203.宣言の果たされる日
――足が竦んだのは決意が鈍ったのではなく、踏み込んだ瞬間に襲いかかった温度にだ。
骨の髄まで染みこむような、触れた素足が痛みを訴えるほどの寒さ。いや、本来感じなければならない感覚が、段差に触れた途端に戻ってきたと言うべきか。
王宮に張り巡らされた聖水。それによって障壁と環境を維持しているのなら、地下に該当するこの先までは巡回していないのだろう。
纏っているのはシャツとズボンが一枚ずつ。春でも肌寒さを感じる薄さなら、真冬に近い山頂で凍えるのは当然のこと。
吐いた息は白く、身体は温度を求めて震える。
まるで空間ごと拒絶しているようだ。あるいは、今なら引き返せると警告しているのか。
見つめた暗がりから答えはない。それはこの地下の奥深く、ディアンの求めた相手しか持っていないのだ。
後ろから感じる視線は、目を瞑ってくれた見張りのものか。それとも、ディアンの内に残っている迷いなのか。
……だとしても、それは己の意思ではなく、それを伝えるということだ。
彼と会い、全てを明かし……そうして、取るべき選択に対して。
引き返したところで消えるはずがない。知らなければ選べない。得られなければ進めない。
果たさなければならない。約束を。彼との誓いを。そうして彼が自分に誓った、その約束を。
ひたり、足が進む。頬を撫でる空気は針のように突き刺さり、それでも引き返すことはない。
遠ざかる背後の光。近づく重厚な鉄の扉。これ見よがしな鍵穴も、鍵がかかっていなければなんの意味もない。
無数の鉄格子。無人の空間。壁に備え付けられた松明。その明かりの途切れた最奥に……見えるはずのない、白い影。
まるで道しるべのように浮かぶ色は馴染み深いもの。されど、その大きさは記憶と重ならず、予感は近づくにつれて確信へ変わる。
最後の松明を通り過ぎ、僅かな光が届く一角。広く取られた通路の壁から剥がれた影は、明らかにディアンの頭を越えた位置にあった。
腰まである白い長髪。結わえて後ろに流されたそれは、髪型だけなら主人にも似ている。
その背は二メートルに届くか否か。エルドよりは間違いなく長身で、首の角度は近づくごとに大きくなっていく。
見慣れぬ顔。見慣れぬ姿。それでも、その男がゼニスだと疑わなかったのは、ディアンを見下ろすその蒼から。
威圧感を与える鋭い眼光も、彼だと思えば怯むことはなく。
「ゼニス」
寒さか、緊張か。震える声は小さくとも、この空間では十分過ぎるほど。
呼びかけた男から返事はない。その首が動くこともない。いつものように静かにディアンを見つめ、見守るだけだ。
違うのは、いつも見上げている彼が、自分を見下ろしていることだけ。たとえ姿形が変わろうと、その根本は変わらない。
「……いえ、今はインビエルノ様とお呼びするべきでしたか?」
髪と同じく、色素の薄い眉が僅かに寄る。鼻から吐いた息に含まれるは怒りか、それとも呆れか。
距離を詰められ、ますます首が傾く。翳される手に勢いはなく、どこへ向けられるのかと見守っていたそれが、額の前で止まる。
「――いたっ!」
そして、疑問を抱く前にバチンと弾ける音は、皮膚と骨の両方から。
軽い音に反してなんという威力か。まだそこにあった手の形を見なければ、指で弾かれたとは認識できなかっただろう。
「……噛み付くわけにはいきませんから」
これで許しますと、呆れた顔はエルドに対するものと変わらない。その発言でゼニスであると確信を得て、額を擦る手を止める。
なぜ人の姿になっているのか。あるいは、こちらが本当の彼なのか。そんなのは些細なこと。
優秀な見張りとは彼のことに違いない。……ならば、この奥に求めた相手がいる。
「女王から近づくなと言われていたはずですが」
「誰かの助言通り、少し我が儘を言っただけです」
「……屁理屈は誰に似たのだか」
思っていたより辛辣な言葉に、それでも抱く親しみは向けられる蒼が柔らかいからだ。
