220.『中立者』について
「命に別状はなく、今のところ症状も安定している。が、まだ目を覚ましていないな」
「……そう、ですか」
記憶に残っているのは、サリアナを睨み付ける光景。彼がこの件に関係ないのに連れてこられたのは、女王陛下の発言からもわかること。
どうして彼が巻き込まれるに至ったのか。そうして、誰が魔術負荷をかけ続けていたのか。……その原因に、少なからずディアンも関わっているだろう。
ただグラナートとの時間を奪っていただけではない。ディアンが知らぬだけで、それだけの憎悪を抱かせるだけの原因が。
結果的にディアンを助けることになったが、それは彼女に対抗するためのもの。そこにディアンへの感情はないだろう。
謝るのは簡単だ。ディアンがなにかをしたわけではなくとも、結果として彼を苦しめたことは事実。その想いを伝えるだけなら。
だが、謝罪とは許しを求める行為でもある。そこに許さなくてもいいと、そう付け加えたところでペルデには負担になるだろう。
謝ったところで彼の時間は戻らない。
……エルドが己に向けた謝罪は、きっと同じ気持ちだったのかと。噛み締めたところでそれがペルデへの慰みにはならない。
彼を追い込んだ根本はディアンにある。だが、そうなるに至った原因は、間違いなくサリアナだ。
ディアンを連れ戻すためだけに協定を破り、さらにはあんな強硬手段に出るとは考えられない。
他になにか目的があったはずだ。そうでなければおかしい。
ディアン一人のためだけに……ついでだったとしても、あんな危険を冒してでも連れ戻す利点などないはずだ。
『候補者』が『選定者』の隠語であるのは、この国に来てから初めて知らされたこと。仮にペルデから聞き出したとしても、彼だってこの情報は持っていなかった。
盗聴されたとも考えられない。アンティルダに要請したことと関係があるはずだ。
だが、それは……一体、なんのために?
「サリアナ殿下はなぜ、こんな……」
「それはまだ調査中だ。そして、彼女のしたことを罪として確定させるために、今は証拠を集めている。……お前に説明できるのはその後だ」
だから考えるべきではないと。それはただ悪戯に体力を奪うだけだと、そう言われればそれ以上は言葉にできず。実際に得られるものはないだろう。
なにが彼女をあそこまで突き動かしたのか。それこそ、考えたところで分かるはずもないのだから。
今も話はしているだろうが、仮にも一国の王女に手荒な真似はできない。ペルデが回復し、話が聞けたなら、もしかしたら彼女の思惑もわかるかもしれない。
ならばやはり、ディアンにできることは待つことだけだと。
改めて突きつけられ、握った手の中にあるのは悔しさか、無力さへの嘆きか。名前も付けられない、なにかだったのか。
「で、あとは俺についてだが……」
「…………あ、いえ! それは、あの、もう少し慣れてからが……!」
「俺が聞いてほしいんだ」
落ち込んでいたせいで反応が遅れたが、そういえば最初はそんな話だった。
本題に戻ってもそのまま聞ける覚悟はなく、懇願はより強い響きに遮られて止まる。
逸らしていた薄紫に視線を合わせれば、声以上に強い光は、そこに。
「というかお前が知らなかったことを説明できるというか、説明していたつもりだったというか……」
だが、ようやく合った瞳も今度はエルドの方から逸らされて、見えるのはうなじを押さえる横顔と、そこに滲む反省。
エルドとディアンにとっての、初めての洗礼を言っているのだろう。
最初はそれを知りたかったからこそ聖国へ向かうという話だったのに、もはや気にしていなかったというか、気にならなかったというか。
ただエルドと共に生きていければそれでいいと考えてしまっていたから、忘れていたというか……。
「本当に、あれに書かれているのはお前に伝えたぐらいの情報しかないからな。暇つぶしだけなら十分でも、知りたいのはそうじゃないだろ?」
あれ、と呼ばれた本はディアンの手元から離れてどうなったか。エルドに言われてからやっと投げ出したことを思い出し、慌てて探した表紙はしっかりとイズタムの手元から元々あった位置へと戻されるところ。
エルドがすでに伝えた情報となると……本当に、その数は限られてくる。
「あなたが精霊王の三人目の分身であることと、本当の名前ですか……?」
「……いや、名前は書いていない。俺が消すようにロディリアに頼んだからな」
では、本当に最低限の情報しかない。ページにしたって十は超えないだろう。あの中身のほとんどが白紙であっても不思議ではない。
なぜ、そこまでして隠そうとしたのか。短く息が吐かれた後も、視線は絡むことはなく。
「俺が『選択』を司った切っ掛けは気付いているな?」
