224.それは終わりではなく ★
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鈍く、固い。なにかが折れるような音が響く。パキリとも、ボキリとも例えがたい、不快で、不穏で、恐ろしい音が。
それと同時に、浮いていた身体がだらりと弛緩する。あんなに藻掻いていた足も、必死に喉を掴んでいた腕も、掴まれていた首でさえ。
開いたままの口から垂れた舌が、崩れ落ちる身体と共に地に落ちる。まるで糸の切れた人形のように、受け身すらとれず。呻き声も、なく。
だからこそ、漏れる音はペルデからだ。血が引く音も、意味の無い母音も、後悔も。
例外は嬉しそうに笑う声だけ。ただそれだけで。
「み、ひぇる、だ、?」
名を呼ぶ。意味がないなんて認めたくなかった。そうだなんて、理解したくなかった。
それでも、全てが物語っている。投げ出された四肢が、開いたままの瞳が、動かない身体が。あんなに苦しそうだったのに呼吸する様子がないことだって。全部、全部、ぜんぶ。
「だから言ったじゃない」
悪魔がわらう。わらっている。無力なペルデを。なにもできずにいたペルデを。彼女をころした悪魔がわらう。嗤う。
「――あなたに私は止められないって」
悲鳴が耳を貫く。視界が明滅し、訳も分からず叫ぶ。勢いのまま身体を起こそうとして、その力すらないのに気付いたのはいつだ。目の前にあるのが檻ではなく、知らぬ天井であることは。その身体が石畳ではなくベッドに横たえられていると知ったのは。
状況を理解できぬまま叫び、息が切れたところでようやく、そうであることに気付く。だが、込み上げる吐き気はペルデに現状を理解させる力を奪っていくのだ。
仰向けから横向けに。そこがベッドの上だと認識せぬまま転がった先になにを求めたのか。少なくとも、込み上げた胃液を受け止めたのは清潔なシーツで、床ではない。
周囲の慌ただしい音も、今のペルデには入らない。背をさする手も、介抱する者の存在も、今の彼を慰めるものではないのだ。
痙攣する内臓に固形物はなく、吐き出すのは体液ばかり。すえた匂いが口腔を満たし、こびり付く酸味を拭う手段はない。
波が収まれば、ようやく現実が戻ってくる。走り回る音。己が吐いてしまったこと。ここが牢屋ではなくどこか別の場所で、なぜ自分がここにいるのか。
そして、思い出したあの光景の一部が、夢であったことを。
確かに自分はサリアナを止めようとした。叫び、喚き、そうして……実際には、彼女を止めることができた。
ミヒェルダの首は折られていないし、崩れ落ちたときに息をしているのだって確認した。意識こそなかったが、命に別状はなかったはずだ。
覚えている。忘れていない。ペルデの叫びに反応し、『そうだったわ』と笑ったあの悪魔の顔だって、まだしっかりと残っているのだ。
そのまま牢から連れ出され、門へ向かい。まるで骸のような兵士たちに囲まれ、いつもどおり喚くメリアと共にこの国へ……そうして、あのバケモノと再会した。
思い出す度に吐き気が込み上げる。だが、それに比例して頭は冴えていく。
ああ、本当に。まさしくあれはバケモノだ。最後に会った時よりもずっと、もっと。それは異様なモノになってしまった。
今なら理解してもらえるだろうか。それが人の形をしたなにかなのだと。そうペルデが抱き続けた違和感も、恐怖も、それを口に出せなかった理由も。
一目見ればわかる。本能が訴えている。人が関与してはならないもの、決して目にしてはならないものだと。その理由にすら気付いてはいけないものなのだと。
乾いた笑いは、思い出したように痛む己の右腕の惨状か。こんな自分に慌ただしくしている周囲の滑稽さか。あるいは、それこそが諦めという感情だったのか。
薄れる意識の中、自分が聖国の王宮に連れ込まれたことも認識していた。自分を見放した父に再会したことも覚えている。
サリアナから引き離され、メリアとも離され、兵士からも隔離され。普通なら、ここで安全になったと喜ぶところだろう。
だが、そうではない。そうではないとペルデは知っている。もう十分思い知っている。
終わらないのだ。この地獄は。もはや全てが手遅れなのだ。
自分がこの国に居る時点で罪に問われることは避けられない。脅されて連れてこられたなんてただの言い訳。どんな事情であっても、それは免罪符にはなり得ないのだ。
誰も信じない。誰も認めない。だが、もはやそんなことはどうでもいい。
もう胃液さえも出ない。恨みも、怒りも。なのに、不思議と笑いが込み上げる。
そう、分かっているのだ。自分にできることはなにも無い。たった一つを除いて。
待つのだ。その瞬間を。自分が本当に恐れていた、その時を。
――あの紫と対峙するのを。
◇ ◇ ◇
