260.その言葉に偽りはなく
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「そもそもは、お前が選定を拒んだことから始まった。最初から娶っていたならば、人間も誤認することなく、フィリアの愛し子が驕ることも、新たに加護を与えることもなかったであろう」
心臓が跳ねる。ディアンでさえ動揺したのなら、その渦中であるエルドだって無事ではない。
そもそもこの一件は、十数年前、ディアンに加護を与えなかったことから始まった。
英雄たちに特別な加護を与えた対価として、本来ならディアンが六歳を迎えたときに『選定』を受け、伴侶となるはずだった。
だが、エルドは加護を与えず、他の者が娶ることを精霊王は許さず。そうして、生まれて直ぐ加護を授かったメリアが『花嫁』であると思い込まされ、サリアナによって事態は悪化した。
全てがエルドのせいとは言えない。元凶と言うのなら、そう命じた精霊王にある。
……だが、切っ掛けの一つは、確かにエルド自身にある。
「であれば、罪があるのはフィリアとその愛し子であるはず! なぜディアンが裁かれなければならない!」
「罪人は既に裁かれ、フィリアにも然るべき罰を与えておる。だが、その程度で賄える罪ではない」
他の者の溜飲が下らぬと、示される周囲から声はあがらずとも、滲む怒りは二人を突き刺す。
その中で、より強い憎悪を感じ取り……そこに、かの精霊がいるのだと、そう理解するにはあまりに容易く。
「我々にも原因はあった。だが、他の人間に何の咎もなかったと?」
「だとしても! こいつが裁かれる謂われはない! 我々に償いこそあれ、責任など!」
「事の一端はお前にも原因がある。ならば、伴侶となる人間が罪を濯ぐのも道理であろう」
全ての人間の代表として、と。そう告げる内容は、どう考えても理不尽だ。
エルドにとって、ディアンは被害者。オルフェンの、フィリアの、そして自分の。それ以外の者たちによって、一方的に押しつけられ、虐げられ続けた者。
それはオルフェンも理解している。否、理解していなくとも関係はない。
サリアナだけでは。あの程度では、到底、人間が犯した罪を償うことはできない。それを他の精霊が許さないのであれば、誰かがそれを担わなければならない。
少なくとも、この件に関与する者が。この事実を知る者が。
……ディアンこそが、そうするべきだと。かの王は、そう言っているのだ。
「ふざけっ――」
「不服であれば、失われたのと同数の命で償いとする他あるまい。……棲まう地は違えど、全くの無関係でもなかろう」
叫んだ抗議は、その言葉で掻き消されてしまった。
犠牲になった妖精の数は、一体どれほどいるだろう。
明確な数を聞いた記憶がないのは、そもそも数えきれないほどの命が失われたからだ。
それは、旧ノースディアに残っている国民全てを集めても足りないほど。
ならば、他国の人間も差しだせと。精霊王は要求している。
無関係の者たちだと、そんな反論は聞き入れられないだろう。
同じ人なら、それでいいのだと。これは、人間全ての罪なのだと。
……こんなの、選択の余地なんて、それこそ、
「お前の愛し子が償うならば、全てを許そう。これは害ではなく、裁きである。……だが、ヴァールの伴侶となる者まで贄にするつもりはない」
地面が波打った。そう思ったのも一瞬だけ。まるで水面から浮かび上がるように影が伸び、ディアンの目の前で止まる。
細い円柱と、平たい楕円で形成された金の器。その中を満たす液体は、一切の光を通さない禍々しい黒。
「こちらに迎え入れた人間が罪を犯した際、その毒を飲み干す決まりとなっている」
息を呑んだのはエルドだけ。そもそも、ディアンには呑む呼吸すらまともにできていないのだ。
四肢はより鈍重になり、負荷がくわえられた心臓は今にも破裂してしまいそうなほどに苦しい。
されど、毒と明示されたそれから目を離すことは叶わず。認識したくない言葉は、嫌でもディアンの脳を揺さぶり続ける。
「過去にこれを飲んだアケディアの伴侶は、何年もこの毒に侵されることとなった。まだ人の身であるお前の愛し子は、それ以上に苦しむこととなろう」
僅かにオルフェン王の視線が逸れる。導かれるように目が動けば、一際強烈な色をそこに捉え、身体が強張る。
遠目でも目立つ長身。吊り目の瞳を更に強く思わせる極彩色の化粧。前髪の半分は頭皮が見えるほどに細かく編み込まれ、残り半分は肩に三つ編みとして流されている。
地髪は金色だが、一部を染めているのか、赤や桃といった色も見える。纏う服も相まってあまりにも賑やかな姿は、しかし違和感は抱かず。
その反対に、その女性に抱えられている少女は、髪も服も白一色。タンポポの綿毛を思わせるふわりとした髪も、ディアンの心を和ませることはない。
あれが、アケディアと……苦しみ続けたという、伴侶。あんな幼い少女が、死を垣間見たというのか。
僅かな違和感の正体を突き止められず、突き刺さる視線から逃げるように手元を見つめる。だが、逃れた先に待っているのは差しだされた毒の、底のない黒のみ。
人の身体でなくなったあとでも、アケディアの伴侶が苦しんだなら……オルフェン王の言う通り、まだ人間であるディアンはそれ以上に苦しむことになるだろう。
それこそ、死を願うほどの苦痛を、何年、何十年。考えられないほど長い間、ずっと。