ディアンが知らぬところで、エルドとも同じように会話を交わしていたのだろう。
それを今後聞けるかは、それこそディアンの選択次第。
……そして、エルドの答えにもよるだろう。
「ゼニス」
蒼が見つめる。いつものように、いつもと同じように。彼がどうするかを、ただじっと。
だからこそディアンも変わらない。普段のように話しかけるだけだ。
「……お願い」
その一言に、どれだけの意味が込められていたか。吐かれた溜め息に混ざっている感情は定かではなく、視線はディアンから逸らされる。
「はぁ……宮殿内に毛が散るのが耐えられないと、この姿をとるよう命じられていますが」
「……?」
沈黙でも拒否でも、ディアンに語るのでもない。かといって後ろにいる男に告げるものでもなく。まるで独り言のように言葉は続く。
「元の姿ならともかく、この気温はさすがに厳しいものがあります」
吐いた息は互いに白く、その寒さを実感させるには十分過ぎる。
今だって、立ち止まっている足から伝わる冷気は心臓まで掴まんばかり。動いていなければ凍死してしまいそうなのは、毛皮に覆われていないゼニスも同じ。
遠くを見ていた蒼が後ろに逸れる。それこそ、ディアンが求めた男の方向へ。彼にこそ聞かせるように。
「どうせこんな男のところには誰も会いに来ないでしょうし、見張る必要もないでしょう。……実際に誰も来ませんでしたからね」
なんと既視感のあるはぐらかし方だろう。誤魔化し方が下手とも言えるが、異を唱える口はない。
存在を無かったことにしながらも手は差し出され、受け取った物を確かめる間に足音は遠ざかる。
結ばれた髪にいつもの尾を重ね見て……それから、視線は前に戻る。
もう遮るものは一つだけ。そして、それはもう無いにも等しい。
距離にしてほんの数歩だ。これまでの旅を考えれば誤差でしかない短い距離。それがこんなにも長く、そして重く感じる理由も、ディアンは分かっている。
求めていた瞬間は。本当に欲しかったものは今から与えられるのだと。ずっと思い焦がれていた答えは、そこにあるはずなのだと。
向き直った檻。光の届かない奥。――黒に紛れる薄紫は、そこに。
黒のインナーに見慣れたズボン。ディアン以上に寒そうな姿でも凍える様子がないのは、それこそ感じていないからか。
吐かれた息こそ白く、されど震える空気は……きっと、温度以外の理由から。
顔に感情はない。眉も狭まっていない。熱くも冷たくもない瞳。なにも得られない薄紫の奥、隠されているのはなんなのか。
エルド、と。呼ぶはずの声は出ず。ディアンと語りかける声もない。沈黙は永遠のように思えて、されどほんの数秒のこと。
「エルド」
目蓋が跳ねる。
ほんの一瞬の仕草。怒りに触れたようにも見えて、だがそうでないとディアンは知っている。
まだこの名で呼んでもいいのなら。まだ彼が『エルド』であると、そう言うのであれば……約束は果たされる。否、果たされなければならない。
「それとも、本来の名でお呼びするべきですか」
鋭さを増す紫は拒絶の表れか、ディアンがここに来たことへの不快か。
言葉にされなければわからないと続ける声はなく、僅かな沈黙が再び場を占める。
「ここは魔術の範囲外だ。そんな恰好で耐えられる場所じゃない」
「あなたも似たようなものでは」
「……まだ人であるお前が来ていい場所ではない」
だから戻れと、立ち去れと。そう告げる男に、それでも足は動かない。
このまま立ち止まっていれば、いずれ皮膚が地面に張り付いてしまいそうだ。それでも立ち去るわけにはいかない。
鼻から吸う空気は肺を凍えさせ、そのまま頭を冷やす。
二人の間を遮るのは鉄の檻ただ一枚。ディアンにとってはもう、それは障壁ですらなかった。
「宣言を、果たされに来ました」
拳の握る音まで鼓膜に響く。奥まった暗がり、エルドの手元は見えず。ただ、鋭い薄紫だけしかわからない。
震えは寒さか、緊張か。それとも、彼を信じたいという願いそのものだったのか。
