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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第一章 始まり

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19.揺らぎ

「そこまで。全員ペンを置くように」


 教師の声に意識を戻し、それから手元を見下ろす。試験用紙は名前すら未記入で、インクの汚れなんて一つも見当たらない。

 配られてから十数分。ずっと呆けていた事実に衝撃を受け、だが今さらなにもできずに紙を裏返す動きすらどこか鈍い。


「解答用紙はこのまま回収する。支度が済んだ者から退席するように」


 解散、と号令がかかり、途端に賑やかになる。

 早々に席を立つ者。友人と語る者。頭を抱え溜め息を吐く者。様々な反応の中でも、呆けているのはディアンだけであろう。そして、白紙のまま終えたのも、同じく。

 父に咎められると考えて、どちらにしろそうなったと肩の力を抜く。必死に書いたところで赤点は避けられない。どれだけ自信を持っていても、間違っていないと確信していても、いつだってそうだった。

 望んで放棄したわけではないが……結果を見れば、そう思われても仕方ない。

 試験が終われば、今日の授業は全て終わりだ。そう考えている間にも人数は減り、座っているのはもうディアンだけ。

 荷物を掴む手は重く、頭はそれ以上に鈍く。原因は考えるまでもなく心当たりしかない。

 これからどうすればよかったのかと、思い出そうとする頭はまるで寝起きのように靄がかかっている。

 不鮮明な思考を必死に探っているせいか、足取りさえおぼつかない。


「……ディアン、待ちなさい」


 もう少しで思い出せそうだと、掴みかけた糸が背後からかすめ取られた。この教室内で名を呼ぶとすれば一人しかいないだろう。

 荒々しい足音に、ゆっくりと振り返る。見上げた教師の顔は、怒りよりも焦りの方が強い。


「なぜなにも書いていない」


 当然の疑問だ。ディアン自身が一番その答えを知りたい。気付いたら終わっていた。考え事に夢中だった。昨日の晩からなにも食べていないので、頭が回らなかった。

 どれも言い訳にしか捉えられないのだろう。どんな理由であれ、試験に集中できなかったのはディアンの落ち度であり、責められるべき部分だ。

 目の前の男だけでなく、まだ残っていたクラスメイトの視線もディアンに突き刺さる。なんならクスクスとわらう声だって。だが、本当に頭が回らないのか、あまり気にならないことだけが幸いと言える。

 そういえば、なぜ自分の回答を真っ先に見たのだろう。一番端の列とはいえ隅ではないし、回収する順番を考えても遠いように思える。

 どれだけひどいのか確認したかったのだろうか。それなら期待通りであったはずなのに、向けられる視線がどこか痛々しいのは……どうしてなのか。


「体調が優れなかったのか? なにか理由が?」


 責める口調に、やはり混ざるのは怒りではない。ここまで焦るような事態ではないはずなのに、原因を探り出そうと必死な男に周りの目は気にならないようだ。

 さて、なんと返せばいいのか。考えても答えは出ず、やがて諦めた教師が深く息を吐く。


「……明日追試を行う。必ず回答するように」


 もう行っていいと、許可を得たところで頭を下げる。鈍い頭痛に眉を寄せ、されど咎められることなく。ようやく退室すれば、聞こえてくるのは囁き合う声と遠慮のない視線。


「また『花嫁』様を泣かせたそうよ、それも殿下の前で……」

「実の妹とはいえ、あまりにも……」


 昨日の話がもう広まっているらしい。出所は殿下自身か、それともペルデか。彼が自分から語るとは思えないが、問い詰められればその限りではない。

 両者とも真実は話していないだろう。そして、ディアンが訂正したところで誰も信じることはない。

 ラインハルト殿下も、司祭の息子であるペルデも、自ら禁忌を破ろうとしたなんて。そんなの狂言としか思われない。

 こればかりは、どれだけねだられようとペルデも黙っているだろう。まだ正式に認められていないが、彼も教会に名を連ねる者。このことが他者に知られれば、司祭様の地位も危うくなる。

 ……ああ、そうだ。司祭様から話があるんだった。

 この後の予定を思い出し、嘲笑の中を進む。後頭部のあたりから広がる鈍さは、意識していなければ夢だと思うほどに。いや、実際はうたた寝でもしているのかもしれない。

 どれもこれも現実味がなく、いっそ昨日の全てが悪夢であったならと。願ったところでディアンの望みが叶えられた試しは一度だってない。

 今から行けば夕刻までには家に帰れるだろう。門限を破り、夕食まで抜かれてしまえば丸一日なにも食べないことになってしまう。

 昨日父から命じられたのは昨日の夜までだが、その胃の中に今朝方見かけたパンもベーコンも入っていない。

 揃って取るはずだった朝食が「お兄様にまた意地悪されるから……」という、メリアの一言から始まれば、崩壊まではたやすい。

 謝るように言ったのは母だったか、父だったか。ああ、確か母がメリアを宥めてからディアンを叱り、そうして謝るように言ったのだったか。

 あの様子では、門を見ようとしたことは怒られていないのだろう。あるいは、怒られたと思わないほどに優しく言い聞かせられたか。それとは関係なしに、ディアンが気に入らなかっただけなのか。

