209.通じ合った朝
「まったく……ここまで馬鹿だとは思いませんでした」
さて、あれからどれだけの時間そうしていたか。
冷静さを取り戻したディアンに地下の温度はあまりに低く、抱きしめられていた時間は長かったようには思う。
ゼニスが戻ってきたのが何十分か、何時間か。
そこから投げた鍵を探してもらうので更に時間がかかったことを含めて、誰にも正確な時間はわからないだろう。
地下から出るなりリヴィ率いるトゥメラ隊に囲まれ、共に押し込まれた一室。離された位置に立つエルドに向けられる視線は冷たく厳しい。
声に出していないのは、その気持ちをゼニスが代弁しているからだ。いつもの姿なら唸って牙を剥いていただろう彼は、容赦なくエルドを睨みつけて呆れている。
「あなたはともかく、この子にあの寒さが耐えられると思ったんですか」
この子、と称されながら指で示されたディアンの現状たるや。
地下を出るなり全身を毛布に包まれ、部屋に連行されてからは座った両側を守られている状態。
出ているのは頭と手先ぐらいだ。その手だって、湯気が昇るマグカップに塞がれている。
これを大袈裟だと言えぬほどには身体は冷え切っているし、実際に飲んだココアの温度は聖水以上に身体に沁みる。
一緒に差しだされたパンに、これが朝食を兼ねていることと、一晩経っていたことを自覚したところで事態は解決しない。
「こんなに冷え切って、おかわいそうに」
「あ、いえ、あの……」
「なんと配慮の足らぬ。……他に冷たいところはありませんか?」
ディアンを心配しているのは演技ではないが、やたらと突き刺さる言葉はわざとに違いない。
ゼニスにも、リヴィにも。そして他のトゥメラ隊にも責められた当人はむしろ呆れた顔だ。
「だから、扉が開かない以上どうしようもなかったって言ってるだろうが」
「鍵ぐらい壊せばよかったでしょう。これ幸いに抱き合う口実にするなど……」
「それこそロディリアに怒られるだろ」
見上げるエルドと、見下ろすゼニス。身長は逆転し、なんとも不思議な感覚だ。
こうして言い合っている姿を見るのも初めてのはずなのに、見覚えがあるような、安心するような。
とはいえ、小言が刺さっているのはエルドだけではない。
そもそも鍵を投げ捨てたのはディアンだし、互いに薄着だったのもそうだ。
あのベッドにシーツはなかったので纏うことはできなかったし、となると互いに触れ合う以外に暖を採る方法はなく。
だから仕方なかった……とも言えないのは、確かに口実にしたところもあるからで。
「散々怒らせておいて、今更なにを」
鼻で笑う音に馴染み深さを感じていたのも束の間。蒼は下から横へ向かい、ディアンの元で止まる。
「あなたもです。鍵を外に投げ捨てるなんて……」
叱られているが語尾は若干柔らかいし、なにより視線も強くない。むしろ呆れの方が勝っている印象だ。
これこそ幼児に言い聞かせるように感じてしまい、反省よりも苦笑が先に出てしまうのは許してほしい。
……聞こえていなかっただけで、いつもこんな感じで接してくれていたのか。
「すみません。でも……ああでもしないと、聞いてもらえないと思って」
いや、実際にはそこまで考えていなかった。ただ聞いてもらうために必死で、今思えばどうしてあんなことをしたのか。
でも、今でも間違っていたとは思わない。あの場に留まらなければ……あそこから逃げていれば、それこそ今はないのだから。
「それは否定しませんが、もっと他にやりようがあったでしょう?」
遠回しな同意と、やはりエルドに比べて柔らかな口調に苦笑するしかない。
誰よりも彼の頑固さを知っている男だ。強硬手段に出なければ折れないのは想定しただろう。
……とはいえ、背を押した相手が出る手段を放棄するとは思わなかっただろうが。
「せめて毛布を持って来るとか、鍵を捨てたフリをするだとか――」
「それを言うなら、見張りを怠ったあなたにも責任があるでしょう」
凛とした声に、全ての視線が扉に注がれる。正確には、そこに立っていた女王陛下にだ。
