200.最初の伴侶
問われ、思考し……否、考えるまでもなく答えは出ている。そもそも、思い出すほどの情報がディアンの中にはない。
「最初に娶られた人間であることと、私の父に加護をくださった精霊であるとしか……」
戦の精霊、シュラハトだけならまだ知識も持っている。だが、伴侶であるアピスが絡んだ話は精霊記でもその記述が少ない。
それだけ昔なら残っていなくても仕方はないと、今まで深く考えたこともなかった。
「それでいい。彼女たちについて他国に伝わらぬよう制限したのは私だからな。私が聞きたいのは、どのように語られているかだ」
意図してその情報を絞っていたと、軽い調子で話されても追求できない。尋ねられているのはディアンだ。先に答えるべきは彼である。
「精霊と人間、その種族の差を越えるほどに愛し合い、今でも我々を見守ってくださって――」
黙したのは、喉の奥から込み上げた堪えきれぬ笑いによって。くつくつと響く音はとても美しい造形から出ているとは思えない。
だが、歪められた顔はその事実を噛み潰しているようだ。滲む味は、それはそれは苦いことだろう。
「予想できても、改めて聞くと複雑なものだな」
浮かぶ笑みには諦めも含まれている。訂正することはできず、それでも胸に残り続けるシコリ。これからも、そしてこの先もそれが取り除ける日はこないのだと。
「あの……アピス様は、どのような方だったのでしょう」
「そうだな。娘とは呼ばれているが、私もお目にかかった機会は少ない。だが、誰よりも気高く、美しく……そして、強いお方だった」
元は人間、そして実の母とはいえ、精霊界にいる存在だ。女王陛下であろうと、気軽に会うことはできないのだろう。
きっとそれは、彼女が生まれてから数えるほどしかなく。こうして姿を確かめられる物がなければ、その姿を忘れるほどに前のこと。
「私はあの方の娘であることを誇りに思っている。だが、同時に……あの男の娘であることが忌々しい」
宿る憎悪も、すぐに諦めの中に消えてしまう。この一連だって何度も繰り返してきたはずだ。
それでも褪せぬほどに、擦り切れぬほどにその感情は凄まじく。それこそ、忘れることもできないのだろう。
「まだ精霊がこの地にいた時代。そして、精霊が人に加護を与える喜びを知った頃。当時、アピス様はとある部族の長を務めていた。それこそ文献にすら残っていないが……武力に優れた女のみで構成されていたと伝え聞いている」
「……女性だけ、ですか」
「ああ。認められた男であっても生涯を共にすることはなく、生まれた子であっても追放したという。女ばかりだと嗤った者は魔物も人間も例外なく、その圧倒的な力によって地に伏せたらしい」
よぎるのはこの王宮内、一人しか見かけることの無かった同性の姿。トゥメラ隊と呼ばれた者たちの誰もが女性で……そして誰もが強く、凜々しい。
「その中でも、あの男に加護を賜ったアピス様に敵う者はいなかったという。剣を振るう姿は誰よりも勇ましく、槍を持たせれば一突きで十の命を刈った。されどその姿は白百合がごとき美しさ。まさしく、戦の精霊の加護を賜るに値する人物であった」
どこまでが比喩で、どこまでが真実か。あるいは語られた全てが本当なのかもしれない。
当時人に与えた加護がどのようなものか。それも、伴侶にしたいと思うほどの相手への祝福であれば……本当に、それだけの力を与えていたって不思議ではない。
見上げる姿からはとても想像がつかない。本当に、何も知らなければ慈愛の精霊ではないかと思うほど。
「最初はあの男も加護を与えるだけで満たされていたのだろう。だが、あの男は次第に感謝の言葉ではなくアピス様自身を求めるようになった」
「……アピス様は、それに応じたのでは?」
だからこそ最初の伴侶になったのではないかと。そうして女王が生まれたのではないかと。確かめるディアンに振られる首は、否定を示す。
「そもそも、アピス様が長となったのは男を排除するためだ。他者が契ることに関してはともかく、誰よりも異性を拒んでいたと聞く。それは己を加護してくださった精霊であっても例外ではない」
なぜそこまでの恨みを持っていたか、それもアピス自身に聞かなければ明かされることはないのだろう。必要なのはそうであったという事実と、なぜ婚姻へ至ったかの過程。
「何十、何百の日々が過ぎようともあの男はアピス様を求め、同じだけ彼女は拒んだ。軍勢を率いて力で制そうとするならば、アピス様たちも武具を手に立ち向かい勝利を収めたという。異常なまでの執着に、それでも折れなかったのは相容れぬ存在であると理解していたからだろう」
エルドをなじる声が響く。否、あれは彼だけに対して告げられたものではない。
人ではない存在に。どう足掻こうとも噛み合うことのない、かの者たちに向けて。
もし自分がアピスの立場であれば、同じように拒んだだろう。男女の違いはあっても、素直に許容できるものではない。
異性を拒んでいたならなおのこと。そうだと告げても迫る相手と契ろうとは思わないはずだ。
それが、なぜ。
「――手籠めにされたのだ」
見たはずの金は、ディアンの瞳と交わることはなかった。
淡々とした響きは事実を述べるだけのもの。怒りも悲しみもない。それこそ、そう思う感情が擦り切れてしまったかのように。
像を見上げる双眸は、その凛とした横顔は美しいまま。
「あの男は卑劣な手段によりアピス様を騙し、無理矢理契り……そして、私を身ごもらせた」
「それ、は……」
「そうでもしなければアピス様を手に入れることはできぬと、負けを認めたも同然だ。戦の精霊に唯一勝利した人間とも言えるだろう。どれだけ辱められようと……その精神は変わることはない」
見上げる像に、実際に出会った時の光景を重ねているのだろう。そうされても曇ることのない強さを。
アピスの……己の母のその気高さを、限られた記憶の中で。
「今でこそ名誉としているが、当時は前例の無いことだ。あの男の妄言と思っていたことが現実となり、精霊王は大いに荒れたらしい。この過ちを二度と繰り返さぬために精霊は人間界から離れる決断を下し……その罪の証は殺すように命じられた」
「……そ、んな」
「あの男も拒んだらしいが、それはあくまでもアピス様を繋ぎ止める道具としてだ。彼女が望んで宿した命ではなくとも、人間ならば情も移る。……それ以外に私の価値はなかった」
あまりのことに言葉も出ない。
無理矢理つがい、孕ませ。その命を否定するなど勝手が過ぎる。
否、精霊にその道理は通じない。人がなんと思おうと、かの者達にとってはそれが当然のことだ。
世界を作ったのが精霊であるならば自分たちの考えこそが正しいのだと。その認識すら、きっと。
「そうして人と精霊の世界は別たれ、精霊の存在は忘れ去られるはずだった」
「……でも、そうはならなかった」
金が落ちる。紫と絡む光は、その悲惨な運命を感じさせぬほどに柔らかく。なぜか、エヴァドマで語りかけた老婆の瞳が記憶によぎる。
「唯一、私の命を惜しんでくれた精霊がいた。彼は憤怒する精霊王にも怯まず、我々の必要性を説いてくれた。どれだけ過剰な力を与えようと、我らが思い続けようと、人は見えぬものを信じ続けることはできない。その存在を伝える者が必要だと。人でもなく、精霊でもない愛し子こそ、その役を担うことができると」
ディアン、と呼ぶ名は幻聴だ。それはただの沈黙、呼びかけたわけではない。
それでも、彼女は語る。彼が聞きそびれることのなく、その胸に刻みつけるように。
「それこそが、精霊王の三人目の分身……いや、エルドという男だった」
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