「女王陛下に謁見の後、全てを明かすと。……あなたは僕にそう誓い、僕はそれを信じ続けた。今日までずっと、あなたを信じてきました」
あの日に言葉を交わしてから今日まで。どれだけはぐらかされようと、どれだけ知りたくとも、ずっとずっと。その言葉を信じて、ここまでやってきた。
ディアンは誓いを果たした。女王に謁見するその瞬間まで彼を信じ、そうして今ここに立っている。ここに、その真意を確かめるために。己の道を選ぶために。
「精霊としてではなく、あなた自身に僕は誓い、それを果たしました。あなただって同じのはずだ。誓ったのは愛し子としてではなく、僕自身にではないのですか」
本来なら精霊の名の下に交わされる約束。
当時は加護を賜っていると知らず、だからこそ互いに誓った言葉。
それはただの口約束なんかではない、もっとずっと強いものだったはずだ。
そう、ディアンは守った。守りきった。謁見は終わり、そうして彼が語ってくれることを信じ続けてきたのだ。
……だからこそ、今こんなにも怖くて、乱れてしまう。
「それとも」
続けてはいけないと、頭の中で理性が働く。疑ってはいけないと、そう考えてしまうのは彼の魔力の影響か。
否、信じたいからこそ。彼を最後まで信じたいからこそ……その言葉は止められず音となる。
「あなたも僕を騙していたんですか」
「――違うっ!」
鼓膜だけでなく心臓まで震わせる否定。その勢いのまま立ち上がり、踏み出した足はそこから進むことはない。
歪み、寄せられた眉と揺れる瞳。その顔を見てもまだ疑うことはできず。それでも……やはり、彼に続く声は、なく。
「……ちがう、だが……それは……っ……」
地に落ちた光はディアンを見ない。だが、それは逃げているのではなく、恐れているのだ。ディアンと同じく迷い、怯え……それでもと、前を向こうとしている。
女王ならこの期に及んでと怒りを抱いただろう。ゼニスなら、そこに呆れも含まれていたはずだ。
まだ逃げるのかと、この程度の約束すら守れないのかと。そうして卑怯者となじっただろう。
ディアンにかける言葉はない。……もはや、それさえもいらない。
必要なのは、受け止めるという覚悟だけ。
鍵穴はたやすく回り、解錠音に薄紫が弾ける。だが、エルドが視認したときにはすでにディアンは檻の中に入っていた。
「っ、それをどこで……」
答える必要はないと、開けたばかりの鍵をすぐに閉める。施錠したのを確認してから放り投げた先に、これを渡してくれたゼニスの姿はもう見えない。
暗い空間に落ちた鈍色の物体など視認できるはずもなく、響くはどう足掻いても届かない位置に落ちたことを示す音だけ。
「なにをしている! 近づくなって言われて――」
「話してくれるまでここにいます」
交差する二色、揺らぐのは色素の薄い方だ。見据え、見上げる紫はもう揺らがない。
「ゼニスを呼んだって動きませんからね。そもそも、あの様子じゃ僕が呼ばないと来ないと思いますし」
「だからって……!」
「あなたが!」
肩が揺れる。こんな赤子も同然の存在に怯える姿は、とても精霊とは思えない。
故にディアンは声を張る。精霊ではなく、エルドであるからこそ、求められる。
「僕を騙してないというのなら選んでください。このまま僕がここで凍えるのを黙って見ているか、それとも約束を守ってくれるのか。……あなたの言葉を聞かなければ、僕は選べません」
選択するために、前に進むために。だから、エルドの答えが必要なのだと。
迫り、求め、願い。その答えを待ち続ける。
歪む薄紫が伏せられ、そうして白い息が濃く広がる。
やがてベッド座った男は項垂れ…………そうして、再び合わさった瞳に、迷いはなく。
「……そもそもの始まりは二十年前ではなく、精霊と人間が婚姻を結んだ時のことだ」
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