241.決意と恨み
それは最初からそこにいたはずだ。それでも、ディアンが認識できたのは突き飛ばされてから。
金色の髪、灰色のローブ、こちらを睨み付ける青い光。後ろに倒れる間、判別できたのはそこまで。
振り返ったエルドの自身を呼ぶ名が途切れ、強い目眩に襲われる。それらは全て一瞬の出来事。
叩きつけられた身体に襲い掛かるのは、衝撃だけではなく刺すような寒さ。ぐらぐらと揺れ続ける視界に入るのは、黒の中に揺らめく橙の光。
吐き気にも似た感覚は、門を通った時と同じで、
「くそっ……!」
誰かの悪態も、それに続く誰かの声も、まるで水の中のように不鮮明。
混乱する中、無意識に伸ばした指は胸元へ。エルドから与えられた首飾りに触れたことで徐々に視界は鮮明になる。
石畳。空間を区切る鉄格子。周囲を照らす燭台の光。ここが王宮の地下牢だと気付くのと、床に倒れたトゥメラ隊の存在に気付くのはほぼ同時。
そして、その傍らに立っていた……男の姿に、目を見開いたのも。
「っ、でん、か……!?」
フードが外れ、露出した頭部に煌めく金の髪。振り返りディアンを睨み付ける青の目。
身が強ばったのはここにいるはずのないラインハルトの姿に。そして、その手に握る長剣の反射に。
なぜ彼がここにいる。どうして自分は地下室にいて、彼は……あのローブを纏っているのか。
取り返したとは思えない。ラインハルトも持っていたのだ。
ただでさえ存在が紛れてしまうのに、妖精の多い空間ではトゥメラ隊も認識できなかったのだろう。
でも、一体いつから、
「どう、し……っ……」
「――うるさい」
世界は未だ回り、揺らぎ、それでも立ち上がるディアンに与えられるのは答えではなく、肌が傷むほどの殺気だった。
喉の奥が狭まり、心臓が締め付けられる感覚に呻く。頭の奥がぼやける感覚は、今まで何度も味わってきたもの。
発作が起きたと理解し、されど息を整えるだけの間を、目の前の敵が許すはずがない。
「お前がっ……お前さえいなければ!」
叫びに鼓膜が震え、煌めく剣身に反応が遅れる。もはや転ぶように避けた先、指先に触れるのは放り出された剣の持ち手。
倒れたトゥメラ隊の物だとディアンが理解していなくとも、それが別のなにかであろうとも、今の彼はそれを握るしかなかった。
甲高い金属音。全力で振り上げた刃がラインハルトの剣を防ぎ、よろめいた男から距離をとる。その動作一つですら息が切れ、腕は重く、身体は震える。
まともに構えていられない。肺も、心臓も、頭の中まで苦しくて。恐怖に支配されている。
それでも容赦なく剣は振り下ろされ、受け止める度に息が上がる。
――殺される。
比喩でも想像でもない。本気でラインハルトは殺そうとしている。
理由など関係ない。その事実だけが、倒れそうになるディアンを辛うじて突き動かしている。
「全部お前のせいだ! お前のせいでメリアは苦しみ続けたのに! 罪人扱いし、あんな姿にしたうえにっ……そのお前が『花嫁』など!」
唾を飛ばし、目を見開き、血走った瞳で喚き立てる言葉の半分も耳鳴りに紛れて届かない。
まだ開示されていないはずの情報を彼が知っている時点で、あの場にラインハルトも紛れていたということ。
ずっと機を窺っていたのだ。メリアを助け出せるタイミングを。ディアンを殺すその時を。
だが、トゥメラ隊に警備された裁きの場でメリアを連れ出せるはずもなく。その目で、あの一連を見届けたのだろう。
そこに至る経緯も、そうされるだけの罪状も、その耳に届いていたはず。それでも、ラインハルトには理解できなかったのだ。
全て、ディアンのせいだと。彼こそが全ての元凶なのだと。
もはや帰る場所は失ったも同然。守りたかった者は無残な姿になり果てた。
失うもののなくなった者が、心から憎む者の命を奪うのに躊躇う理由があるだろうか。
「人としての生き方だけでなく、彼女の夢も、未来も奪っておきながら! そのお前が『花嫁』になって祝福されるなど!」
「っ、ぐ……!」
「お前が苦しむべきだっ、お前が死ぬべきなんだ! 俺よりも弱いお前が、落ちこぼれの、加護無しのお前こそがっ!」
ただでさえ四肢は鈍く、そうでなくとも反撃する間を与えないほど剣の勢いは増していく。
もはやラインハルト自身も、自分がなにを口走っているかわかっていないのだろう。ディアンへの憎しみと殺意に支配され、その剣を突き立てることしか考えていない。
受け止め、弾く度に身体が震える。
ディアンの中に残っていた負荷は、多少緩和されたと言ってもまだ彼を苛み続けている。
少なくとも、直接殺意を向けられ、それに対抗しようとするには、まだ身体が覚えてしまっている。
理解していても、長年にわたって植え付けられた感覚を一ヶ月程度で忘れられるはずがない。
息苦しさに視界がぼやけ、耳鳴りはより高く強く。打開策を考えようとしたって、頭の中はぼやけて不鮮明なまま。
それでも、死ぬわけにはいかない。殺されるわけにはいかないのだ。その一心で重い腕を振り上げ、もつれそうになる足を踏ん張り、生にしがみつく。
ディアンは誓った。共に生きるのだと。彼のそばで生きるのだと。
約束したのだ。信じてほしいと。この先の未来を、共に見るのだと。
死にたくない。それ以上に死ぬわけにはいかない。だって、死ねば彼との約束を破ることになる。
だから、死ねない。殺されてはいけない!
