266.兄妹
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その名がディアンの耳に届かずとも、彼には分かっていた。
強い魔力で満たされた中、唯一はっきりと縋ることのできる、その力を。
何よりも、誰よりも。安心できるそれを、間違うはずがない。
「……フィリア」
響く声は呻くように。どれだけ抑えようと、それが怒りに満ちていることは理解できたこと。
全ての元凶がオルフェン王であれば、今エルドの目の前にいるのは……その共犯者に他ならない。
いくらその本人が自覚していなくとも、それを当然だと主張しようとも、エルドの中でその事実が変えられることはない。
「ああ、でも……最後に会ったのは一ヶ月前だから、久しぶりでもないのかしら」
「去れ」
「つれないのね。あなたの伴侶に挨拶しに来ただけなのに」
明らかな拒絶も、彼女にとっては慣れたもの。どれだけその薄紫が鋭くとも、緑は笑みの形に歪んだままなのだろう。
それこそ、柔らかく、温かな……誰もが見惚れ、愛でたいと願うほどの、完璧な微笑で。
「お前があいつにした仕打ちを許すとでも」
「でも、私がいなければ、あの出会いもなかったはずよ?」
そうでしょうと、求める同意に僅かに弱まる魔力。
それは、純粋にフィリアが手を出したという意味合いではないのだろう。エルドと彼女にしか伝わらない何か。
否定できないと分かっている声は、鈴のように軽やかに笑う。
「ああ、恩を売ったつもりはないわ。……でも、少し話をするぐらいなら、いいと思わない?」
返答は、強い魔力の圧によって。それでも視界が明滅しないのは、ディアンがエルドの魔力を求めているからなのか。
あるいは……ディアンがここで苦しんでいると、そう理解して抑えているのか。
「去ね、フィリア。元よりお前は謹慎の身。己の領域以外に存在することは許されない」
「そう。そこまであの子のことを愛しているのね? ……あぁ」
微妙に噛み合わない会話。背が震えるほどの感情を、それでも笑って流せてしまう精神。
……いいや。これだけの怒りを抱くほどに、ディアンを会わせたくないと。彼を守り、愛したいのだと。エルドの持つ全てで感じる精霊の吐息は、あまりに甘美なもの。
「ふ……ふふふ。すてき。……ほんとうに、すてき」
じわり、どろり。耳元から流し込まれるように。まるでその甘さで溶かすかのように、囁く声は強く、深く。
怒りも、憎悪も、向けられる全てを味わい舐るように、フィリアの笑みは深まっていく。
ディアンは見えていない。否、見えていなくてよかった。そうでなければ、きっと、その喉は叫んでしまっただろう。
もう、耐えられないのだと。
「ますますお話したくなっちゃった。……でも、それは次の機会に取っておくわ」
声が遠ざかる。今になって足音がないことに気付いても、その理由を知ることはできない。
その姿を少しでも映したなら。その瞳が自分を見ているのだと、そう確かめてしまったのなら、削られ続けた正気は簡単に弾けてしまうと。そう、理解していたから。
「あなたのその顔が見れたから、今はもう満足したわ」
だから、今度こそ。次こそ、そうさせてねと。
告げる言葉は最後までディアンに対して注がれて……ふと、空気が戻る。
支配していた耳鳴りは引き、己の荒い呼吸を自覚できるだけの静寂が訪れても、身体の震えは止まらない。
全身が汗にまみれ、張り付く服の感触が気持ち悪く。それでも、顔を拭う気力もなく、ゼニスの身体にもたれかかるのが精一杯。
それは、聞き慣れた足音が向かってきていると分かっていても、変わることはなく。
「ヴァール様」
「我が伴侶を守ると、そう誓約したはずだ」
アピスが何かをいうよりも早く、その声は突き刺さる。淡々とした響きは、そうしていなければ今にも噴きだしてしまうからだろう。
「ヴァール、すまない。我々も対策を怠っていたわけでは……」