「飲むなディアン! お前が償う必要は――!」
「ああもううるせぇって! いいかげん黙れよ」
荒い口調と共に、傍らで立っていた男がエルドの喉に槍を突きつける。少しでも動けば、鋭利な先はすぐに彼の喉を裂いてしまうだろう。
視線は、再び杯へ。揺れることのない水面をどれだけ見つめても、その底が空けることはない。
……一人と、数十万人。死を願うほどの苦痛と、本当の死。
天秤にかける価値すらない。選ぶ答えなんて決まりきっている。それも、一方は無関係な国民ばかり。
それこそエルドの望むことではない。こんなの迷う猶予さえもない。この杯をとり、飲み干す以外に、ディアンにできることはないのだ。
分かっていても手が動かない。伸ばさなければならない腕は垂れ下がったまま。その身体を支配する恐怖に、身体中の熱が奪われてしまう。
……だが、それは苦痛に対するものでも、迎えるかもしれない死に対してでもない。
まだ、この杯を傾けるわけには、いかない。
「――ひとつ、問うことを、お許しください」
震えた声は、とても周囲に聞こえたとは思えないほどに震え、情けなく、聞き苦しいもの。問いに対して返答はなく、されど見下ろす白に拒絶もない。
答える価値すらないと、そう思われているのだろうか。
だとしても、ディアンは聞かなければならない。自分のために。自分たちのために。
「これをいただいた場合、私は、死にますか」
「死を恐れるか」
細めた目に籠もるのは怒りだ。容易く命を奪っておきながら、それを失うことを恐れるなどと。そう愚かな者を咎める瞳だ。
のし掛かる魔力の圧は変わらないのに、奥歯が擦れ合い、身体の震えが止まらない。
もはや自分が熱いのか、寒いのかさえわからず、甲高い耳鳴りに支配されて、エルドの声だって聞こえない。
「私、は、」
だけど、違う。恐れているのは死ではない。……そう否定しきることはできないけれど、それよりもディアンは恐れているのだ。
エルドのそばに、いられなくなることを。
「私が、誓った、のは……エルドと共に、生きることです」
指先が跳ねる。それは、逃げだせない足の代わりに足掻こうとしたのだろうか。
手に食い込む爪の痛みの中、握りしめた首飾りの僅かな温もりさえ感じなくなって、視界が滲みはじめる。
それでも、目を逸らしてはいけない。俯くわけにはいかない。
この想いを声に出せるのは。エルドを繋ぎ止められるのは、自分しか、いないのだから。
「た、とえ、後悔する日が、来るとしても……彼のそばにいると、私は、誓いました。私が死ぬことは、彼への裏切りと同じ。約束を違えることは、できません」
あの時の誓いを忘れてはいない。これからも、この先も、何度だってディアンは誓うだろう。
あの夜の誓いを。あの想いを。決して違えることはないのだと。エルドのそばで、彼の隣で生きたいのだと。
たとえいつか悔いることがあったとしても、それを彼が悔やんだとしても、共に生きるのだと。そう互いに願ったから、だから、今自分はエルドのそばにいられるのだと。
彼だからそう誓ったのだ。彼でなければ、ディアンは生きていけない。
「……ですが」
だからこそ、ディアンは声を張らねばならない。自分が何であるかを。この身が誰のものであるかを伝えなければならない。
それができるのは自分だけ。それは、ディアンにしか許されないことなのだから。
「もし、私からエルドの加護を取り上げると言うのであれば。この選定が相応しくないと判断し、他の精霊に宛てがうというのであれば。私は死を選びます」
空気が、声が、感じられる全ての中。一番揺らいだのはエルドの魔力だ。声を封じられていなければ、きっと名を叫ばれていただろう。
彼にとっては望まないことかもしれない。彼に癒えぬ傷を刻むことにもなるかもしれない。
ただでさえ強いて、ここに連れてきて。その上で、まだ我が儘を叶えてもらおうなんて、ひどいことをしている自覚だってある。
だけど、譲れない。これだけは、譲るわけにはいかない。
「私の命令であってもか」
見上げ、睨む光は少しも和らぐことはない。甲高い耳鳴りに混ざって聞こえる不快音は、網膜の焼かれる音なのか。辛うじて保っている正気が削れていく音なのか。
答えなどいらない。必要ない。ただ、そうだと伝えなければならない。それだけが、今のディアンの全て。
エルドと一緒でなければ来なかった。エルドでなければ、自分は伴侶にはならなかった。人としての道を外れ、人ではない何かになるのを、受け入れることだってなかった。
いつか見ぬ果てに、自分ではない何かに成り果てるとして。それを悔やむ日が来るとしたって、エルドと一緒だから。彼と共に生きたいのだと、そう願ったのは自分なのだから。
「……エルドにとっての唯一が私だけなら、私にとっての唯一もエルドだけ」
指が床に食い込み、割れる音さえも遠く。それ以上に貫く瞳は強く、強くかの存在を見上げ、告げる。
「私は、」
他の誰でもないエルドだったからこそ、自分はここにいるのだと。
誰でもない、自分がそう選んだのだと。
滲むことのない光は、その紫は、告げる。
「――ヴァールだけの、愛し子です」
他などいらない。永遠の命だっていらない。精霊に嫁ぐという名誉だっていらない。
欲しいのは、彼と共に生きる。ただ、それだけなのだから。
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