238.彼女の結果
「――え?」
それは、この場で初めて少女が口にする余裕以外の音だった。
そこに演技はなく、純粋な疑問が滑り落ちる。その端に残る甘さこそ、彼女がまだ現実を受け入れていない証拠だった。
伸ばされた手の先、彼女からは見えぬ布の中。一人芝居を眺めていた女王の声色は変わらない。
「すでに儀式は成され、ディアン・エヴァンズは精霊の伴侶と認められた。ヴァン・エヴァンズと精霊王の結んだ盟約の通りにな」
軽蔑もなく、怒りもなく。淡々とした音色に甘い夢は崩れ落ちる。
恍惚の笑みが引きつり、瞳は青と緑に点滅する。大量の加護封じで抑えきれないほどの力は、それでも事実を覆すだけの力はない。
「……嘘よ」
「否。間違いなくディアン・エヴァンズは精霊に選ばれ、彼もまた精霊に娶られることを望んだ。我々全員がその見届け人である」
「嘘をつくなっ!」
間髪いれぬ否定は、大地を揺るがすほどの怒りと共に。震える空気がどれだけ重く、突き刺さるものであっても、誰一人として動揺する者はいない。
少なくとも、彼女の視界に映る中では。
「あり得ない、こんなの、違う。違うわ、違う」
譫言のように繰り返される否定。息を荒げ、首を振り、されど開いた瞳孔に映る世界は決して変わることはない。
「……ディアンはどこ」
「言っただろう。すでにかの者は精霊の元に嫁いだ。もうこの世界にはいない」
「違う、違う違う違う、違うっ!」
前に詰め寄る罪人はすぐに取り押さえられる。それでも進もうとする執念に息を止める音も彼女の耳には入らない。
「精霊は彼を手放した! 今更そんなの許されるはずがないっ!」
「お前自身も言っただろう。全ての命は例外なく精霊のものであると。加護を与えずとも、ディアン・エヴァンズもその例に漏れなかったというだけ」
「違う! お前たちが奪ったのよ! 返してっ、私のディアンを返して!」
今の彼女にはどんな言葉も届かないのだろう。手枷の軋む音は幻聴であっても、それだけの勢いであるのは間違いなく。
総出で押さえていなければ、今頃ロディリアは八つ裂きにされていたに違いない。
だが、その手はなにも掴めない。どこにも届かない。その手の中には、最初からなにもなかったのだから。
「ディアン・エヴァンズはお前のものではない。そして、我々教会が彼に強いたことは一つたりともない」
「彼は約束したのよっ!」
悲痛な叫びが鼓膜を揺する。
あの日に、あの時に。間違いなく、ディアンは自分に誓ってくれた。その口で、確かにサリアナに約束してくれたのだ。
騎士になると。サリアナだけのものになるのだと誓ったのに。彼から誓ってくれたのに!
破るはずがない。だって、そのために彼はずっと頑張ってくれた。
私だけのために努力してくれたのに!
「私の騎士になるって誓ったのよっ!」
彼女の叫びに比例し、空気が凍り付いていく。
研ぎ澄まされたそれは、ほんの僅かな変化。気付いた者はほんの一部、その布の中に潜む者たちだけ。
「……お前の中ではそうであろう。だが、それは決して彼の意思ではない」
淡々とした響きに僅かな怒りが含まれる。
その声も口調もロディリアのもの。彼女以外が話すはずもないのに、違和感を抱いても確かめる術はない。
「お前は加護を悪用し、当時幼かった少年に恐怖を植え付け、誓うように強いただけだ。それは約束とは呼ばず、ましてや誓いでもない。かの者は、自らの意思で離別を選んだ」
違うと、返せと。喚き続ける声に、その主はただ告げる。伝わらずとも関係ない。理解されずともどうでもいい。
それは、ここで明らかにしなければならないことだ。この場、この時において。そうだと告げることに意味がある。
それでサリアナがなにも変わらずとも。変わろうとせずとも。……今、彼の腕の中にいるディアンのために。ただ、そのためだけに。
「たとえお前がなにをしようとも、どんな加護を賜っていようとも。ディアンの選択を変えることはできない。お前は、最初から選ばれてなどいなかった」
喚くサリアナがトゥメラ隊によって引き摺られていく。
嘘だと、違うと。こんなのは間違いだと。叫び続ける声は、それこそ地の底から響くほどに強く、けたたましく。
そうでなくとも、精霊から裁きが下ることを告げた声は彼女には届かなかっただろう。
「……明日、メリア・エヴァンズの意識が回復次第、お前たちもノースディアへと送り返す。処罰は追って知らせる」
「お、まち……ください……」
やがてそれすらも聞こえなくなり、残された男たちも連行するよう命令が下る。
呆然としたまま素直に従うは一人。その流れに逆らい、声を上げたのは、もう一人。
弱々しい声。揺れる金の瞳。そこにディアンの知る面影は……やはり、どこにもなく。
「ディアンは……あの子は、生きているのですか……?」
その声に、恨みはない。驚愕もない。絞り出したそれは、まるで縋りつくようなもの。
答えのない僅かな沈黙は、なにを確かめるものだったのか。ほんの数秒は、きっとヴァンにとっては永遠にも思えただろう。
「お前の知るディアン・エヴァンズは、お前自身が殺しただろう」
「――そう、ですか。……ああ、そうでした……」
譫言のように繰り返される言葉に滲む後悔も、ディアンが本当は生きていたという安堵も。紫に見つめられているとは知らず、顔は手に覆われて見えなくなる。
