226.バケモノの証明
僅かな異音はペルデが立ち上がろうとしたもの。その反応についていけぬ身体は、未だその椅子に留まったまま。
見開いた鷲色と紫が交差し、大きく揺れたのは前者だ。後悔と、恐怖と、動揺。すぐに目を逸らそうとも、なかったことにはならない。
彼女の名を出したのは信じてもらうためのもの。故に、ここまで反応されることは想定していなかった。
ディアン自身も、ミヒェルダから全ての話を聞いたわけではない。リヴィから彼が真実を話そうとしないことだって、報告という形でしか。
だから、実際にどんな会話が行われていたかは想像でしかなく……それが、正しく伝わっていない可能性に、気付く。
少なくとも、ミヒェルダが無事であったことを彼は今まで知らなかった。
リヴィたちも隠すつもりはなかったはず。そこにどんな意図があったかは、それこそ今考えるべきではない。
「……無事だ。まだ療養中ではあるけど、一週間もすれば復帰すると聞いている」
反応はない。だが、その答えに安堵した様子は雰囲気だけでも伝わる。
「ペルデ。トゥメラ隊の人たちから、どこまで説明を受けている?」
今まで、ディアンは彼も把握した上で沈黙していると思い込んでいた。サリアナから受けた仕打ちも、それを教会が知っていることも。全部、知った上での行為だと。
確かにリヴィたちもそう説明していた。だが、その認識までが同じだとは限らない。
ミヒェルダが無事であったことを知らなかったように、まだ知らないことがあるのではないか。
求めた答えは沈黙によってはね除けられる。それは肯定にも拒絶にも捉えられ、そうなればディアンの返事は自ずと定まる。
「わかった。……まず、君は魔術疾患を患っている」
僅かに跳ねる指先。その動揺は、真実を知ったものか、ディアンが知っていることに対してか。
変わらぬ表情から察することはあまりに難しく、言葉を止める理由にはならない。
確かめなければならない。 そこに、彼が真実を語られない理由があるのならば……彼がどこまで本当に理解しているのかを。
「サリアナ殿下にかけられた魔術の影響で君には負荷が溜まり、なにかが切っ掛けで発作が起きる状態だ。君の腕に付けているのは、それを抑制するためであって罪人を拘束するものではない」
自分も同じだと、伸ばした腕を見やる瞳はない。だが、それは興味がないのではなく、見ないようにしているものだと気付いたって、ディアンの行動は変わらない。
「サリアナ殿下が君にかけた魔術は……洗脳だと、断定している。彼女がどうしてその禁術を扱えるのか、その知識をどこから手に入れたのかはまだ分かっていない。だが、彼女の魔術に影響された者の中には教会の関係者もいた」
動揺する様子はない。それとも、ディアンにそんな様を見せたくないと押し隠しているのか。既に知っていたのか。正しく説明されていたのか。
自分がそんな恐ろしい術に侵され続けていたと知っても、それを分かっていると伝えても、なにが彼の口を閉ざすのか。
「彼らは最悪の事態を想定し、その対策だってとっていた。それでも殿下の魔術はそれ以上に強く、彼らは、」
「なにが言いたいんだ」
僅かに震えた声は、ディアンの耳に届いただろうか。鼓膜に伝わったそれは、ディアンにどう伝わったのか。
怒りではなく懇願であると。そう気付くことができたなら、少しはなにかが変わったのか。
「……教会の、それも上位にいる者が万全を期しても抗えないだけの力だ。君が抵抗できなかったのは、君の意思だけでどうにかできるものではなかった。だから、」
だが、ディアンの口は止まらない。視線は交わらない。ペルデの腕は遠く、望む声は小さく。決して彼の耳に届くことはない。
故に、それは紡がれる。無情に。そうとは知らぬまま。それが、なによりもペルデが畏れていた言葉であると理解できぬまま。
「――仕方なかったんだ」
……だからこそバケモノなのだと、ペルデに証明するかのように。
「君がサリアナに利用されていたことも、なぜこの国に来てしまったかも、女王陛下は理解している。だから罪に問われることは、」
「……けるな」
ディアンの声が詰まったのは、低く唸る声だったのか。ゆらりと立ち上がる彼の異様さであったのか。
身体を支えきれずに折れそうになる膝を支えようとした身体は、逆に掴まれたことで強張り、息苦しさに呻く。
胸ぐらを掴み、真っ向から貫く瞳は、それこそ今にもディアンを射殺さんばかりに。
「ペル、」
「お前になにがわかるっていうんだ」