たとえどれだけ恨まれようと、それが自分の罪だと言われようと……それだって、ディアンの選択なのだから!
受け流す腕に力が戻ってくる。握り直した柄は、もう汗で滑ることはない。
勝った記憶は遙か昔。それこそ、幼い頃に一度だけ。
それでも、何年も受け続けてきた剣筋をディアンは覚えている。その癖も、動きも、反撃の突破口だってディアンは知っている。
何度も何度も繰り返し、上手くいかなかったのは負荷魔法をかけられていたせいだ。
そして今、ディアンを妨害するものは、もはやここには無い。
甲高い金属音。手に伝わる衝動。狂気に取り付かれた青が見開かれ、紫と交差したのは一瞬。
その瞳は己の手から離れていく剣を辿り、天を見上げる。無意識の行動にいつかの自分を重ね見たのも、ほんの数秒のこと。
足は地を踏みしめ浮くことはなく、無防備な腹部にめり込むのは、固く握られた拳。図らずも報復となった一連の相違点は、それだけだった。
呻き、蹲り、えずく男を見下ろすディアンの息は荒いまま。どこかで落ちる剣の音を、誰も耳にすることはない。
構えはほどけ、腕は剣を握ったまま下に落ちる。武器を失い、崩れた相手を前にしても消えぬ恐怖に支配された身体の震えは止まらない。
遠くから響く荒々しい足音に助けが来たことを知る。まだ遠いそれも、あと十秒もしないうちに来るだろう。
生き延びたと、心を落ち着かせるにはまだ早い。
たとえ、目の前の相手が武器を持っていなくとも。ディアンに戦う意思がなくとも。蹲るその青に敵意が消えぬ限り、その男から目を逸らしてはいけない。
だからこそ、ディアンはその切っ先をラインハルトに向けたはずだった。傷付けることはなくとも、牽制として。その動きを封じるために。
よもや、自分の動きが止まるとは、露にも思わず。
「――おにい、さま、?」
甘く、囁くような。されど弱々しい声は、すぐ隣から。聞こえるはずのない、聞こえてはならない声は、確かにディアンの鼓膜を揺らす。
ディアンの意思に反し、首は音の方向へ曲がる。無人の牢屋、その無数にある鉄格子の中。薄暗い空間から浮かび上がる、二つの人影。
そもそも、どうしてトゥメラ隊がここにいたのか。ラインハルトに襲われていなければ、少しでも考える時間があれば、答えは簡単だった。
ここは罪人を閉じ込めるための場所。万が一にでも、彼女たちが逃げ出さないようにするための空間。
ならば……罪人であるメリアたちが、ここにいるのは当然。
鉄格子を掴む姿にかつての面影はない。熱が出ているのか、汗の滲む額に張り付いた前髪は黒く、瞳は焦点が合わずとも間違いなくディアンを睨むもの。
だが、それ以上に。その後ろで見開かれた金に、父親の姿に頭が真っ白になる。
ディアン、と。音もなく紡ぐ声に喉が引きつる。重なるのは自分を見下ろし、怒り、責めるかつての姿だ。
それが過去だとわかっているのに。忘れなければと思っていたのに、身体は強張ったまま、何一つだって自由にはならず。
「おにいさまのせいよ」
恨み、憎む声がディアンを貫く。鉄格子にしがみ付き、崩れる身体を支え。決して目を離すまいと睨む黒が、ディアンを捉えて離さない。
「おにいさまのせいで、こうなったのに。どうして、お兄様だけ……っ……!」
「めり、あ」
「私が『花嫁』なのにっ、なんでっ……なんでなんでなんでっ! お兄様ばっかり!」
座り込んだラインハルトの姿など、彼女には映らない。ただ一人、なにも変わらずにいる兄を。彼女にとってそう見えているディアンだけしか映らない。
自分はこんなひどい目にあっているのに、ひどいことをされているのに、こんな場所に閉じ込められて、痛くて、辛くて。なのに誰も助けてくれないのに。
ずるい。ずるいと。ひどいと。喚き責める妹に、ディアンは反応しない。反応できない。
その紫は、呻く己の父に向けられたまま逸らすことができないのだから。
「お前はっ……ぐ、ぅ……違う、私は……っ……!」
怒りに満ちた顔が、すぐに歪んで首を振る。口走りそうになるのは、ディアンを咎める言葉と、それを否定する言葉。繰り返される二つは、どちらが本心ではないのか。
魔術疾患にかかっているのは、ヴァンも同じ。メリアが生まれてから今までずっと、彼も加護という名の洗脳にかけられていたも同義なのだ。
意思だけではどうにもできないのだろう。そうだと分かっていて、振り切れないディアンだって同じ。
彼らが選んだことだと。自分にはどうしようもないのだと。そう言い聞かせたって、胸を蝕む虚しさに、向けていた剣先が落ちていくことにも気付かない。
……であれば、ラインハルトが回復しきり、懐に手を伸ばしていることだって。目すら向けていないディアンが、気付くはずもなく。
「――死ねぇっ!」
ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね等。いつもありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