交わした言葉はそれで最後。連れて行かれる後ろ姿が扉の向こうへと消えれば、漏れるのは深い溜め息が一つ。
そして、真っ先に出るのは周囲への労いではなく、背後に立つ男に向けての恨み。
「……ヴァール。傍観者であれとお伝えしたはずですが」
睨み付けた先、まだ怒りの収まりきらぬ顔はそこに。ロディリアがキルクムにしたように、エルドも彼女の口を借りて言葉を発した。
声を借りようとも、それは精霊としての言葉と変わらない。
たとえ、己の『選定者』に関係することであったとしても、本来であれば許されぬ行為だ。
「もはや人が裁ける範疇ではないと言ったのはお前だろう。口を出す権利はあった、違うか」
だが、エルドからは謝罪どころか反省の素振りさえ見えない。
この程度で抑えてやったのだと言わんばかりの態度に、もう一度深く息が漏れるのも仕方のないこと。
事実、サリアナの罪は自身の管轄を超えており、今の彼を咎めたところで無意味。
今すべきことは、己の揚げ足をとったことを責めるのではなく、その彼の腕の中にいる青年へ目を向けること。
……だが、声をかけるのはそれこそロディリアではなく。
「ディアン」
肩を抱き寄せられ、名を呼ばれ。それでも震えの収まらない身体は、なんとか薄紫を見上げる。
その瞳に涙はなくとも、そうさせた本人たちがもうここにはおらずとも、刻まれた恐怖はあまりに強く、傷は深く。
「……ディアン」
そんな姿に、もう一度名を囁かれても返事はできず。頬に触れられ、与えられた温もりにようやく息を吹き返す。
「……す、み、ません。まだ……うまく、呑み込めなくて」
メリアへの処罰。彼女に与えられていた加護の強さ。そして……なにより、サリアナについて。
彼女に想いを寄せられていたことは自覚していた。多少なりとも依存されていることだって。
だが、その程度をずっと見誤ってきた。
今までの評価も、メリアの態度も、自分が魔術疾患を患うことになったのも。今までの妨害も……全て、自分を手に入れるため。
他の目的なんてなかった。ただその為だけに、ここまでのことをしていたなんて。
あまりのことに理解が追いつかない。あるいは、理解そのものを拒んでいるのか。
自分のものだと疑うことなく主張し、約束したのだと繰り返し叫ぶ声が耳に貼りついて剥がれない。
愛しているのだと見開いた瞳の、あの底のない光を思い出すだけで身体が芯から冷えていく。
きっと、エルドが告げなければ。ディアンの想いを代弁してくれなければ、ここまで冷静にはいられなかっただろう。
そう。ディアンは選んだのではない。望んだのではない。それしか残されず、縋るしかなかった。
そうしなければ父に認められないから。そうしなければ、許されないから。
それはディアンの意思ではない。望んだことではない。
最後に見た、己の父の顔に思うことは多々ある。
ディアンが生きていたことに安心していたのも、この世界から離別することを選んだことを悲しんでいたことも、まるで普通の……ディアンが望み続けた父親としての姿のようだった。
それは絶望で絞り出した、僅かな欠片だったのかもしれない。メリアの加護が、サリアナの陰謀がなければ、父に認められた未来もあったかもしれない。
それでも、彼が望んだのは。ディアンが自分の意思で選び取ったのは、エルドの隣で生きる未来。ただ、それだけ。
「それでもいい。……よく、見届けた」
柔く抱きしめられ、滲む視界をエルドの服で埋め尽くす。
ああ、やっぱりここが。この腕の中が自分のいたい場所なのだと、湿った息は胸の中に吸い込まれ、エルド以外の耳に届くことなく。
「メリア・エヴァンズだけでなく、サリアナの二重加護についてもオルフェン王に報告せねばなるまい。全く……あの女は本当にろくなことをせん……」
頭痛に耐えかね、眉間を押さえても楽にはならず。元凶たる精霊への対処に、むしろその痛みはひどさを増している。
生まれた時から加護与えたことも、洗礼以外で加護を与えることも、本来ならあってはならないこと。あるとも思っていなかったこと。
気付かなかったのは言い訳でしかない。全てが上手く噛み合わず、ここまで拗れてしまったのに教会の非がないとは言えない。
だが、そもそもの始まりは全てフィリアのせいであると。そう怒りをぶつけることは許されるだろう。
いつか自分も彼女に出会うことになるのかと、そう思えば背筋に冷たいものが走る。
今考えることではないと、そう頭を撫でられて僅かに気は和らいでも、落ち着ききるには……それこそ、膨大な時間が必要になるだろう。
「皆、ご苦労であった。罪人らの監視を怠らぬよう、異常があればすぐに対応を。ひとまずこの場は解散とする」
裁きは下り、サリアナたちも去った。ならばここに人を留める理由はないと、女王の一言でようやく周囲の空気も和らぐ。
「女王陛下」
あとはメリアの意識が戻るのを待つだけだと、吐いた息は、一つの制止によって遮られる。
強張り、固くなった声は聞き馴染みのあるもの。だが、それはグラナートでも彼女の騎士でもなく、玉座を見上げる鷲色の瞳から。
ペルデ、と。呼んだ名に、その主が顔を向けることはなく。彼の声は、静かに響く。
「……発言を、お許しいただけますか」
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