208.二人の答え
掴んでいた手が緩む。圧迫感から解放され、落ちた指を追いかけるようにエルドの顔は俯いていく。
吐き出す息の白さに寒さを思い出す。忘れていた冷気が一気に押し寄せて、それでも痛みは胸の底。打ち付ける鼓動がなによりも訴えてくる。
数秒にも、数十秒にも思える時間はあまりに長く。それでも答えを待ち続ける。
「――だめだ」
眉を寄せ、歯を食いしばり。そうして……ようやく絞り出した答えは、望んだものではない。
血液が沸き立ち、怒りのあまり視界が明滅する。
どうして。どうして、どうして。……どうして!
「っ……どうしてわかってくれないんですか!」
「お前こそ、なぜここまで語って理解しない!」
人ではない光がディアンを貫く。怒りに交差するのは葛藤だ。選ぶわけにはいかないという強い意志だ。
それでも畏れはない。それは精霊ではなく、エルドとして。彼自身の言葉であると知っているから。
「お前の強さは俺がわかっている! 人がそうして生きてきたことだって、どの精霊よりも俺が! だが、その覚悟をもってしても耐えられるものではないんだと俺は! っ……俺は……」
歪む。揺れる。滲む涙に薄紫があふれて、落ちたのは頭が先だ。
俯き、頭を抱え。勢いを失っていく言葉は、それでも紛れることはない。
「お前があんな骸になるなんて、耐えられない……っ……」
懇願は響く。鼓動も、血潮も、耳鳴りも。妨げるものはなにもなかった。
許してくれと、わかってくれと。縋る声は間違いなくディアンに届いた。
愛しているからこそ離れたいのだと。愛しているからこそ、離れなければならないのだと。
揺さぶられる頭の中、天秤は傾き続ける。怒りと、諦めと、悲しみと。全てが混ざり合って、ぐちゃぐちゃで。
それでも声を出すのは。出さなければならないのは……それこそ、彼との誓いを守るためだ。
後悔しないために。悔いのない生を、全うするために。
「……そうならないと言ったって、あなたは信じないでしょう」
もはや心臓は冷え切り、締め付けられる痛みに目の前が滲む。紡ぐ声は、もはや喘ぐようだ。
「絶対にそうならないなんて言えません。そんな建前であなたの恐れを取り除くことができないことも分かっています。どれだけ訴えたってあなたは否定する。後悔すると、間違いだと」
どんなに伝えようとしても信じてはもらえない。だって、約束なんてできない。
その時に自分がどうなっているのか。それこそ、その時を迎えなければわかるはずがない。
エルドの恐れが現実にならない保証はないのだ。こんな嘘では、彼には信じてもらえない。
わかっていても胸が痛い。苦しくて、締め付けられて、息だってままならない。
だけど伝えたいのだ。それでもいいのだというこの想いを。彼に。
「離れるのも、一緒にいるのも、どちらが後悔しないなんて僕にはわかりません。どちらが選ぶべき答えだったのかなんて、そんなのわかるはずがない。……だけど、」
視線は合わない。エルドはディアンを見ない。それでも、どうか届いてほしいと彼は願うのだ。
「僕のこの想いが過ちだというなら。そうだと僕を信じてくれないのなら――どうか、一緒に後悔してください」
見開く瞳に、ディアンはどう映っていたのだろう。その揺れる光は、そこになにを見いだしたのか。
涙が溢れ、滲む世界ではわからない。エルドがどんな顔で自分を見ているかなんて、そんなの、怖くて見られない。
それでも伝えたいのだ。この我が儘を。願いを。彼への愛を。
「共に居なければよかったと一緒に悔やんでください。間違いだったと認めて、そうしなければよかったと諦めて、共に生きてください」
声が、息が、感情が。震えて、定まらなくて、それでも伝え続けなければならない。もうそれしかディアンにできることはないのだ。
しがみ付き、縋り、跪き。それでも彼は受け入れてくれないから、だから、言葉にするしかない。
この想いを伝える以外にはなにも、なにも!
