222.悪魔のお願い ★
「ねぇ、ペルデ。手伝ってほしいの」
薄暗く、肌寒い牢屋の中。まとわりつくような湿気は、この場所が地下に存在することを示している。
吐いた息どころか、己の鼓動すら聞こえてきそうな静寂の中。悪魔はいつかのように甘く囁いた。
蝋燭の光に反射する金の髪、広く自由な青空を思わせる蒼。ローブの下であろうと隠しきれぬ煌びやかなドレス。石畳を踏みつける汚れ一つない靴。
その全てがこの牢獄には不釣り合いなはずなのに、向けられる視線だけで全ての違和感が消え去ってしまう。
浮かべる柔らかな笑みは、それだけでも完璧だっただろう。むしろ、その彼女に見つめられている方が異常なような気すら抱かせてくる。
まるで世間話のように、普段と変わりなく願いを口にした少女が見つめるのはやつれた男の姿。
もうペルデがここに閉じ込められてから何日が過ぎただろう。そして、彼が数えるのを諦めてからどれだけ経ってしまっただろう。
ここに来るのは食事を与えてくる兵士だけで、それもおそらく一日に一度だけ。確信が持てないのは、時間の経過を確かめられるものがそれしかなかったからだ。
寝ても覚めても同じ景色。自分がこの先どうなるのかも分からず、敵の目的も知れることはなく。寒さと飢えに襲われる中、囚人以下の扱いを受けて。
これがあのバケモノであればまだ耐えられたかもしれない。他の鍛えられた兵士や冒険者であれば、まだ保っていたかもしれない。
だが、そうではないとペルデ自身は理解している。
自分は魔力に秀でているわけでもなければ、特別頭が回るわけでもない。ただ、司祭の息子であったというだけの、ただの一般人。
他からの評価がどうであれ、それがペルデにとっての真実であり変わることのない事実だ。
まだ自分がこうして正気を保っていられている方が異常だとすら考える。
否、狂っている者はそうだと自覚することもないのだ。ならば自分も既におかしくなっているのか。
いっそそうだったなら救われたかもしれない。どんな事象だって、この悪魔と対峙するよりマシなはずなのだから。
吐いた息は白くならずとも、その身を温めるものはなく。柔らかな笑みだって優しいものではない。
薄汚れ、衰え、叫び逃げ出す体力すらないペルデを心配することもない女がなにを考えているかなど、ろくに回らぬ頭でも分かりきったこと。
「……そのために、僕をここに閉じ込めたんだろう」
掠れた声は、渇いた喉から。不思議と震えていないのは、檻という壁が最低限の距離を稼いでくれたからなのか。あるいは、そのどうしようもない理由に呆れの方が勝ったのか。
ディアンを連れ戻すためだけに誘拐したなんて。少し前なら理不尽さでそれこそ頭がおかしくなっていただろう。
あのバケモノのせいで巻き込まれたのだと。どこまでも自分を苦しめる存在だと。
だが、今は不思議なほどに心が落ち着いている。そう、どちらにせよ自分はあのバケモノから解放されないのだ。
終わったなんて錯覚だった。いなくなったなんて、ただの結果に過ぎなかった。
あの男がペルデの傍にいようと、どこでなにをしていようと。それこそ、死んでいたってペルデが開放されることはない。
そうだと理解している。納得している。受け入れている。どう足掻いたって逃げられないことを、もう十分に突きつけられている。
だから怒りはない。悲しみもない。憎さだってない。
……あるのは、どうしようもない虚無感だけ。
ただ理解できないのは、自分を誘拐したところであのバケモノを連れ戻せる理由にはならないということだ。
戻ってこなければ命を奪うというのならまだ理解できるが、それなら適当な市民でも捕まえればいいことだ。
わざわざペルデを捕らえ、そうしてあのバケモノの元まで連れて行くリスクを冒すだけの利点が存在するとは思えない。
ああ、それもただの一般人である自分には理解できないだけかもしれないが。
「あら、それは誤解よペルデ」
だが、目の前の悪魔は笑ってそれを否定する。数字の間違いを訂正するように。幼い子どもの過ちを咎めるように。それはどこまでも穏やかなまま。
「確かに私はあなたをここに連れて来る手助けはしたけど、あなたを利用したかったのはお兄様だけよ。お兄様と私の目的は違うわ」
「……そうだろうな」
もはや敬語すら使わず、されどサリアナの機嫌が損なわれた様子はない。どこまでもその笑みは変わらず、そうなると疑いもしていないまま。