姿勢を正すトゥメラ隊に続いて立とうとすれば手で制され、目の前までやってくる彼女を見上げる間、ゼニスもエルドも言葉を発することはなく。
「おはようございます。……他に不調は?」
「お、はようござい、ます。お心遣い、感謝いたします」
「……そうですか。なら、この件に関して私から言うことはありません」
座ったまま頭を下げ、続くと思っていた苦言はなく。再び見上げた金は、一度伏せてからまたディアンへ注がれる。
強い眼光は怒りにも感じ取れただろう。昨日の時点であれば身構え、怯え、虚勢を張っていたに違いない。
だが、そうではないとディアンは理解する。言葉がなくとも、その視線だけで。その奥に滲む光だけで。
「結論を急ぐ必要はないと伝えたはずですが……どうやら、答えは出たようですね」
「……はい」
背を伸ばし、カップを握る手に力が籠もる。伝わる熱が指先を焦がそうとも、その力が緩まることはない。
「繰り返しますが、二十年前に交わされた盟約を守る必要はありません。あれはあなたの父と精霊王との間で完結すべき契約。あなたはそれに巻き込まれただけ。いわば、生贄に差しだされたようなものです」
その単語に反応したのは、ディアンではなく視界の端に映る男。精霊の伴侶をそうだと認識し続けたエルドだけ。
昨日のロディリアからも、ディアンを人として留めようとしたエルドも、伝えることは同じだ。盟約を守る必要はないと。それは、ディアンには関係ないのだと。
……それでも、そちらを選ぶのかと。
「旅を続けることも、名簿士になることも、また新たな道を探すのもあなたの自由です。それを咎める権利は誰も有していません。あなたの父も、妹も、あなたを連れ戻そうとした王女にも」
なじる声は幻聴だ。なぜ騎士にならないと、どうしてお兄様がと。約束を破るのかと。どうして、一緒にいてくれないのかと。
囲まれ、責められ、強要されたあの日が頭の中をよぎって……少し身体が強張るのは、染みついた恐怖のせい。
そこに後悔はない。寂しさもない。
彼らに何と言われようと、もうディアンは道を違えることはない。
「この男に脅されたのでも、泣き落とされたのでもないのですね? 同情する必要は一切ないのですよ?」
「いいえ、誰も関係ありません。父も、精霊王も。……そして、エルドだって」
頷けば畳みかけるように確認され、本当なら笑うところなのだろう。
だが、ディアンは声を張る。この意思が、この決意が彼女にも伝わるように。信じてもらえるように。
「これは僕が、僕自身の意思で選んだことです。人としての生を歩めなくなっても、人としての幸せを諦めることになっても、その先で後悔したとしても……僕は、彼の隣にいるのだと」
顔を逸らせば、求めた光はすぐそこにある。ディアンを見守る薄紫は、彼と共にあると誓ってくれた彼の姿は、そこに。
これまでのように。……これから先も、ずっと。
「いつかその日が来たとしても、一緒に後悔してくれると約束してくれましたから」
だからもう迷わないと。だから、この道は自分で選んだのだと。
見下ろす金に視線を戻そうとして……クツリと、喉の奥で押し殺した笑いに目を瞬かせる。
緩んだ顔が視界に入っていなければ、それが彼女から発せられたものとは気付かなかっただろう。
「いえ、そこまで意志が強いなら、もはや疑うのは失礼というもの。……では、準備が整い次第始めましょう。よろしいですね?」
「……ああ、俺は構わない」
同意を求められたのはディアンではなくエルドだ。この流れだけでなにをするのか伝わったようだが、ディアンの頭には疑問符が飛び交う。
「あの……なにをでしょうか?」
ゆえに素直に問いかければ、女王の唇が美しく歪む。目を細め、微笑み。そうして……呟かれた言葉は、その表情以上に優しく響く。
「あなたと彼の洗礼をですよ」
ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね等。いつもありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