「そうだよ。フィリアが来たのはともかく、触れさせてないし、見せてもいない。約束は守っただろ。ちゃんと君の愛し子は無事だよ」
前者は、それでも至らなかったことを。後者は、謝罪よりも弁明の意味合いが強いもの。
三人がかりでも食い止めきれないほど、フィリアの力は強かった。元より謹慎している相手がここに来るとは……いや、想定していたのだろう。
どう対策しても抜け出すことを止められないと理解していたからこそ、最善の手を取っていたはず。
「……無事だと?」
だが、問いかける男の声は低いまま。足音は、その勢いを増す。
「退避させるのではなく、何の対策もとらぬままに隠し、まだ人間の身である愛し子に容赦なく魔力を浴びせるのがお前たちの守り方か」
音は頭上で止み、影が消える。ディアンの目に映ったのはほんの一部だけ。
だが、差し込む光が眩しいのだと。そう感じるのは、光量だけではない。
「それは……」
「フィリアが来ることが予測していたならば、なぜ逃げ場さえも塞いだ。他の場に逃がすことさえもさせず、ただ耐えるように強いるなど」
障壁の消える気配は、二回。一つは、ディアンたちを支えていた空間が元に戻り、部屋の中に戻ったもの。
……もう一つは、共に隠れていたゼニスが、ディアンを守るために施していたもの。
消えてから初めて自覚し、込み上げるのは震えと恐怖。
精霊ほどではなくとも、ゼニスも精獣と呼ばれるだけの存在。
魔術はディアンより秀でており、旅の間に何度助けられたことか。彼の腕を知っているからこそ、落ち着きかけた心が悲鳴を上げる。
ゼニスの障壁が劣っているのではない。彼が守っていて、ようやく耐えられていたのだ。
そうでなければ、とっくに崩壊していた。守られてやっと、あの程度で済んでいたのだ。
ぐ、と渦巻くのは胸の中。胃が収縮し、口内に滲む苦味と酸味に、口を押さえた指は氷のように冷たいもの。
それは、待ち望んでいた薄紫がそこにあると理解しても、遠ざかることはなく。
「――これのどこが無事だ」
吐き捨てた言葉に対する弁明など、端から求めていないのだろう。
屈み、馴染み深い魔力が近づいたことで息が戻る。それでも顔を上げられなかったのは、自身の表情がひどいという自覚があったから。
「……え、るど」
汗ばみ、青白く、繕うことだってままならない。
だが、これ以上心配させたくないと、立ちあがろうとしたはずの足に力が入らない。
無理な姿勢を維持したせいであれば、まだ自分にも言い訳ができただろう。だが、恐怖に竦み、震える四肢を誤魔化すことはできない。
それでも身体が動いたのは、否応なくその身体を抱き上げられたからだ。
僅かに捉えた左手に怪我はなく。治療されていることを視認しても、よりエルドの魔力を近くに感じて身体の力が抜けても、ディアンの顔は強張ったまま。
言葉は無い。……それでも、まだエルドが怒りを携えていることを、ディアンは理解している。
それは己の兄とも言える精霊たちに対するものではなく、ディアン自身に向けられたもの。
鼻から漏れる息は、そうと知らなければ気にもならなかっただろう。吹き出しそうなそれを抑えつけ、耐え、それでも漏れてしまった感情の一端。
たとえ、魔力の影響がなくとも、感謝を述べることも謝罪することもできなかっただろう。
「エルド。それ以上は」
「……わかっている」
横抱きにされ、支えられた肩に強く感じる手。言うべきは今ではないと、耐えたエルドが背を翻す。
この場にいたくないと望んでいるのは、誰よりも彼で。
「ヴァール!」
だが、引き止める声は背後から。僅かに立ち止まったのは、その名を呼んだのがデヴァスだったからだろう。
彼らの顔を、ディアンは見ることはなく。だが……その眉が、寄せられていることは、間違いなく。
「……すまなかった」
言葉だけではない、確かな感情。それは心からの謝罪で……そうだとディアンが理解できたなら、投げかけられたエルドならなおのこと。
それでも、その言葉に返答はなく。足は、真っ直ぐ扉へと突き進んでいった。