ラインハルトとサリアナの目的が重なるはずがない。彼はディアンを嫌い、彼女はディアンだけを求めている。ラインハルトはあのバケモノを遠ざけたいと考えて、サリアナはそばに置きたいと考えている。この時点で重なるはずがないのだ。
この際、ラインハルトの目的が本当はなんであったかは問題ではない。今、サリアナがそのためにペルデを利用しようとしていることだけが事実。
「正直なところ、あなたを連れて行かなくても問題はないの」
蝋燭は揺らめく。ペルデの心を表すように。その発言の意味を問うかのように。
「私一人でもディアンを迎えに行くことはできるし、ディアンだって戻ってくれるはずだわ。むしろ、あなたを連れて行くことの方が手間だしリスクだってある」
「……それを理解して、なぜ?」
戻ってくると疑いもしていないことに、もはや恐怖を抱くのは遅すぎる。それよりも、リスクがあると認識できるだけの正気があった方に驚く。
恋は盲目というが、それでも判断できているのならばなおのこと。なぜペルデに協力を仰ぐのか。
首を傾げ、顎に指をあてがい。少し悩む仕草は、やはりこの状況にそぐわない。だからこそ異様で、だからこそ恐ろしい。
「強いて言うなら、お兄様への嫌がらせかしら。それに、今まで上手くいったのはあなたのおかげだもの。そんな人をここに閉じ込めたまま去るのは、さすがに可哀想だと思って」
どの口がと、湧いた怒りだってすぐに収まってしまう。それがペルデの意思でなくとも、それにどれだけ抗おうとしていたかも、もはや関係ない。
ペルデは情報を漏らし、サリアナはそれでディアンの動向を把握していた。
それがどれだけ強力な魔術で、ペルデに対抗する術がなかったとしても、事実を変えることはできない。そして、その罪だって。
言い訳したところで、誰が信じる? 誰が耳を傾ける? 誰がペルデを庇い、仕方なかったことだと慰めてくれる?
否、誰も。そんな存在、誰一人だって存在しない。
父と呼んでいた人にすら見放されたのだ。……もはや、訴えたところでなんの意味があろうか。
「それで、手伝ってくれるわよね?」
今までのように。これまでそうしてきたように、次も『手伝って』くれるだろうと。
そうでしょうと、疑うことなく彼女はわらう。嗤う。
ああ、本当に不思議なものだ。こんな檻一つで、こんなにも怖くないなんて。たったこれだけで、なにも感じなくなってしまうなんて。
「……断ると言ったら」
「それでも構わないけれど……明日からここには誰も来ないから、最悪は飢え死にするわね」
お願いではく脅迫だと、少し前ならそう噛み付いたことだろう。だが、彼女にとってはお願いだ。だって、彼女の計画にペルデの存在は必要ない。
気が向いたから。可哀想だったから。声をかけるのは、そんな気まぐれからくる衝動。
ここで断っても彼女にはなんの支障も無い。故に、それは脅迫ではなく事実を並べただけのこと。
なぜそうなるか、そんなことはペルデには関係ない。彼女がそう言うのだから、本当にそうなるのだろう。
いいなりになっても、拒んでも、どちらにしろ待ち受けているのは死でしかない。
「あなたがここに閉じ込められているなんて誰も知らないでしょうし、誰も口には出さない。皆、それだけ教会を恐れているもの」
「恐れているからこそ、隠さず伝えるのでは?」
「お兄様にそこまでの度胸はないわ。あの人、プライドだけは人一倍だもの。そのうち家臣が口を滑らすにしても、それまで何日かかるかしら」
ラインハルトがメリアに好意を寄せていることが誰まで広まっているかは不明だ。少なくとも、あのバケモノと思われている本人は知らないだろう。
ラインハルト曰く、望まずに『精霊の花嫁』に嫁がされる可哀想なメリア。そんな彼女を無理矢理連れて行こうとする教会は、彼にとっての敵。
今の状況はさぞ苛立たしいことだろう。そう考えれば、ペルデを利用してグラナートを脅し、そうして教会を揺るがそうとしたのには……浅はかではあっても、一貫性があるともいえる。
そんな相手にペルデの存在を漏らすことは、あの男にとって耐えられぬことだろう。そして、他の者も責任を逃れるために口を閉ざす可能性は高い。
たかが庶民の子どもの命と、自身の罪と。秤にかけるまでもなく、犠牲にすべきは前者。
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