「僕があなたを選ばなければよかったと嘆くように、僕に出会わなければよかったのだと悔やんでください。あの夜、あの洞窟で、あなたの加護を受け入れたことを。僕に加護を与えたことを。僕を仮初めでも伴侶にしたことを。あなたが僕を、えらんだ、ことを……っ」
喉が引き攣り、言葉が詰まる。止めてはいけないのに。伝えなければいけないのに。
言葉にできないのがもどかしくて、辛くて、苦しくて。それでも、もうこれしか残っていないのだから。
「ぼ、くがっ……人の生を惜しんで泣く度に、あなたも苦しんでください……っ同じ後悔なら、どちらを選んでもそうなるなら! 僕はあなたの隣で後悔したい!」
どちらも同じなら、どちらも同じ地獄なら。それでも、彼と一緒にいられるのなら。エルドの隣に、いられるのなら。
きっとその選択だって報われるはずなのだから……だから!
「僕は、あなたの傍にいたいんです! あなたの隣に、あなたと一緒に生きたいんです! あなたを愛しているからっ……愛してしまったから、だから!」
もう目を開けていられない。溢れて、止まらなくて、苦しい。
どうすれば伝わる? どうすれば分かってもらえる? どうすれば、信じてもらえる?
「それではいけないのですか! それだけじゃダメなのですか! 僕はっ……ぼくは……っ……!」
息ができない。震えが止まらない。頭のなかがぐちゃぐちゃで、もう、なにも考えられない。
望んだだけだ。たったそれだけを。彼が欲しかったのは、たった一つだけ。
「――あなたと、いきたい、のに」
それだけなのに、こんなに苦しい。それだけなのに、こんなにも叶わない。
どうすればいい。どうしたら、いい。もうなにもないのに。ディアンが出せるものなど、なにもないのに。
言葉も、想いも、全部全部。それでも伝わらないのなら。それでも信じてもらえないのなら……できることなんて、もう。
「……ディアン」
腕に触れる温もりに、強張ったのは数秒だけ。
優しくほどく力に従えば、涙を拭う指はあまりに柔らかく、温かく。
「ディアン。ディアン……っ……ディアン」
繰り返し呼ぶ声に、それ以上の言葉はない。それでも返そうとする想いは、見上げる薄紫から強く、強く。
「元には戻れないんだぞ」
「っ……わかって、ます」
「どれだけ嫌だと思っても、悔いたとしても、自由にはなれない」
それでもいいのかと、彼が問う。
どこまでも優しく、人を見守り続け……そうして、ディアンを求める彼が。怯え、恐れ、それでも求めようとしてくれる彼が問う。
「どれだけ惜しんだとしても、もうここには帰ってこられない。……それでも、いいのか」
頬を包み、涙を拭い。それでも止まらぬ雫に世界は滲み続け。
されど、光は消えない。ディアンが求めていた光は。彼を導き続けたエルドはそこに。ディアンの、そばに。
「ぼくが帰りたいのは……っぼくがそう望む場所は、あなたの隣だけです」
ここに。この腕の中に。あなたの瞳の中にいたいのだと。そう訴えるディアンを見つめる瞳から溢れる雫は一粒でも、込められた想いはディアンと同じ。
「……求めても、いいのか」
震える手を、その迷いごと包み込む。頬をすり寄せ、笑うのは……いつも、彼がそうしているように。大丈夫だと、伝わるように。
彼に信じてもらえるように。
「僕があなたを選んだんです。……僕は、あなたとじゃなければ、幸せになれない」
だからどうか。どうかと、願う言葉は抱きしめられたことで声にならず。
掻き抱かれ、強く強く締め付けられる身体に込み上げるのは苦しさではなく。彼の、温かさで。
「――すまない。すまない、ディアン。すまないっ……!」
謝罪は、されど拒絶ではない。繰り返す言葉は、許しを請うのではない。
人としての幸せを。その生をディアンに諦めさせることを。そして、いつか迎える後悔を共に分かち合うことを。
自分と共に、生きることを。
込み上げる。震えが。喜びが。なにもかもが溢れて嗚咽になる。
確かめるように強く、強く。回されていた腕から解放され、頬に手を添えられ。覗き込む薄紫が、ディアンが愛した光が近づく。
「エル、ド」
「――愛している、ディアン」
だから諦めてくれと。どうか、共に生きてくれと。
ディアンの伸ばした腕はエルドの首へ。触れ合う息は、互いの頬に。
そうしてディアンの望んだ答えは。エルドが求めた願いは――一つに、重なり合った。
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