228.それでも選んだのは
呟かれた音は、不自然なほど静かに響いた。滲む視界が晴れれば、俯いていた鷲色が見上げ、睨む様を見つめることとなる。
怒りと、憎しみと、諦めと。折り重なって混ざり当たったその色に向けられる紫は、あまりに鋭い。
ペルデは問うた。どうして助けを求めなかったのかと。どうして逃げなかったのかと。今までその手はいつだって差し出されていたのに、そこにあったのにと。
ペルデからすれば、それは当然のこと。異常だと認識し、そこから逃げ出そうと考えなかったディアンの方がおかしかったのかもしれない。
それでも、その思いを聞いたって答えは変わらない。
「逃げたところでなんになったんだ」
強張っていた指は、今は拳となって震えている。
いつだって逃げられた? いつだって、そうできた?
鈍く痛む頭の奥、蘇るのは幼い頃の記憶だ。
自分を叱る父の姿。泣き喚く妹の姿。期待を寄せ、そして失望する周囲の目。英雄の息子なのにと囁かれ、どれだけ努力しても報われない日々。
自分の力が足りないのだと。自分が悪いのだと、そう言い聞かせて。言い聞かせていることにすら気付かぬままに抑えつけて。耐えて、耐えて、耐えて。
最後には確かに逃げ出した。
騎士にはなれないと。そんな都合のいい存在になれるはずがないと。自分は……自分の意思で生きたいのだと。
役目を放棄したと非難されても仕方のないことだ。臆病者だと指を差され、嗤われたって否定できない。
そう、最後にディアンが選んだのは逃亡だ。それでも、そうだとしても、湧き上がる苛立ちはどうしようもなく。
「僕には、騎士になる以外に道はなかった。英雄の息子なのに加護もいただけず、剣術も魔術もできないと言われ続けて。実力が伴わないとわかっていても、それしか僕にはなかったのに」
泣きながら一緒にいてほしいと願った姫に約束を交わされ、そうしてなし崩しに騎士になるように言いつけられて。
決して自分から選んだ道ではなく、今思えば、あれだって洗脳の一種だったのかもしれない。
だが、それだけだ。指し示されたのは、許されていたのはその未来だけ。
父のように、誰からも賞賛されるギルド員になることも、剣とは関係の無い職に就くことも許されず。騎士でなければならないのだと。そうでなければ、意味が無いのだと。
幼い頃から言いつけられて。それがあるべき姿なのだと言い聞かせられて。
そのためにずっと努力してきた。どれだけ辛くとも、苦しくとも、泣き喚きたくても我慢して、耐えて。
どうしてメリアだけ許されるのかと。なぜ、『精霊の花嫁』なのにと、そんな理不尽さだって抱いた。
それでも逃げられなかった。逃げるなんて考えられなかった。おかしいなんて、気付けるはずがなかった。ずっと目を逸らすしかなかった。
だって、ディアンにはそれしかなかったのだ。それだけが、かつてのディアンにとっての全て。たった一つ、その為だけに生きてきたのに。
「加護なしで、なんの実力もなくて、皆に嗤われて。だけど、騎士にさえなればやっと褒められると思ったんだ。やっと、英雄の息子だと胸を張って、あの人に……っ」
覚えている。忘れられない。忘れさせてはくれない。
大人たちの心ない声を。妹と比べて失望するあの顔を。己の息子に向ける、冷たいあの金の瞳を。
本当は、本当は悔しかった。惨めだった。どれだけ頑張っても実らなくて、それでも努力すれば叶うと信じて。
騎士にさえなれば、父の望んだ姿にさえなればと。
一度だけでよかった。たった一度『よくやった』と。その一言さえもらえれば、ディアンのなにかは報われたはずなのに。
逃げられるわけがない。それは諦めることだ。騎士になることを、父の期待を、自分の今までの努力を。その為だけに、ずっとずっと頑張ってきたのに!
本当に騎士になりたかったわけではない。それでも目指すしかなかった。努力し続けるしかなかった。
だった、それだけだった。それだけが!
