディアンは恐れている。誰よりも安心できるはずのエルドに、恐怖を抱いている。
こんなにも激高したエルドを、ディアンは知らない。今まで何度もその片鱗はあったが、明確に突きつけられたことはなかった。
だが、当然だ。彼をこうなるまで怒らせてしまったのは、他でもない自分なのだから。
いつの間にかシュラハトたちの姿は消え、この場にいるのは二人きり。開くことのない扉から目を反らせぬまま、口元を解放されても息は戻らない。
肩を掴む力は強く、同じぐらい強く目を瞑ったのは痛みではなく。
斜め後ろから真正面に向き直され、貫いてくる薄紫を見上げることができない。
来たくもない場所に無理矢理連れてきて、傷つけたのは自分なのに。彼はずっと拒んでいたのに、我が儘を言って、いざ怒りを向けられて怯えるなんて。
どこまでも卑怯だと、自分でも分かっているのに身体が動かない。
分かっているのに、目が滲みそうになる。深い溜め息に肩が跳ねて、震えが止まらない。
受け止めなければならないのに。このままではダメなのに。
目を、目を開けて。ちゃんと、向き合わなければ、いけないのに。
だが、覚悟は固まることはなく。襲いかかった衝撃に頭まで真っ白になってしまった。
殴られたのかと、そう錯覚したのは、身体を包む温度を感じるまでの数秒。抱きしめられていると気付いたのは、それからもっと後。
締めつけられる身体が苦しい。でも、それは怒り任せのものではない。
肩口に感じる温もりは、押しつけられたエルドの頭で。
「……幻滅したか」
絞り出した声は、あまりに小さく。それは、縋るような響きを持っていた。
いいや、実際に縋っているのだろう。そこにまだ怒りはあったが、それ以上に込められた感情を、ディアンが気付かないはずがない。
震える腕を。繋ぎ止めようとする、彼の指を。
「お前を守れなかった俺には、頼れないか」
「ち……ちがい、ます」
否定は躓いても、咄嗟に出た言葉は本心だ。
この場所において、誰よりも彼を信用している。謁見の時も、近くにいなかった時も、ディアンが求めたのはずっとエルドだけだ。
彼がいるから耐えられた。彼と共に生きると、そう誓ったからこそ、ディアンは耐えていたのに。
「そんなこと、」
「なら、なぜ、まだ耐えようとしている」
問われ、理解できず、頭の中が浚われていく。
共に生きたいと願ったからこそ、ディアンは耐えていた。耐えるしかなかった。それは、今抱きしめているエルドだって分かっているはずだ。
あの場で答えなければ、本当に加護を取り上げられると……エルドと引き剥がされると思っていたから。
今でこそ、それがオルフェン王の戯れであったと分かっている。だけど、あの時はそうするしかないと、思っていたから。
頭の中はぐるぐると渦巻くばかりで、エルドの求める答えを導き出せない。
エルドが意味もなく問うことはない。ディアンが気付くことを待っている。だけど……それはどうしたって、ディアンには気付けないこと。
そうだと理解している男が、再び息を吐く。静かに。ゆっくりと。
呆れに似て、違うもの。ディアンの想像よりも優しく、されど甘くはないもの。肩にかかる息の熱さに含まれるのは、怒りだけではない。
「……お前は」
言葉は、一度区切られる。
ほんの数秒。その間に、彼の中で何が渦巻き、湧き上がり、消えたのか。
押し殺し、掬い取り。そうして残った一欠片が、音となってディアンに落とされていく。
「確かに、耐えられるだろう。目的があり、その正当性がある限り、お前はそれに突き進むことのできる男だ。どれだけ理不尽であろうと、それにどれだけの怒りを抱いていようと、お前はその全てを押し殺し、成果をあげる人間だ」
強張る身体を引き戻すように抱きしめられる。思い出すのは、物心が付いてから強いられてきた仕打ち。
落ちこぼれだと嗤われながらも目指すしかなかった騎士の道。『精霊の花嫁』としての義務を果たさず甘やかされるばかりの妹。
ディアンに義務と責任を問いながら、決して妹を責めることのなかった父。
フィリアの加護によってもたらされた歪な関係は、全てが彼らの責任とは言えないだろう。
全ては終わったこと。忘れなければならないこと。今は思い出しても、いつかは忘れられるはずのこと。
そう繰り返し言い聞かせてきた記憶が、まさに今、ディアンに牙を剥いている。
それはディアンが思っていた以上に深く、大きな傷であったのだと。そう嗤うかのように。
「たとえ他者が異常だと罵ろうと、己の感情に蓋をし、そうだと信じる限り真っ直ぐ立ち向かうことのできる強い人間だと知っている。たとえそれが、お前自身の限界を超えたとしても、お前は耐えてしまうだろう」
エルドに出会う前がそうだったように。信じていた信念が崩れる、あの日までそうであったように。
落ちこぼれであるのは自分の鍛錬が足りぬせいであると。その期待に応えられない自分が至らないのだと。
だからこそ、もっと努力しなければいけないのだと。本当にディアンはそう信じていた。信じるしかなかった。それが苦痛であったと、認めたくなかったから。
認めてしまえば……それこそ、もう耐えられないと、心のどこかで分かっていたから。
もしあの日、サリアナの前から逃げ出さなければ。空き教室で寝過ごさなければ。教師たちから真実を明かされることがなければ。グラナート司祭の元に行かなければ。
そして……己の父に、問いかけることがなければ。
どれか一つでも起こらなければ、ディアンは耐えきってしまっただろう。
実力の伴わぬ騎士と嗤われ、加護すらもない落ちこぼれだと指をさされ。みっともなく足掻き、しがみ付き、そうして……望まぬ騎士に、なってしまっていたはずだ。
そうだと望まれていたから。それに耐えるしかなかったから。それ以外など、ディアンには、なかったのだから。
「……だが」
肩に食い込む指が痛い。
それ以上に、軋む指の感触が、耐えるように絞り出される息が、それでも誤魔化せていない震えが。与えられる全てが心臓に突き刺さる痛みの方が、もっとずっと、強いもので。
「それは、お前が苦しんでいい理由にはならない」





