249.『精霊の花嫁』の兄は、
「サリアナ・ノースディアの処刑は終わった」
その報告に、胸底の重たい感情が無くなった……といえば、嘘になっただろう。
聖水の泉。その淵に腰をかけ、隣に並んだエルドから伝えられても、実感が湧かないと言った方が正しいか。
吐いた息こそ深く、多少の安堵も混ざっていた。だが、決してそれだけではなく。
「……そうですか」
処刑日が今日であることは、ディアンも先に聞いていたこと。
彼女が辿る結末も、その選択の果ても。理解してもまだ心に巣くうのは、重苦しい恐怖と苦い記憶ばかり。
十数年間。本当に終わったと割り切れない程度には、心の傷は深く、強く。癒えるには時間のかかるもの。
「よかったのか。本当にお前の中から消すこともできたんだぞ」
未だ苦しめられているディアンを見てか、エルドがそう投げかける。
サリアナの執着心は異常で、単に距離を離した程度では諦めない。
ほんの僅かでも彼女の中にディアンの記憶が残っている限り、サリアナが絶望することはないとペルデは主張した。
同じく、ディアンの中にサリアナの記憶が残っていれば。彼女はそれを支えに希望を見いだすだろうことを。
何かの拍子で万が一記憶が蘇った時には、それが糧になるだろうと。
故にペルデが望んだのは、サリアナからも、そしてディアンからも互いの記憶を消すことだった。
ディアンが記憶を奪われたことを見せつけた上で、彼女からもその記憶を消し去るのだと。
実際、エルドは彼女の記憶を奪い、精霊界へ追放した。妖精の糧となる最中、万が一記憶が蘇ったとしても、あの苦痛の中で正気を保てるとは到底思えない。
サリアナにできたのなら、ディアンにだって。
……だが、ディアンがそれを望まなかったので、彼の中にはまだサリアナとの記憶が残っている。
されてきた仕打ちも、真実も。彼女の結末も、全て。
サリアナが最期に見たディアンの姿は、エルドが見せた幻覚だ。
あの場にディアンを連れていけるはずがない。幻覚であっても見せたくなかったほどだ。
彼女もある意味、フィアナの犠牲者であろう。それでも……決して、ディアンは彼女のモノなんかではない。
されど、伴侶とはいえエルドのものでもない。
ディアンがエルドの傍にいてくれるのは、彼がそう選んだからこそ。
それでも苦しんでしまうのなら。悩んでしまうのなら、今からでもそうできるのだと。
そう伝えてくれるエルドを、ディアンはゆっくりと見上げる。
「その方が、あなたが安心できるのなら」
紫に嘘はなく、だからこそエルドは眉を寄せる。
きっとこの愛しい人は、自分が頷けば簡単に手放してしまうのだと。そう理解できるからこそ、問い返された男は首を振る。
「正直に言えば。……だが、お前が受け入れると決めたなら、それでいい」
ディアンがそう決めたのならば。自分の意思で選択したのなら、それでいいのだと。
不器用に笑うエルドにつられ、ディアンもまた笑う。
彼もまた理解しているのだ。エルドが自分の選択を尊重してくれることを。そうだと選ばせてくれることを。
……そうして、甘やかしてくれていることも。全部。
「言ったでしょう、まだ後悔していないって」
不安がる恋人……否、もうすぐ伴侶と言うべき相手を見上げたまま、その薄紫は決して逸れることはない。
「この先そうなったとしても、僕が誓いを違えることはありません。あなたが傍にいてくれる限り……僕はきっと、後悔しない」
その時が来たとしたって、それは自分が選んだのだと。握った手はいつも通り温かくて、優しいもの。
決して離れないようにと、離すことがないようにと。包み込んだ体温はむしろ熱いほど。
「何度だって僕は誓えます。あなたと、共に生きたいんだと」
「……本当に、情けないな」
だから信じてほしいと。だから、傍にいると。笑うディアンに、エルドの顔が緩む。
眉は下がったまま。唇は苦笑したまま。それでも、それは不安からではなく愛おしさからで。
「信じている。それなのに、不安になってしまう。……ダメだな、どうしたってもうお前から離れられないのに」
もう人としての生を望んでも、そう選ばすことはできないと。もうどうやったって、それを祝福することはできないのにと。
精霊としてではなく、エルドとして。ディアンを見守り、共にいてくれた存在として。もう、そうしか選べないのにと。
愛しているからこそ、失うことを恐れて不安になるエルドの手を掴む手は力強く。
「離さないでください」
残った手を自身の頬へ。そうして手からも、頬からも温かさを感じるディアンの瞳が、彼の色へ煌めく。
「あなたが安心できるまで。……いいえ、安心した後だってずっと、僕のことを離さないでください」
「ディアン」
「そう望んだのは――そう選んだのは、僕です。エルド」
だからここにいるのだと。あなたの傍に居続けると。
あなたの隣に、この先もこうしていたいのだと。微笑む頬を引き寄せる手は震えていても、迷う事はなく。
額が触れ合い、互いの姿がぼやける。落ちた滴は温かく、心地良く。
ああ、それすらも愛おしいもので。
「……ありがとう、ディアン」
心からの感謝を。心からの愛を。震える声が紡ぐ彼の全てを、ディアンは唇ごと受け止めた。
二人には――それでもう、十分だったのだ。
◇ ◇ ◇
後の歴史において、教会の関係者にのみ伝えられた記述がある。
『中立者』とは、人間界に残ったある精霊の隠し名であり、女王陛下に認められた存在であると。
そして、その傍らには白い獣と――かの者の伴侶である、黒髪の青年がいたという。
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