「――僕はただ、父さんに認めてもらいたかっただけだ!」
叫びはペルデの鼓膜を揺るがす。目を見開いた鷲色から零れる雫が顎を伝い落ちるよりも先に、縋っていた指が剥がれていく。
ゆらり、ふらつき。それでも己の足で立ち上がり、唇を噛み締め。睨み付けられると同時に視界が揺らいだのは、振りかぶった腕に殴られたからだ。
不意の一撃でも姿勢を持ち直したのは、それがあまりにも弱々しいものであったからこそ。
「結局お前は逃げただろうが」
だから今更だと。それに意味なんてないんだと。
どうせ逃げるのなら、逃げ出したのならば。どうしてもっと早くそうしなかったのかと。
振りかぶりかけた腕は、流れていく涙のせいで垂れ下がったまま。口の端を拭い、そこに色がないのを確認して。
静かに鼻から息を吸い、同じように吐く。昂ぶりを落ち着かせたあとに響いたのは乾いた音。
ペルデの顔が横へ向けられ、僅かに頬が赤くなる。平手とはいえ、加減のない一撃にディアンよりも揺れた身体は、それでも倒れることなく。
「……本当に」
項垂れたまま呟く声に力はない。腕は互いに下ろしたまま。殴り返すこともなければ、続けて殴ることもない。
互いに異なる痛みを感じながらペルデはわらい、ディアンは唇を結ぶ。
「本当に、馬鹿だよ。お前も俺も……馬鹿だ……」
これこそ、この行為にこそ意味はないのにと。泣き続けるペルデの中には、なにが残ったのだろうか。
その答えも、彼らの間にも。もう、言葉が落ちることはなかった。
◇ ◇ ◇
「終わったか」
斜め後ろ。部屋を出たディアンの死角から聞き馴染みのある声に話しかけられ、身体が跳ねる。
振り返った先。壁にもたれかかるエルドに咄嗟に反応できず、見つめ合ったのは数秒か。ゆっくりと身体は弛緩し、返せた頷きは一つ。
「……そうか」
壁から離れ、ディアンの傍に辿り着くまでほんの数歩。見上げた薄紫は変わらず優しく、それ以上を問うことはない。
あるいは全て聞いていたかもしれない。その上で、止めに入らず待っていてくれたのは、ディアンの意思を尊重してくれたのだろう。
殴られた時点で止められていたなら、それこそペルデはなにも話してはくれなかっただろう。いや、今だってこれでよかったかはわからない。
結局、互いに抱えていたものをぶつけ合っただけで、なんの解決にもならなかったかもしれない。真実を話してくれる保証だってない。
……だけど、胸の奥に抱えていたなにかは、確かに軽くなっている。
「――いいえ」
ふいに伸ばされた手が己の顔に向けられていると気付けば、自然とディアンも手を上げる。故に赤くなった頬に触れる指はなく、そこはまだジクジクと痛んだまま。
痛くなかったといえば嘘にはなるし、今だって疼いている。
「治さなくていいです。……いえ、治さないでください」
だが、このままでいいと。このままがいいのだと。見上げた薄紫に拒絶はなく、されど掴んだ手はするりとほどけてしまう。
再び伸びた指先が触れるは頭の上。そうして、髪を撫でられる感触に視界が滲む。
伝わる温もりに息を吐いて、狭まる喉の感覚に呻きそうになるのを腹の奥に力を入れることでグッと抑える。
……これで、よかった。
そうこぼせば、今度こそペルデは怒り狂っただろうか
彼の恨みを。積年の思いを聞いて、あったかもしれない未来を思い浮かべる。
ペルデが自分を避けず、素直に怒りをぶつけていたなら。自分が耐えずにグラナートを頼っていたら。
この環境が異常であることを、ペルデの言葉で気付いたなら。父に認められようと足掻くことなく、逃げ出していたなら。
まるで我慢のきかない子どものように殴り合い、怒鳴り合い、最後には……求めるものが同じだった自分たちは、分かり合えたかもしれない。
誰も必要以上に傷つくことなく、苦しむこともなく。そうしてあるべき形に収まっていたのかもしれない。
だが、そうなることをディアンは望まない。
救われた者も多いだろう。こんなに自分が辛い思いをすることだってなかっただろう。
それ以上に、エルドと会えなかったことを考えるだけで、胸の奥が痛くて締め付けられる。
