248.彼女の最期
その景色だけで言えば、間違いなく幻想的であっただろう。
天井も、壁も、床も。全てが白に統一された空間。
中央に設置されているアーチ状の設計物がなければ、病室と勘違いしてもおかしくはなかっただろう。
七色に変色する光。オリハルコンを加工して作られた精霊門は、本来なら近付くだけでも重罪に課されるものだ。
女王陛下の許可が下りて、初めて通ることが許されるもの。
長い歴史の中、特例と呼べるものは数多く。されど、精霊界で罪人を捌くために許したことは、数えるほどしかない。
厳重に包囲されたその中央、罪人と呼ばれる少女の足取りに抵抗の様子は見られない。
背中で縫い止められた両袖。無数のベルトに締め付けられる身体。
もしそのうなじが見えていたのなら、加護を封じるための焼き印が色濃く見えていただろう。
自害防止か、唇にきつく噛まされた猿轡は痛々しく。されど、その眉は少しも歪むことはない。
かつて一国の王女であった面影はなくとも、姿さえ見なければ罪人とは思えぬ振る舞い。
加護を剥奪されてもなお損なわれぬ美しさ。もし衆人の前での一連であったなら、処刑場に送られる聖女のようにも映っていたかもしれない。
真っ直ぐに前を見据える青は光を失わず、その意思が挫けていないことを突きつける。
実際、サリアナの中にあるのは絶望ではなく、ディアンを奪った精霊たちへの怒りと、愛しい者に対する確信だ。
十八年。十八年も、精霊はディアンを放置していたのに。加護を与えることなく、手放して。それを今更惜しんで手に入れようとするなど。
彼への想いは自分の方が強いのに。誰よりもディアンを愛していたのは私なのに。
ディアンは私だけのものなのに。精霊でも、他の者でもない。私だけの。
そのためにディアンは努力し続けた。そのためにサリアナは全てを捧げてきた。
ディアンのためだと思えば、何一つだって苦ではなかった。
どれだけ面倒だと思っても、それが全て彼との未来のためだったから。だから、サリアナは努力し続けてきたのだ。
全てはディアンのために。愛おしいあの人のために。
サリアナが尽くしてきただけ、ディアンだって返してくれたのだ。
あの日、約束をした日からずっと。ディアンは騎士になるために努力し続けてくれた。
他でもないサリアナのためだけに。今までの人生の大半を捧げてまで!
それを愛と呼ばずしてなんと言うのか。
そう、たとえディアンがそう自覚していなくとも、サリアナとディアンは愛し合っている。
だからこそ、サリアナの足取りは震えない。その瞳が陰ることはない。
たとえこのまま精霊のいいように罰せられたとしても、ディアンと自分は繋がり合っている。
たとえ肉体が離ればなれになろうと、その心はサリアナの元にあるのだ。
共にアンティルダで暮らす夢は打ち砕かれた。それでも、ディアンがサリアナのモノであることは、彼女の中で揺るぎない事実。
たとえ精霊がなにをしようと、どれだけ妨害しようとも、それだけは変えることができない。
だって、自分たちは愛し合っているのだから!
それだけディアンを想っている彼女が、白の中に浮かぶ黒を見落とすはずがない。
門の前に立つ女王。その離れた位置で騎士に囲まれた唯一無二の相手を。愛おしい、ディアンの姿を。
くぐもった声が猿轡の奥から響き、駆け寄ろうとした身体は呆気なく取り押さえられる。
邪魔をする騎士たちの声が煩わしくとも、その瞳に映るのは彼の姿だけ。
ディアン、ディアン! ディアン!
何度も何度も名を叫び、押さえつけられる手を伸ばす。
加護を失い、ただの女に成り下がったサリアナのどこに、抵抗するだけの力が残っていたのか。
否、それは心の底から湧いてきているものだ。
やっぱりディアンは自分を見捨てはしなかった。私に会いに来てくれたのだ。
あの時帰らないと駄々を捏ねたのだって、サリアナを拒絶するような素振りをみせたのだって、きっとなにか理由があったから。
きっとあの時にはもう、精霊がディアンになにかをしたのだ。そうでなければ、ディアンが自分を拒むなんてありえない。
だって、今も彼はここに。ディアンはサリアナの元に来てくれたのだから!