「……話そうとしない?」
ペルデの意識が戻ってから二日。ディアンにその知らせが届いたのは、イズタムとの勉学が一区切りし、休んでいた時のことだった。
二階の端、設置されたテーブルセットに座るのはディアンとイズタム、そして彼の勉強を見守っていたエルドの三人。
傍らに立つゼニスも含めて四人分の視線は、報告に来たリヴィ一人に注がれている。
問いかけたのはイズタムであったが、疑問を抱いたのはディアンも同じ。
「全て自分の意志であるの一点張りで……監禁されていた事実は認めているのですが……」
「つまり、門を通ったのはサリアナ王女に脅迫されたわけではないと?」
表情は硬く、それこそが質問への答えだ。
ペルデがラインハルトに誘拐され、その上で監禁されていたのはミヒェルダからの話ですでに分かっていること。そして、その過程で彼女が殺されかけ、助けるために彼がサリアナに従ったことも。
長期にわたってかけられ続けた魔術。……否、洗脳のせいで彼では抗うことができなかったことだって、まだ憶測とは言っているがほぼ断定されている。
対策をとっていた司祭でさえも抗えない力だ。同い年とはいえ、未成年であるペルデにはどうしようもなかった。
説明を受けたディアン自身、サリアナがそこまでしたとはまだ信じられない。
だが、彼女がペルデを操っている光景は、すでに一度目にしている。信じがたくとも、それが真実。
「こちらが把握していることは?」
「伝えましたが……」
「……その、まだ洗脳の影響が残っている可能性は……?」
ディアンにとって、武器を持つのがそうであるように、何かが切っ掛けで彼の身体を蝕んでいる可能性はある。
なにより、洗脳は禁術とされているほどに強い魔術だ。把握しきれていないだけで、今もそう強要されているのかもしれない。
だが、その考えは双方から首を振られて否定される。
「いえ、ペルデ・オネストには現在、ディアン様と同じものを付けていただいております。治療時は例外ですが、それ以外は魔力の干渉は受けられません」
魔術負荷の後遺症を抑える効果もあるのだと補足され、ペルデも同じ説明を受けたのだと知る。だが、彼がどう捉えたかまではわからない。
教会から渡される枷というのは、基本的に罪人につけられるもの。ペルデがその意味を知らないはずがない。
周りがなんと言おうと、信じていない可能性だって。
「グラナートとの面会は」
「その必要があるのなら、としか。……ただ、あまり推奨はされないかと」
誤解が生じたまま別れることになったとはミヒェルダの話だ。
サリアナから遠ざけるために辺境へ避難させるはずだったグラナートと、そうとは知らずに見限られたと判断したペルデ。
なにより、ディアン自身は見ていないが……父親だと認識しながら手を振り払ったことも考えれば、会わせるべきではないかもしれない。
引き合わせたところで、その口はより強く結ばれるだろう。
「ミヒェルダならあるいは……しかし、まだ回復していない彼女を復帰させるのは懸念が残ります」
「彼女は、あれから大丈夫ですか?」
「症状は安定しております。あと一週間もあれば、今度こそ復帰できるかと」
数日前に説明されていた時も、最初こそ調子はよさそうだったが途中から顔色も悪く、最後には座り込んでしまった。
すぐに部屋に戻らせ休養していたが、無理をしていたのだろう。
それだけ、目に見えぬ負荷が彼女も蝕んでいるということ。その一時でさえ影響を及ぼしているのなら、長期間かけられていたペルデの負担は想像もつかない。
一体いつから、どれだけの時間をかけて。彼は苦しめられていたのだろうか。
サリアナの目的のために。ディアンを欲するという、それ以外の。彼女の真の目的のために。
「とはいえ、このままサリアナ王女とメリア・ノースディアを拘束するのには限界があります」
「なぜですか?」
「確定している罪状が、門の不正使用のみだからですよ」
補足は斜め前。静観していたゼニスから。人の姿も見慣れてはきたが、この身長差にはまだ慣れそうにはない。
確定している罪……いや、それは他にもあるはずだ。
「ミヒェルダへの危害は……」
「罪には問えますが、その為には証拠が必要です。教会の者ではない人間の証言が」
「ですが、彼女たちが襲われたのは」
「事実であっても、それを他者に証明する必要があるのです。国王に始まり英雄と呼ばれている者、世間では『精霊の花嫁』とされた者に、王女まで。そうされるだけの罪を犯したと証明できなければ、他国からは侵攻であると取られかねません」
こうして話している間も、ノースディアでは調査が進められている。両者や関係者への尋問、証明できる物や、証言。今はまだ疑いの段階で、まだ断罪には至れない。