引き寄せられ、僅かにつま先立ちになる。咄嗟に腕を掴むことはできても、突き飛ばせないのはその怒りに圧されているからだ。
畏れていたはずの相手に掴みかかり、睨み付け。そうして迫る男が、数秒前まで立ち上がることすら危うかった者と同一だなんて誰が信じようか。
「ミヒェルダから話を聞いただけで全部理解したつもりか」
「違っ……」
「ああそうだ、お前はなにも理解していない。わかっていたなら、そもそもお前がここに来るわけがない」
軋む音は、引き延ばされる服の悲鳴か。本来ならその首を絞めたいという指の訴えか。まだ理性を保とうと足掻く、ペルデの心そのものだったのか。
そう、その響きはあまりにも呆気なく。どれだけ深く、ペルデの心を抉ったことか。
ペルデにはどうしようもなかったのだと。抗えるはずがなかったのだと。どれだけ抵抗しようと、ペルデ自身にはどうしようもなかったのだと。
確かに同じことは教会の者からも伝えられた。聞き流していたのではない。それが口を閉ざしていた理由ではない。
だって彼らは真に理解していない。ペルデがそれまで苦しんできた根本を。ただ信じてもらえないだけではない、その苦痛を。
彼らが見たのは単なる一端。それで全てを理解したつもりでいることに、半ば呆れだって抱いていた。
わかるはずがないと。それは、ただ事実をなぞっただけだと。
それはディアンに対しても同じ。同じのはず。だが、違う。違うのだ、このバケモノに言われるのだけは。それだけは、絶対に。
「仕方なかっただって?」
ディアンが理解していないと理解しながら。理解するはずもないと確信しているのに、もうその衝動は止められない。
「僕が父さんに見限られたのも、あの悪魔たちに利用されたのも、今こうしてここにいるのでさえ。それで全部片付けるつもりか」
どれだけ静かな口調でも、その怒りは十分過ぎるほどに。失言だったと気付いたところで、ディアンになにができたというのか。
「っちがうペルデ、君に非はないと……!」
「――それが今更だって言ってるだろうが!」
いよいよ爆発した衝動が鼓膜を揺さぶり、部屋中に響き渡る。肌を刺す空気に呼吸さえも許されず、掴みかかる指はさらに強く、きつく。
「俺がどれだけ否定し、おかしいと言い続け、その度に咎められて、理解されなくて! 今だってそうだ! お前はただ事実を並べているだけで、なにもわかっていない!」
それはただの一端だと。決して本質ではないのだと。喚いたってディアンには伝わらないと、理解しているのに止められない。
ずっとずっと耐えてきた。耐え続けてきた。どれだけ信じてもらえずとも、説明できずとも耐えて、耐えて、耐えて。そうしていつしか諦めて、それこそ、仕方ないと言い聞かせて。
誰も理解してくれないのは、もはやそうであるのだと受け入れて。それでも逃げることはできなくて。
苦しくて、辛くて。いつだって怖くて、憎くて。いっそこの感情を捨てられれば楽になれたのに、それだってできなくて。
でも、ペルデが本当に畏れていたのはそうではない。信じてもらえないことでも、自分が自分でない感覚に陥り、あの悪魔たちに操られていたことでもない。
洗脳されていたなんて、そんなの今更説明されなくたって、ペルデ自身が理解していた!
言葉にできずとも、それを明確に認識できていなくても、己の異常さは誰よりも!
「……お前がいなくなって、やっと終わったと思った」
その呼吸は、されどペルデの心を落ち着かせるには至らず。満たされた空気は、再び恨みを含んで吐き出される。
思い出されるのは、望まずに連れて行かれたエヴァンズ邸。誰もいない、あの空虚な部屋を見たあの日のこと。
「お前が出て行ったと知ったあの日、もうここには戻ってこないと分かったあの瞬間。どれだけ俺が幸せだったか、お前は知らないだろう」
あまりにも率直な言葉に、ディアンの呼吸も乱れる。そんな変化など、あの時の高揚に比べれば些細なものだ。
全てが輝いて見えた。眩しくて、美しくて、ようやく世界に光が戻ってきたとさえ錯覚した。
だって、彼さえいなければと信じていたから。
ペルデが巻き込まれる全ては、ディアンがこの地にいるからだと。彼さえいなくなれば、もう苦しめられずにすむのだと。
もう望まずに父の邪魔をすることも、そのせいで失望されることだってないのだと。本当にそう信じていたから。
だけど違っていた。終わらなかった。終わるはずがなかった。だってもう、その時から全てが手遅れだったのだから!
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