盲信している彼女の力は凄まじく、元の位置へ戻そうとするのはあまりにも困難。その一連を、黒髪の青年は訝しげに眺めるだけ。
だが、その黒の瞳は紫に変わっていても、愛おしい光は変わらずそこに。サリアナの目の前に。
「どうした、ディアン」
「いえ、あの……」
傍にいた誰かが彼の名を呼び、サリアナの歪な呼びかけは掻き消される。呼びかけた相手を見上げ、それから首を振る仕草に若干の違和感。
戸惑い、困惑し。それでも言葉を紡ぐ彼の言葉が、静かに響く。
「なぜ彼女は僕の名前を?」
本当に理解できないと。どうしてかわからないと。
問いかける声に演技はなく、純粋な疑問として男へ続けられる。
目を見開くサリアナへ、もう二度と視線を向けることもなく。
「――会ったこともないのに」
後頭部を殴りつけられる衝動。真っ白になる頭は、告げられた言葉を理解することができず。
思考を遮るのは、繰り返される同じ言葉。そして、与えられるのは……ディアンの隣にいる、男からの答え。
「色んな意味でお前は有名だからな。どこかで名前も聞いていたんだろう。気にすることはない」
所詮は罪人と。切り捨てた男を、そこでやっとサリアナは視認する。
茶色の髪。薄紫の瞳。忌々しいその色を、自分を見下ろすその光を、サリアナは覚えている。
自分を妨害した唯一を。ようやく手に入ったはずの幸せを。自分から、ディアンを奪った存在を。
『――私のディアンになにをした!』
その叫びは、やはり猿轡の奥。詰められた布の中に吸い込まれて、まともに紡がれず。
今更理解に及ぼうと、脱力していた身体を引き剥がすのはあまりにも容易。
伸ばした手は今度こそ押さえつけられ、門の前へと引き摺り出される。
睨み、叫び、どれだけ責めようと薄紫はサリアナを見下ろし、わらうのみ。
ディアンが自分を忘れるはずがない。そんな演技だって、彼ができるはずがない!
奪われた! 彼と自分の未来だけではなく、今までの思い出まで! 彼との記憶まで、全部!
許せない。そんなこと、そんなことあっていいはずが!
「サリアナ・ノースディア。お前の罪は我々によって裁かれる」
女王の位置に代わり、男がサリアナの前に立つ。押さえつけられたサリアナにできるのは、その薄紫を睨み付けることだけ。
「お前はこれからの余生、その命が尽きるまで妖精たちの糧となり続ける。動くことも話すこともできぬモノとして、ただそこに在るだけのものに成り下がる」
耳鳴りの中、告げられる内容などサリアナにはどうでもいい。
この男がディアンを奪った。自分からあの人を、彼の記憶を!
許せない。許せない。許せない! こんなこと、許せるはずが!
「その過程に一切の救いがあってはならない。よって……お前の罪の原点、その存在をお前の中から消し去ることとする」
今度こそ、その言葉をサリアナは理解できなかった。
存在を、消す? 誰のことを? ……なにを、この男は、言っている?
足先から冷え、背筋の凍り付く感覚。底のない穴に突き通される衝撃。それは、彼女が生まれて初めて味わう絶望だった。
「ディアン・エヴァンズに関わる全ての記憶は、痛みと苦痛の中で忘れ去られていく。その恐怖を味わいながら己の罪を悔い、朽ち果てよ」
男がサリアナに手を翳したのは一瞬。僅かな違和感に恐怖する間もなく、男の背後で門が開く。
神々しさとはかけ離れた黒い光。されど視線は滲み出る闇のような空間ではなく、騎士に囲まれる愛おしい存在に向けて。
嫌。嫌だ、嫌。
叫び、藻掻き、されど拘束は緩まず。声だって出ない。
忘れるなんて嫌だ。忘れられたままなんて嫌。あの人の記憶を、あの人との思い出まで奪われるなんて嫌!
私のディアン、私だけのディアン! 私の、全て!
忘れたくない。忘れたくなんてない。嫌、嫌嫌嫌嫌、そんなの!
「――ディアン!」
外れた拘束衣、開放された唇。それは彼女の願いが届いたからではなく、その必要がなくなったからだ。
駆け寄ろうとした四肢を、門から伸びたナニかが捕らえる。彼女以外の目には、それが植物のツタだと認識できただろう。
肌に食い込み、肉と骨が締め付けられる音が響く。幾重にも巻き付いたそれは、もはやまともに呼吸することすら許さぬ勢いで。
伸ばした指が歪な方向へ曲げられる。その始終を見ないようにと、覆われ隠されるディアンが遠ざかって、届かない。
「ぐ、ぁ、あっ……いやっ、ディア――!」
それでも、縋ろうと絞り出した声が、口元を締め上げられて届かなくなる。
ふ、と周囲が暗くなる。否、それは彼女の身体が門の内側に引き摺り込まれたからだ。
別れの言葉すら紡げず、光が閉じていく。奥底から込み上げ、絞り出した拒絶の叫びが……人間界でサリアナが発した、最期の言葉であった。
閉ざされた空間、光の無い世界。
動けず、話すことすらもままならず。与えられるのは全身を締め上げられる苦痛と、押し潰される肺の苦しさと、その内側で暴れる絶望。
失いたくない。忘れたくない。忘れたくなんかない! 忘れられたままなんて嫌!
愛している愛している愛している愛している! 誰よりもなによりも私が、私だけがあの人を! 今までもこれからもずっとずっとずっと!
どうして、どうして、どうして! 失いたくない、忘れたくない、奪われたくない! 嫌だ、いやだいやだいやだ!
忘れたくない。奪われたくない。だって、あの人は私のモノなのだから!
誰よりも愛おしい、私の、私だけの――!
――でもそれは、誰のこと?
叫びはもう、誰の耳にも届くことはなかった。
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