問われ、考え、そして頷く。
最初に人に加護を与えたとされるデヴァス。彼を畏れながらもその手を取った人の祖先。
その光景に、その可能性に魅入られたのがエルド……否、ヴァールという精霊であること。
人が人の意思で選ぶその強さに惹かれたのだと、訴えた彼の声はまだ胸の奥に残っている。
それこそ、この地に残ってでもエルドが人々を見守りたかった理由。
「ロディリアの有用性が証明された後、あいつと一緒に精霊界に来た時は精霊への信仰がまだ残ってるか調べるために各地を回っていてな。で、そのうちに教会としての組織が作り上げられ、ただの人間が増えてきた頃、トゥメラ隊と俺の区別を付けるために用意したのが『中立者』という立場だ」
懐を探り、取り出されたのは彼の身分を証明するためのメダル。前は一部しか読めなかったそれも、旅の途中で古代語を教えてもらっていた今のディアンには大半が読めてしまう。
刻まれた文字は、ロディリアの名の下に、この者が『中立者』であることを証明するという一文。
「『中立者』が精霊であること、そして『中立者』の身分証が古代語で綴られていることを知っているのは、人間なら司祭の資格を有した者のみ。で、俺は人間が精霊への不敬を働いていないか、また精霊の行いが人間に影響を及ぼしていないかを確かめるという名目で各地を回り、教会を通じてロディリアに報告していたわけだな」
今でこそ、精霊は存在して自分たちを見守り、そこに至るまでにさまざまな物語があったことを誰もが知っている。教会が担う役割も、その意味も、必要性だって。
だが、最初からそうでなかったことをディアンは知っている。女王となったロディリアが、そしてこの地を見守ろうとしたエルドがいたからこそ……精霊も人間も、今日まで変わらず在り続けているのだと。
「あの……精霊王はあなたを連れ戻したいと認識していたのですが、当時はどうだったんですか?」
そもそも、エルドに人間の伴侶をあてがおうとしたのは、婚姻によって精霊界に戻ることを狙っていたからだろう。
伴侶を得てまでこの地に留まることはない。あるいは、それだけ好んだ人間と一緒に居られるのだからもう人間界に留まる必要はないと。そういう思惑もあったのかもしれない。
真相こそかの王に聞かねば明かされぬこと。その機会があるかはともかく、そこまでする相手が素直にエルドが精霊界から離れるのを許したとは考えにくい。
「素直にってわけにはいかなかったが、無理矢理納得はさせた。精霊王も、俺がここまでこの地に留まるとは思っていなかったんだろう。一応ゼニスを監視に付けるのを条件にされたが……まぁ、数千年も一緒にいれば色々とあるもんだ」
さすがに数千年という時間は精霊にとっても長かったらしい。
精霊王が想定していたのが何百年であったかは定かでないが、いつかは帰って来るという思い込みもあったのかもしれない。
当時からゼニス……否、インビエルノは精霊界にいたようだ。
精霊記にも、精霊王に付き従ったとの記述は残っているし、嘘ではないだろう。だが、どこまでが本当の話かは、単純に興味がある。
本当に一晩で世界を駆けたのか、その雄叫びは数百の山々を越えたのか。どんな経緯で精霊界に辿り着き、そうしてエルドと打ち明けるまでになったのか。
ディアンがこの世界を離れ、彼の地に向かった後もゼニスとエルドの関係が終わることはない。ならば、ディアンもゼニスのことを知っておく必要があるはずだ。
エルドの理解者として。そして、エルドと同じく自分を見守ってくれた存在として。
「まぁ、ゼニスについてはおいおい話すとして……あの頃に比べれば『中立者』らしい動きはしていないが、各地を回るって意味では役目を果たしているとも言えるし、今更名称を変える必要もない。だから、これから先も俺がこの地でヴァールと名乗ることはないし、エルドという名を変えるつもりもない」
だから、と。ようやく絡んだ瞳に込められるのは、強い意志とディアンへの願い。
「……お前には、今まで通りエルドと呼んでほしい。お前を加護する精霊としてではなく、お前と共に生きる存在として」
引きかけていた熱が、再び顔に集まっていくのは錯覚ではない。込み上げるのは恥ずかしさ。だが、それ以上に感じるのは喜びだ。
そうだとエルドが言ってくれただけで。そうだと彼が思ってくれるだけで、こんなにも満たされてしまう。
「……はい」
だからこそ、ディアンは目を逸らさない。真っ直ぐに薄紫を見上げ、頷き、笑う。
彼が安心できるように。この思いが、喜びが伝わるように。誤魔化すことなく、隠すことなく。
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