199.聖水の源流
惜しみなく注がれるは、瞳を流れる無数の光。ガラスの枠組みと僅かな反射がなければ野外と錯覚するほどの開放感。
この空間が丸みを帯びているのに気付き、浮かんだのはノースディア城にもあった温室だが、とても比較できるものではない。
仕切りの向こうでは雪が積もっているのに、この空間だけ春が訪れているようだ。
若々しい緑、色とりどりの花。惜しみなく注がれる月に照らされる光景は、まるで人々が夢に見たような楽園のよう。
だが、ディアンが息を呑んだのはそれだけではなく、足を進めたのはそこに集う妖精たちの光に誘われたからでもない。
泉の源流。精霊界へ繋がっているだろうそれは――美しい女性だった。
正確には男女を模した石像だ。大きさはそれこそ実物と同程度。
一方はウェーブのかかった長い髪を持つ女性だ。柔らかな笑みの先、対となる存在へ向けて差しだした手に滴る水こそ精霊界から流れているものだろう。
その長い指先を下から掬い取るように受け止めている相手は、体格からして男であるはずだ。
鎧らしき衣装の隙間から見える筋肉は、本物を忠実に再現しているのだろう。きっとその表情も、彼女と同じく穏やかで美しい笑みを浮かべていたはずだ。
そんなもの見た通りだと言いたいが、断言できないのは肝心の顔が存在しないからだ。
正確には首から上、部分的に肩から破壊されているせいで跡形もないと言うべきだろう。
剥き出しになった断面があるからこそ、それが石像であると認識できたとも言う。とはいえ、この光景の中ではあまりにも致命的な欠点だ。
これさえなければと惜しむ者もいるだろう。それでも、ディアンの目を奪うには十分過ぎたのだ。
彼女たちの足元、溜められた水の上で光が踊る。揺れる水面に照らされた星、反射する月の光。そして、馴染んだ魔力に惹かれて集まった妖精たち。
どう見たって、そこに求めていた姿はない。落ち込むべきなのに、それすらも忘れてしまうほどに目を奪われている。
こうして像が建てられる程の相手だ。特別な存在には違いない。
フィリア、デヴァス、ネロ。思いつく限りの名前を羅列しては自分で否定していく。
男女で同じ力を司っている精霊もディアンの記憶にはいない。精霊同士で番っているのなら、片方を壊したまま放置するとも考えられない。
もしこの二人が人間と精霊で、その繋ぎ目を通過点とした意図を汲めば……しかし、それならなおのこと、男の方を壊れたままにしておく理由は――。
「ゼニスを探していたのでしょう?」
核心を貫かれ、思考が白に染まる。それこそ、積もった雪にも劣らぬほどに。
身体が跳ね、弾かれたように振り返る。服装こそ彼女たちに似ていたが、先ほどまで付き添っていた護衛でもなく、外で警備していた見張りでもない。
腰まである長い髪は、まるで月明かりそのもののように美しい銀。だが、ディアンを見つめる瞳は、太陽を思わせるような輝かしい金色。
父と同じ光に怯み、それから違うと言い聞かせ……落ち着けば、次に込み上げるのは見覚えの無い顔に対して。
「妖精に道案内をさせても意味はありませんよ。すぐにこうやって気が逸れてしまいますから」
咎めるのではなく、あくまでも事実を述べるように。だが、苦笑する顔は自由気ままな妖精と、想定通りの行動を取ったディアンに対してでもあるだろう。
妖精は手伝うことはない……とは確かにエルドからも聞いたが、ララーシュの件ですっかり忘れていたのもある。
とはいえ、あの時とは緊急性が違う。そもそも、頼んだときに了承したのだってディアンの勘違いかもしれない。
「この王宮に張り巡らせた障壁は、全てこの聖水を媒体にしたものです。そうして外に排出され、山を下り、この世界に触れることでようやく人に馴染む水となるのです。妖精にとって一番馴染み深い魔力ですから、意図せず惹かれるのも仕方のないこと」
いつの間にか扉は閉まり、ここにいるのは彼女とディアンの二人だけ。先ほどまでいた護衛の姿はどこにもない。
こんなタイミングで交代したのだろうか? あり得ない話ではないが、それよりも違和感が勝るのは記憶を掠めるその声だ。
どこかで聞いた覚えがあるのは、エヴァドマで会ったからだろうか。
だが、こんな綺麗な銀髪、一度見たなら忘れそうにもないが……それよりも確かめたいものは、そこに。
「あの……この石像の女性は、もしかしてアピス様でしょうか」
微笑む女性の像。人間と、恐らくは精霊。そうなれば、答えは自ずと搾られる。
この世界で初めて精霊に嫁いだとされる人間。もしそれが正しければ、壊されている男は……やはり、この状態で放置されていい存在ではなく。
「ええ、その通り。最初に精霊に娶られた人間であるアピス様と、彼女を娶ったとされる戦の精霊シュラハト様です」
創世記の頃に近く、もはや文献でもほとんど情報が残っていない存在だ。その事実は広く知られているが、姿形や経緯なんてそれこそこの地でなければ知り得ないだろう。
もし本人の姿を忠実に再現しているのなら、精霊が魅入られても不思議ではない美しさだ。一体どのように出会い、そうして結婚するに至ったのか。
今でこそ精霊に嫁ぐことは人にとっては名誉であり、今のディアンはその本来の役目を知っている。だが、最初となれば障壁も多かっただろう。
ただ単に気に入った、だけでは結ばれることはなかったはずだ。
精霊と人間。存在の異なる者同士。……そこに、どれだけの覚悟があったのか。
だが、これで納得がいった。二人の像があるのは精霊記にとって重要な存在と同時に、女王陛下のご両親でもあるからだ。
血が繋がっているとはいえ、精霊界に赴けないのであれば建てられていてもなんら不思議ではない。
「そして、私の母とその夫でもある」
そう、そして彼女の母親でも――
「…………え?」
ディアンを通り過ぎ、泉の淵へ腰掛ける動きまで音はなく。その仕草に高貴さが伺えるのは、まさしくそれだけの教養があるからだ。
月明かりに照らされる銀髪と、真っ直ぐディアンを見つめる金。ざぁ、と響くは己の血が引いていく音。
ああ、そうだ。どうして気付かなかったのか。
覚えがあるのは当たり前だ。その金はまさしく父と同じと思ったばかりではないか。
加護を賜っていないのに同じ色ならば、それは……!
