242.来襲
我に返り、見開いた紫に飛び込むのは握り締めた短剣ごと突っ込んでくるラインハルトの姿。
その距離はもうあと数歩もないと、無意識に強張ってから避けるべきだったと考えても遅く。
目蓋まで強く瞑ってしまえば、あとはもうその時が来るのを待つしかできない。
しまった、と。そう思ったってなにもかも手遅れ。
永遠にも思える空白が過ぎ去れば、強い衝撃に襲われ……だが、それに痛みはなかった。
「――ディアンッ!」
呼ばれ、弾かれたように振り返り、姿を確かめる前に強い力によって抱き寄せられる。
否、確かめるまでもない。この温かさも、この魔力も。全部全部、ディアンはわかっている。
「無事か! 怪我はっ……!」
「……大、丈夫、なんともありません」
肩を掴み、生きていることを確かめて。ようやく安堵した顔に、ようやくディアンの身体から力が抜ける。
……生きている。生きて、エルドのそばに、いる。
「『選定者』様!」
数拍遅れ、トゥメラ隊も二人を取り囲む。
知らせを受けて駆けつけたのだろう、その中にはロディリアの姿も。
「女王陛下……」
「ご無事で何より……御身を危険に晒したこと、この償いは後で必ず」
「くそっ、くそっ、くそぉっ!」
叫びに目を向けた先では、ディアンを守った障壁は既に消え、追い詰められたラインハルトが短剣を振り回す姿が映る。
学園では優秀であっても、それは実戦にはほど遠く。歴戦の、ましてや女王陛下の直属部隊に敵うはずがない。
「なんでお前なんだ! なぜ! なぜだあぁっ!」
叫び、振り回し。それでもラインハルトが取り押さえられていないのは加減されていたのではなく、先にエルドが彼の元に歩み寄ったからだ。
ディアンから離れたその一瞬で、いつ剣を手に取ったのだろう。そんな疑問を抱いたのは、耳鳴りに支配されるまでのこと。
僅かに白くなる視界の中、エルドの背だけが鮮明に映る。息苦しさは負荷ではなく、彼の怒りに圧されたもの。
普段からそばにいるディアンでさえそうなのだ。正面から受け止めたラインハルトが耐えられるものではない。
底に残っていた僅かな恐怖にかられたのか、半狂乱で振り回す短剣は当たることなく。エルドが剣を振った一度だけで、呆気なく地に落ちる。
金属音と共に響くは軽い音。弾むことなく角度を変えただけのそれは――ラインハルトの、手首ごと。
悲鳴は一瞬。潰れた呻きはその直後。首を掴まれ、藻掻き爪を立てる手は一つだけ。それだって、エルドにとってはなんの妨げにもならない。
「ヴァールッ! なりません、その者は!」
「――黙れ、ロディリア」
光が、耳鳴りが、震えが強まる。ラインハルトを締め上げたまま振り返るエルドの瞳はあまりに冷たく、その奥は深く。
「我が伴侶と知りながら殺そうとした者に慈悲など不要」
それは精霊の怒りに触れたのだと。もう人の理では裁くことは許さないと、首にかかる力が強まるのを、軋む音で知る。
窒息が先か、首が折れるが先か。藻掻く力すら弱まり、もはや呻き声さえ聞こえず。
それは、ディアンがエルドの背にしがみ付いても止まることはない。
「エルド、駄目です! それ以上は!」
首だけが動き、されど手は保たれたまま。せき止められた血液で赤黒くなっている顔に焦りが募る。
「こいつは知っていながらお前を殺そうとした。愛し子と知りながら手にかけた時点で、許すわけにはいかない」
「それでもっ! あなたが殺してはいけない!」
たしかに、ラインハルトがしたことは重罪だ。『選定者』と知りながら手にかけようとした時点で、それは精霊への反逆とされる。
たとえディアンが許そうと、エルドも。そして、他の精霊も許さないだろう。これは二人だけの問題ではなく、精霊界にも人間界にも関わること。
今ここで手を下さずとも、死に値する罪。それでも止めるのは、そうしようとするのがエルドだからだ。
人の選択を、その光を見守り続けたい故にこの地に残った彼が。人と精霊の中立を担う彼が。誰よりも人々を愛している彼がその手で命を奪うなど。