辛かった。苦しかった。嫌だった。
理不尽だと思い、それでも耐えて。最後には、諦めて、諦めきれなくて、足掻いて。
でも、そうしなければエルドには出会えなかった。そうでなければ、この温もりは与えられなかった。
『人』としては、それで幸せになれただろう。でも、彼に会えなかった未来を。彼と共に生けない人生を考えるだけで、足元から崩れ落ちそうになってしまう。
だから、これでよかったのだ。否、これでいいのだ。
ペルデから奪ったものは返せない。そして、ディアンが奪われたものだって返ってこない。
怒りを向ける相手がディアンしかいなかったのだとしても、もし過去に遡れたとしたって。その未来は選ばない。選びたくない。
ディアンが望むのはエルドの傍。彼と共に生きる未来だから。
……きっと、本当に騎士になっていたって、それはディアンの思っていたものとは違うのだろう。その先にはきっとなにもなかったのだ。
吐き出した息は震え、それからそっと奥に飲み込む。視線は光から横へ、自分を見つめて揺れる薄紫へと。
後悔はしていない。騎士になろうとは、やはり思えない。そう確認できたところで、この想いはまだ引き摺ってしまうだろう。
その度に思い出す苦い記憶よりも……彼にこんな顔をさせてしまうことの方が、ディアンには耐えがたい。
いつか時間が忘れさせてくれるだろう。それだけの時間が、この先ディアンを待ち受けている。何年、何十年、そうして何百年。いつか、この想いは風化する。
それを待つことだってディアンにはできる。だが、今できることはまだ、残っている。
「エルド、お願いがあります」
「……なんだ」
「断罪の場に、僕も同席させてほしいんです」
僅かに見開いた薄紫は、すぐに細められる。眉は寄り、口は閉ざされ。それだけで、本当は望まれない行為であると再確認する。
父やメリアの反応を考えれば同席しないほうがいいことは、ディアン自身だって理解している。
見ていて心地いいものではないし、受け入れがたいことだってあるだろう。
言いだしたディアン自身、彼らに……否、父に会うことを恐れていないといえば、嘘になってしまう。
あの金の瞳を思い出すだけで足が震える。声を聞くだけで、きっとなじられた記憶が蘇ってまともに話せなくなってしまうだろう。
それでも、そうしなければならない。この未練を断ち切るために。この記憶を、本当に過去にするために。なによりも、自分自身のために。
「……ロディリアも同意見だろうが、対面させることも会話させることも許容できない。それは教会としてでもあるし、俺個人としてでもある」
「見るだけでいいんです。……彼らの選択とその結末を、僕には見届ける義務があります」
エルドがその言葉に弱いだろうと、そう認識しながら願うのは卑怯だろう。ゼニスからは甘え方が違うと叱られてしまうだろうか。
ディアンにとってこれは我が儘だ。そうすべきではないことを、愛し子という立場を利用して叶えてもらおうとしている。
実際、エルドの表情は険しいまま。だが、ディアンが納得する道を考えてくれている。ディアンの選択を、尊重するように。
……本当に、十分に甘やかされている。
「わかった。あいつには俺から言っておく。だが、俺の傍から離れないこと。それから……お前にとって耐えがたいことであるのは覚悟の上として、特等席になることも覚悟しとけよ」
「……特等席、ですか?」
もう会わないと決めた者たちとの再会、そしてその断罪の一連。それを見届けることを望んだのはディアンだ。
どんなことになろうと見届けると決意を固めたつもりだが、最後の一言に思わず聞き返してしまう。
見上げた顔があまりにも不安そうに見えたのか。苦笑しながら頭を撫でる手の感触に、緩む紫を見つめたエルドの瞳もまた、柔らかく歪む。
……だが、やはり呟かれた答えは、ディアンの答えにはなり得ないもの。
「真っ正面から、ってことだ」
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