 さて、それに対して自分はなんと返したのだったか。まだ朝の話だというのに記憶が曖昧で、思い出しても自信がない。

 ああ、でも。きっと謝らなかったからこそ父に追い出され、朝食も食べられなかったのだろう。

 弁当と言えるものは最初から持たされていないし、学食を購入できる金もない。それ以前に、こうして呆けているのがほとんどで、昼休みの時間だって気付いたら終わっていたぐらいだ。

 謝らなかった理由が明確でなくとも、反省していないのなら出て行けと怒られたことはハッキリとしている。

 自覚すれば空腹を感じるが、それよりも早く教会へ向かわなければならない。

 こうして無駄にしている時間があれば、それこそ一秒でも早く行かなければ。


「――ディアン!」


 ……だというのに、名を呼ぶ声が彼を呼び止める。

 奇妙だ。いつもならこの声を聞けば鼓動が早まり汗も滲むのに、心は静かなまま。

 聞こえなかったふりはできない。無視なんてそれこそ許されない。自覚はなくとも、その胸に浮かんだのは諦めの二文字。

 振り返った先。駆けてくる姿を下品と罵る声はどこからも聞こえない。言えるわけがない。廊下を塞ぐ形でディアンの元に来た一国の姫に、一体誰が意見できるというのか。

 伸ばされた手から一歩下がる。宙を掴んだ指先は僅かに彷徨い、胸元で握られた両手はそれこそ痛々しいほどに。


「よかった、会えて……昨日はお兄様がごめんなさい。まさか、あんなことを許すなんて……」


 整えられた美しい眉は下がり、長い睫毛の下で潤んだ青がディアンを貫く。彼女が謝ることはなにもないだろう。それも、こんな公衆の前で。隠しようもない場所で、堂々と。

 仮にも王女であるならば、感情のままに動くべきではないはずだ。自分の行動がどれほどの人間に影響を与えているか、幼い子どもの時ならまだしも、今はその全てに責任を持つべきだ。

 だが、言えない。言えるはずがない。そう発言する権利をディアンはもっていないのだ。もちろん、周囲で耳を澄ます野次馬だって同じ。

 誰もその場を去ろうとせず、事の成り行きを見つめている。いい兆候とはとても言えない。


「なにか言われているのでしょう? 皆には訂正しているから、ディアンは堂々としていていいの」


 頭痛がひどくなる。いや、最初からひどかったのだろうか。朝からずっとこんな調子で、額を押さえられたら少しは楽になったんだろうか。

 いいや、きっとなにも変わらない。悪化している現状にも、逆効果でしかないその行動も、全部。

 訂正と言っても、サリアナも真実までは話していないだろう。いくらディアン贔屓といえ、王家の醜態を晒すほど盲目ではないはず。

 殿下がなにかをして、ディアンが誤解された。……それだけで納得する人間が、この学園でどれだけいるというのか。

 表面的には納得するだろう。違うと否定できるような者はいない。だが、誰もがそれを信じていない。それを、目の前にいる少女は理解していない。

 語りかけようとすればするほどに、思惑から大きく離れていく。真相を話そうとも、隠そうとも、結局はなにも変わらないのだ。


「あんなことがあったからちゃんと話もできていないし、この後……」

「サリアナ!」


 振り返ったのはサリアナだけで、ディアンは顔を上げるのみ。廊下の奥、やってくる青い目の鋭さに、溜め息が出なかっただけ褒められたい。

 いよいよ廊下は狭くなり、通行を阻まれる生徒たちが立ち往生する。原因を取り除くには、あまりにも気力が足りない。


「それに構うなと言っただろう」

「お兄様、なぜあんな根も葉もない噂を……!」

「そいつが『精霊の花嫁』を泣かせたことか? 事実を肯定してなにが悪い」


 又聞きで不確かだった情報が確定し、ざわめきが広がっていく。こうなれば、もうラインハルトが口を閉じても話は止まらないだろう。

 ……いや、それこそいつもの通りかと。そう考えられるのは、頭が回らない故か。疲れ果て、感情の起伏も緩やかなせいなのか。


「あれは……メリアがあんなことを……」

「あんなこととは?」


 聞き返すのは、答えられないだろうと分かっていてのことだ。

 答えられるはずがない。陛下からも、そして司祭様からも口止めされているだろう。

 軽々しく露見していい話ではないことは、どれだけ馬鹿でも分かることだ。

 ……ならば、もう少し。あと少しだけ、その意識を、今のディアンへ向けてくれたなら。ここまでひどい状況にはならなかったはずだ。

 いいや、それも全てディアンが至らないせいだ。

 禁忌に触れることを咎めたディアンが。

 どんな理由であろうと、妹を泣かせ、父を失望させたディアンが。全て。

 …………でも、本当に?

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