「じょっ――うわ!?」
跪こうとした膝が地に触れなかったのは、屈むよりも先に身体が浮いたせいだ。
比喩ではない。文字通り腰元から持ち上げられるように。爪先を揺らしても地面は数十センチも離れ、どれだけ暴れようと届かないことを突きつけられる。
「せっかく用意させた服だ、そう簡単に汚してくれるな」
身体が強張っていても地面は動き続け、そんな咎める声と共に下ろされたのは泉の淵。彼女の纏ったドレスが視界に映り、目を合わせないようにと俯いたまま。
今更だとしても、素顔を見てはいけないはず。不可抗力とはいえ、知らずに見るのと知っていて見るのとでは罪の意識が違う。
「も、もうしわけっ……!」
「自由に出歩いていいと伝えさせたのは私だ、咎めるつもりはない。それに、ここに来ることは予測できたこと」
謝っているのはこの場所に入ったことではないのだが、本人はどちらも気にしていないようだ。
凛とした響きは謁見の時に聞いたものと同じ。だが、それよりもやや砕け……というより、勇ましい口調だ。
エルドを咎めていた時にも似ているが、響きはそれよりも柔らかく。威厳は残っているが、異質さは軽減されている。抱いた畏れも種類が違うものだ。
謁見の時が精霊に対するものなら、今のこれは……もっと、人間じみたもので。
「この像は精霊が人間と世界を別つ際、この地に落とされた私のためにあの男が誂えさせたものだ」
視線は下に注がれたまま。だが、彼女の金がどこを見つめているかは、その言葉だけでわかる。
美しいまま残された母と、崩壊したままの父。あの男、とさえ呼称する声に含まれるのは怒りだ。
今までも節々に感じていた違和感。精霊の言葉を聞き、人々へそれを伝え、精霊と人間の調和を図るのが聖国の勤めのはず。
故に聖国は教会を各地に遣わし、信仰を広めるために援助を行う。いかなる権力も教会には勝らず、されど絶対的な支配ではない。
精霊があってこそ、人々は今の豊かさを得ている。そう精霊に感謝を捧げるように教えを説き、精霊たちの存在意義を保つ。それが教会の役割なのに、そうしなければならない最たる人物が、名前すら呼ばないとは。
「少し確かめたいことがある。触れるぞ」
心構えも了承する間もなく、差しだされた手が顎へ触れる。すくい上げられた先、見つめる金にもう重なる面影はない。
父親と同じ色であろうと、注ぐ光は全く異なるもの。身体の奥で込み上げる震えこそあっても、謁見の時ほどではない。
彼女の心中があの時ほど荒れていないのもあるが、それはディアンも同じ。
ここには女王とディアンの二人だけ。否定されたくなかった彼の姿は、ここにはないのだから。
「……はぁ」
触れている間に何を感じ取ったか。ディアンからすれば数秒見つめ合っていただけだが、それだけでも彼女にとっては十分だったらしい。
溜め息と共に解放され、しかめられた眉へと視線を移す。ここまで造形が整っていると、それですら美しく思えてくる。
これが本来の愛し子。顔を隠していなければ、確かに魅入られる者もいたかもしれない。
「始めに見た時もそうだとは思ったが……まったく……」
「あ、あの……?」
「どうだろう、あれから少しは落ち着いたか?」
たった今乱されたばかりとは言えず、無難に頷くしかできないディアンを誰が責められようか。
安心したような、痛々しいものを見るような。なんとも言えない表情が微笑みに誤魔化されても追求することはできない。
「とはいえ、まだ気は立っているだろう。……眠れそうにないなら少し話に付き合ってくれないか」
ニュアンスとしては世間話だが、これが昼間の続きであることは考えるまでもない。
あれ以上詰め込まれても限界を迎えていただろう。時間をおいて、そうしてわざわざ会いに来てまで話さなければならないこと。
生半可な気持ちで聞いていいものではない。
「わ、たしで、いいのであれば……」
「そう固くなるな。……とはいえ、『候補者』でなければ話せないことだ。こんなこと、リヴィたちには聞かせられないからな」
視線は扉の外。今もそこで待機しているだろう彼女たちに向けて。それからディアンを通り過ぎ、再び光は頭上に向けられる。
見つめた白塗りの顔。柔らかな微笑で伴侶を見つめるその色は、一体どんな輝きを纏っていたのか。
「アピス様とその夫について、お前はどう伝え聞いている?」
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