今までもあったことかもしれない。それこそ、繰り返す歴史の中で、何度だって。
それでも、そうしなければならないのなら。生かしておけないのならば、自分がそうしよう。
「あなたが殺すぐらいならっ……僕が、やります」
「ディアン」
「あなたは駄目です、あなただけは……っ……だめです……!」
だから自分がすると。あなたではいけないのだと。エルドが握る剣へと伸ばした手は、残る手に掴まれ遮られる。
崩れ落ちる身体が咳き込む姿は、抱きしめられたことで見えないまま。
安堵はラインハルトが生きていることではなく止めてくれたことに対して。エルドが人の命を奪わずに済んだ、その事実に。
「……わかった」
だからしなくていいと。その必要はないのだと。震える手を握り、抱きしめるエルドに頷くので精一杯。
もう圧迫感は消え、地に伏せたラインハルトも拘束された。ようやく全てが終わったのだと、吐いた息が止まる理由はもうなかった。なかったはずだった。
『――すごいなヴァール、よく耐えられたね』
この瞬間までは。その声が、聞こえるまでは。
途端、甲高い耳鳴りがディアンを襲う。真上から押しつけられるような重さも、咄嗟に目を伏せても網膜を焼かんばかりの光も、そこに。
エルドに抱きしめられていなければ倒れていたかもしれない。それほどまでに、この場を占める空気は重く、苦しく。だが、それは感情ではなく強大な魔力によるものだとどうして気付けただろう。
通路の奥、四角い逆光の中に一人の影を捕らえるのがやっとのこと。そして逆光が収まっても、光は消えることなくそこに。
「僕だったらもう首ごと切り落としてるところだよ」
頭の中から響くようだった声は、鮮明に聞こえるようになった今でもディアンの記憶に掠りはしない。
だが、その容姿は見覚えがある。白布を纏った半裸の姿。鍛え上げられた四肢。絵画のように美しく整った容姿。
親しくエルドをヴァールと呼び、門から出てきたのならば精霊だ。そして、何より、金色の髪と……同じく、金の瞳を持った存在など、ディアンは一人しか知らない。
「お前っ……!」
「なぜここに来たのですか、シュラハト!」
庇うように頭を押さえられ、ディアンが目視できたのはそこまでだ。
突然現れた存在にエルドも、何よりロディリアが怒りを露わに詰め寄る姿は見えぬまま。そして、己の娘を見つけた男の顔が綻ぶ様も同様に。
「久しぶりだねヴァール。そして、愛しのロディリア! 元気だったかい? 会いたかったよ」
「お答えください! 精霊であるあなたが前触れもなく訪れるなどっ……許される行為ではありません!」
本来なら敬意を払うべき相手。だが、ロディリアもトゥメラ隊も、抱くのは殺気と怒りだ。
人間が守らなければならないルールがあるように、精霊も破ってはならぬ決まりがある。それをこんな悪びれもなく話しかけてくるような状況、許せるはずもない。
自身が最も憎んでいる男であればなおのこと。
「久しぶりの父との再会だというのにつれないね。お前の返事を待っていたら遅くなってしまうだろう?」
「っ……ずっと見ていたのですか」
「もちろん、こんな面白いこと見ずにはいられないよ」
声が響く度に頭の中が揺さぶられ、息苦しさにどれだけ口を開いても楽にはならない。エルドから伝わる魔力がなければ、呼吸さえままならなかっただろう。
自分がいるだけでそうなっているとシュラハト本人に自覚はなく。その瞳は、愛しい娘から旧友の元へと移る。
「なぜここに来た、シュラハト」
「君までひどい言いようだ。別に私も遊びに来たわけじゃないよ」
肩をすくめ、苦笑する姿だけは人と変わらない。だが、その動作一つ、行動全てに底知れぬ怖ろしさを抱く。
認識してはならないもの。見てはいけないもの。エルドからも度々感じていた恐怖は今、明確に突きつけられている。
これが、精霊。
この相手が……最初に人間を娶った、そもそもの。
「――ぁ」
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