たしかに、もう確定している事項もある。だが、それによって裁かれる大半は国王とギルド長であるヴァンのみだ。
今拘束しているメリアとサリアナに証明できる罪は、門を通過したことのみ。それだけでも大罪ではあるが、真に曝きたいことは明らかになっていない。
「他国からの不信が高まれば、教会の地位が揺らぎかねません。我々が疑われるということは、すなわち精霊への不信に繋がります」
「早急な解決が求められますが、かといって門の不正使用だけで終わらせれば……」
「……アケディアが黙っていないだろうな」
深い溜め息は、それまで聞いていたエルドの口から。そして、より険しくなる表情はディアン以外の全員が。
「なぜ彼女が?」
「まだ詳細は言えないが、この一件は彼女も無関係ではない。今でさえこっちに乗り込んでくるってのをあっちが総出で押さえ込んでいるところだ、場合によっては国ごと滅ぼしかねん。……なにより、この件に関してはロディリアも俺も寛容できない」
告げる言葉に、僅かに光が強まる。抑えきれぬ魔力はその感情を表したもの。
その反応をディアンは覚えている。誘拐されかけた時、アンティルダの者が纏っていたローブ。その素材に対しての、隠しきれぬ嫌悪と怒り。
エルドでさえこれだけ露わにしているのだ。関与しているというアケディアなら、一体どうなるか。それこそ、考えたくはない。
「……承知しております。そのためにも、ペルデ・オネストの証言が必要です」
精霊としての発言と捉え、リヴィの声は強張る。必要性を訴えたところで取れる手段はなく、ディアンに打開できる案は思いつかない。
ゼニスやエルドが聞いたところで、教会の関係者と認識されていればペルデの対応は変わらないだろう。グラナートは元より、ミヒェルダはまだ対話できるほど回復はしていない。
女王自らが向かえば、それこそ脅迫と捉えかねない。証言を求める以上、それは彼自身の意思で答える必要があるのだ。
ミヒェルダを待つだけの時間はない。だが、無理に聞き出すこともできない。
それこそ権限によって脅迫し、国を乗っ取ろうとしたと他国に思われかねないからだ。
だが、どうすれば……。
「話してみるか、ディアン」
思わぬ提案に目を開き、驚いたまま固まってしまう。それこそ、考えられる中で最も悪手だ。
「僕は彼に恨まれています。それこそ、証言どころか一言も……」
ディアンは知らなかった。だが、それでペルデの恨みが消えるわけがない。
彼から意図せずグラナートを奪ったのも、サリアナから魔術をかけられ続ける一端となったもの、全てディアンのせいだ。
ディアンの自覚など関係ない。彼さえいなければと、関わらなければと、そう恨まれても当然のこと。
ペルデが最も安全であろう場所に通い詰め、避けたくとも関わり続けたのは他でもない自分自身だ。……なにを謝っても許されないし、許されようとも思わない。
そんな言葉一つで、彼の苦痛がなかったことにはならないのだから。
「ダメ元でも、なにもしないよりはマシだろ。それでも話さないならミヒェルダが回復するまでもたせるしかない」
ノースディアでは捜査が進んでいても、ペルデが証言するまで最も重要な事態は動かない。
猶予はない。彼女を正しく裁くために。彼女たちのせいで、これ以上他の者に害が成される前に。精霊の怒りが、この世界を脅かすよりも先に解決しなければ。
……だが、
「……嫌か」
「違います。ですが、僕では……」
嫌ではない。そう、それは違う。嫌ではないのだ。ただ、余計に彼の口を閉ざしてしまうことを恐れているだけ。
「俺はグラナートの子息に関しては知らない。だが……今だからこそ、言えることがあるんじゃないのか」
息が止まり、身体が強張る。それはディアン自身が気付いていなくとも、たしかにその心臓を揺るがすだけの何かを含んだものだった。
……恐れているのか?
十数年間、ペルデが抱えていた恨みを。誰にも打ち明けることもできず、煮詰めるしかなかった憎悪を。その絶望を真っ向から向けられることを、無意識に怖がっていたのか。
謝ったとて許されないと。許されたいとも思わないと。故に、その感情を受け止めようとすることすらしないと。
それこそ、彼に対しての侮辱ではないのか。
「ぼく、は、」
決めるのはお前だと、薄紫はディアンを見つめたままだ。催促することも、止めることもない。
ただ待っている。今までのように、これから先のように。ディアンの選択を。答えを。ディアンにとっての、最善を。
これが正しいかなんてディアンにはわからない。間違っているかもしれない。
だが、それを決めるのはディアンではなく。ならば、あとは迷いを断ち切るだけ。
拳を握り、視線は薄紫から前へ。そうして見つめているリヴィへと向けて、その選択は告げられる。
「……一つ、お願いがあります」





