265.愛の精霊
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それは、とても可憐な音であった。
鈴を転がしたとも、鳥の囀りともたとえられるだろう、愛らしく、可愛らしい響き。
幼い少女のような、美しい女性のようにも思える声は、それだけで男たちを虜にしただろう。
だが、ディアンが得たのは肌の粟立つ感覚。背筋を駆け上がる痺れは、感動ではなく恐怖だ。
そう、恐れている。初めて聞くはずなのに、あまりに耳に馴染むその声に。
知っているはずがない。だが、知っている。
矛盾しているのに成り立っている。違うのだと否定できない。
重なるのは二つの影だ。そのどちらも、今は無き姿。
一人はひどいと罵り続け、一人は約束したと囁き続けた。
知らない。ディアンは知らない。……だけど、知っている。
この鼓膜を叩くその音を。これまでずっと、聞き続けてきたその声を。
メリアとも、サリアナとも重ならないはずの、だけどあまりに似た声を。ディアンは、誰よりも刻み込まれている。
視線は再び上に。幾人かの足が向けられた先、唯一の通路の真ん中。水の中だというのに歪むことなく映す景色に、先ほどまではなかった色。
ドレスのように纏った白い服。装飾のように散りばめられた色とりどりの小さな花。だが、何よりも目を引いたのはその桃色の髪だ。
煌めく光に、妹の幻覚が重なる。否、実際にその造形はあまりにも似すぎていた。
透き通る白い肌。小さな唇。薄く染まる頬。絵画に描かれた理想の姿そのもの。
女性らしい丸みを帯びた体格。浮かべた笑顔は少女と変わらないのに、晒された胸元の膨らみがそうではないと主張する。
似ているのに似ていない。同じなのに、違う。理解しているはずなのに記憶がディアンを翻弄し、息さえ奪っていく。
いや。いいや、違う。彼女たちに似ているのではない。彼女たちが、似ていたのだ。
加護を与えられた彼女たちが。この精霊の愛し子であった、彼女たちこそが。
誰からも愛されるために。そうなるように、歪まされた彼女たちが……フィリアナに、似せられてしまったのだ。
「ほんと、君って懲りないよねぇ。謹慎の意味、分かってる?」
ディアンが視認できたのはそこまでだ。ゼニスにフードを被せられ、目は再び水の世界を映す。
だが、その幻想的な景色に見惚れることはもうできず。おぞましい響きは、ゼニスに塞がれているはずの耳に容赦なく流れ込む。
「だって、ヴァールの伴侶が来たのでしょう? それなのに、大人しくなんてしていられないわ!」
高揚する口調はメリアに似て、鼓膜を揺する響きはサリアナと同じ。
呆れるシュラハトにも構わず近づいてきているだろう彼女を牽制しようとしたのか、響いた甲高い音は恐らく金属質の何かを投げつけたのだろう。
剣か、槍か。どちらであれ、彼女を止めるには至らず。声は先ほどよりも近くなる。
「よくもそんな戯れ言を……! お前の行いのせいで人間界にも影響が出たんだぞ!」
「あら、私は協力しただけよ? その力をどう扱うかは、愛し子次第だもの。やり過ぎたのは確かだけど……私は助けてあげただけだもの」
何も悪い事はしていないと。そう笑う顔も、ディアンには見えていない。見えていないのに、こんなにも簡単に頭に浮かんでしまう。
同時に抱く強い違和感は、怒っているデヴァスに対するフィリアの態度。恐れを隠しているのでも、開き直っているのでもない。
無意識に、グラナートとメリアの姿を重ねていたのだと気付いて、それでも精霊記から読み取った対応と違うことに困惑するばかり。
「生まれてすぐ加護を与えることも、洗礼を終えた人間に許可なく加護を与えることも重罪だ!」
「知っているわ。でも、私を求めたのはあの子たちだもの。私はそれに応えただけ」
それの何がいけないのかと、逆に問いかける声に煽りはない。怒りも、嘲笑も、デヴァスたちを翻弄する意図さえもない。
本当に言葉通りだ。求められたから。欲しいと言われたから。愛されたいと願ったから、愛されるようにしただけなのに。
なぜそれを咎められなければいけないのかと。彼女は、本気でそう思っているのだ。
「貴様っ……!」
「それより、ヴァールの愛し子はどこ?」
魔力の濃度が増し、比喩ではなく喉が詰まる。息のなり損ないが異音となってディアンの喉を鳴らし、一層強く抱きしめられることで息を吹き返す。
縋る首飾りの熱は弱く。否、ディアンが感じ取れないほどに、周囲の魔力に影響されている。
再び響く金属音。遠くで起きた水しぶきは、弾かれた武器なのか。
「ひどいわ。少し話をするだけよ」
ひどい。ひどいわ。どうしてお兄様は、ひどいことばかりするの。
頭に残る甲高い音が、記憶のものと反響する。自覚以上に、それが自分の心を蝕んでいた事実を突きつけられ、精神が揺さぶられる。
今聞こえているそれは、ディアンを傷つけるものではない。それは妹でもサリアナでもない、全く違う相手だと理解している。
それなのに、弱い酸に浸されているかのように、じわじわと蝕まれていく。
身を隠しているのに、守られているのに、追い詰められているかのよう。
否、実際に追い詰められている。ここに逃げ場はない。
「ヴァールからも頼まれてるからね。はいそうですか、って訳にはいかないかな」
「フィリア様」
凛とした声は、頭上から。ディアンたちを隠すように立つアピスの視線の先、フィリアはどんな笑みを浮かべたのだろうか。
「お引き取りを。……あなたが彼にした仕打ちを、我々は許しておりません」
人間であった者として。精霊の異常さを知る者として。そして、同じく伴侶という立場の者として。
そこにどれだけの意味が込められていただろう。そして、それは脅しではなく、心からの言葉。
されど、声は笑う。心外であると。ひどい言葉だと。そんなつもりはなかったのだと。
「私は何もしていないわ。ただ手伝ってあげただけ。……でも」
とろり。付け足された一言は、まるで蜜のように甘く、まとわりつくように、ゆっくりと。
見えていないはずなのに、その瞳が歪む光景が映り込む。
「素敵ね。とっても、すてき」
微睡むように、見入るように。煌めき、揺らめき、微笑む光に息を呑んだのは、ディアン一人だったのか。
脈略のない会話。うっとりとした声は、粘度を持ってディアンの理解を阻害する。
それは、まだ残っている人としての本能だ。理解してはいけない。それは理解できないものなのだと、ディアンの無意識が拒絶している。
「本当に話がしたいだけよ。だって、あのヴァールの愛し子なんだもの。……ねぇ」
聞こえた布擦れの音は、さらに近づいたものか。あるいは、腕を持ち上げたのか。
そうして示された先にあるのは、ただの床。
……否、その中にいる、ディアンたち。
「そこに、いるんでしょう?」
見えていない。ディアンからは、その姿は見えない。全ては錯覚。そうだという思い込み。
なのに、それが事実だと分かってしまう。その目は寸分も逸れることなく、自分を見つめているのだと。
形容しがたい恐怖は、濃厚な魔力によってなぎ払われる。水の中なのに肌を舐める熱に犯され、吸った呼吸すら浅く、苦しい。
「だーから! 会わせないって言ってるだろ!」
激しい金属音。一体どれだけの武器が飛び交い、そうして弾かれているのか。
その光景を見ることはできずとも、デヴァスもシュラハトも手を抜いているとは思っていない。
それでも、声は近づいてくる。ゆっくりと、されど確実に。
「ほんっと! しつこいなぁ! 君の妹!」
「もう……さっきから随分と手荒ね」
ひどいわと、何度目かも数えられない嘆きに焦りはない。
怒りも、煩わしさも。何一つ調子を変えることなく、可憐な声は笑い続ける。
頭に反響する不快な音は、不意に聞こえた水音によって掻き消され……だが、途切れたのも一瞬。
「あなたまで、ひどいことをするの?」
「……フィリア」
水面の弾ける音。ネロも彼女を押し止めるのに加勢したのだ。
だが、その意味がなかったことは、問いかけるフィリアの声から理解する。
大精霊を含めた三名。それも、フィリアと同格であるデヴァスでさえも止められない。
聞いただけでは信じられなかっただろう。だが、その現実は今、ディアンのすぐ目の前で行われている。
なぜ、オルフェン王が彼女を謹慎で留めたか、それまでは理解できなかった。相応の罰とは到底思えず、理不尽さを抱きながらもロディリアが折れた理由だってわからなかった。
こうして目の当たりにして、ようやくその理由を知っても、まだ信じられない。
彼女が、あまりにも強すぎるのだと。
「乱暴なのは好きじゃないけど……ここまでされたなら、仕方ないわよね」
だからいいはずだと、囁く声は言い訳を見つけたように。だが、その声量は同意を求めていないことを示すように小さなもの。
ただでさえ濃度の高い空間に、新たな魔力が混ざるのを、息苦しさの中で感じる。
今、自分が目を開いているのか、閉じているのか。甲高い耳鳴りと、白黒に点滅する視界では捉えられない。
胃ごとひっくり返されたと錯覚するほどの吐き気。手足の感覚なんてとうになく、だというのに不快感は爪先まで犯している。
いっそ気を失えれば楽になれるのに、それすらも許されず。耐えることだけを強いられ、軋んだのは肉か、頭の奥か。
引きちぎられる音は、それでも保とうとしていた正気だったのか。
――ふと、脈略もなく空気が戻る。
咳き込み、嘔吐き。未だ明滅する視界の中で見えるのは、顔を埋めていたゼニスの胸元のみ。
やはり、何も見えていない。だが、混ざる魔力の中、ハッキリと感じ取れるそれを、ディアンは知っている。
「――久しぶりね、ヴァール」





