195.客室にて
見慣れない天井を見上げたまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。気付けば視界は薄暗く、差し込む光は太陽から月へと変わってしまった。
テーブルやクローゼット、壁紙から床に至るまで洗練された調度品の数々。
他の部屋のように白ばかりではなく、暖かな色でまとめられた室内は、本来なら落ち着ける要素であったのだろう。
横たえた身体を支えるベッドは柔らかく、どこまでも沈むと思うほど。
目を閉じればすぐにでも意識を手放せる要素しかないのに、どれだけ目蓋を伏せても意識が微睡むことはない。
壁に跳ね返るのは自分の吐息と鼓動ばかり。そこに寝返りを打つ音が混ざったところで、ディアンの頭の中が晴れることはない。
眠気どころか、数日なにも食べていないはずなのに空腹感さえ覚えず。思考は渦巻き続けて休むことさえままならない。
ここに来れば。女王に出会えば全ての謎が明かされるはずだった。今まで抱えていた疑問に答えが与えられ、そうして全てが解決に向かうのだと。
否、確かにそれは望み通りに明かされた。
『候補者』の由来。父たちが犯した罪。『精霊の花嫁』を保護しない理由。そして、エルドの正体。
求めていたことだ。そして、嘘偽りなくそれはディアンに説明された。
どんな事実でも受け入れると、そう決意を固めていたのだって嘘ではない。受け入れるしかないと。それが自分のすべき事なのだと。
それなのに、あまりにも多くの事に、想像もしなかった全てに理解が追いつかない。
もう逃げないと決めたはずなのに。どうしたって、呑み込むことができないのだ。
妹が本当は洗礼を受けていなかったこと。それが、妹自身の加護によって叶えられたこと。
父も国王も、グラナート司祭もそれを知りながら隠していたこと。そうできるほどの強大な加護を、彼女が有していたこと。
妹の我が儘が許され続けていたのは『精霊の花嫁』だからではなく、その加護のせいであること。
その一連に関係している第三者が存在すること。その者を特定するために今まで見過ごされていたこと。
……そして、本来嫁ぐはずだったのはメリアではなく、自分だったこと。
込み上げてくる感情を、強く目を瞑ることで押し殺す。
だめだ。こんなこと、考えてはいけない。だって、自分にそんな資格はないのだ。
人と精霊の均衡を保つため。精霊が人の世界に干渉しすぎないよう助言を行うのが娶られた者の務めだ。そうだとディアンは解釈し、エルドもそうだと肯定した。
そのために、選ばれた者は何年もかけてその知識を学ぶのだ。人間界のことも、精霊界のことも。
そのための『花嫁』。だから、勉強しなくていいなんてメリアの我が儘は許されなかったはずで。
……ならば、自分だって同じだ。
精霊について、人より詳しくとも名簿士の域に達しているかさえ怪しい。他国どころか生まれ育った国に対しても知識は十分とは言えない。
それ以外だって、知らないことはあまりにも多すぎる。エルドがいなければ今日まで無事でいられたとは到底思えない。
盟約を考えれば、ディアンが嫁がない選択はない。だが、そんな人間が精霊の伴侶なんて、それこそ誰が許すというのか。
そんな教育を施せる状況ではなかったのは事実。それでも……やはり、自分には務まらない。
己さえ守れない人間がそんな責務を果たすなど。誰よりも、ディアン自身が。
目を開いても見える景色は変わらない。窓から差し込む光。薄暗い空間。放り出した腕と、手首に嵌められたままの魔法具。
これが自身の魔力を抑えるのではなく、これ以上他の魔力に侵されないためだと聞いたのはどのタイミングだったか。
人でなくなっているなんて言われても実感がない。眠気も空腹感もあったし、疲労感だって。
力だって強くなったわけではないし、なにも特別なことはなかったはずだ。
……いや、自覚がなくとも影響を与えていることには変わりない。
誘拐された時、船に乗る前。いや、ディアンが気付いていないだけで、それ以前からもおそらく。顔を隠していたからこの程度で済んでいたのだ。
きっとラミーニアに着く時には……エルドが自分を突き放そうとした時には、もう人から離れかけていたのだろう。
時期がわかったところで、ディアンの求める答えにはなり得ない。あと少しでも遅れていれば人でなくなっていた。それだけが、事実。
繰り返しても実感できない。一ヶ月前まで、加護を賜れなかった加護無しだったというのに、その理由が自分を取り合っていたからなんて。
伴侶を得ることは存在意義と同じだと聞いていたが、それでも自分の事だと認識できない。
ずっと抱えていた疑問の訳が明かされたのに、なにもわからないままだ。
エルドが加護を与えないことはわかっていたと、女王は確かにそう言った。
最初からわかっていて、だから他の精霊が取り合って、誰も加護を与えることが許されなかったのだと。
……だが、実際に今、ディアンは加護を賜っている。エルドから。エルドと名乗っていた彼から、この瞳が変わるほどの加護を。
同情から与えたと言ったのは女王だ。それは事実かもしれない。あるいは、他になにか事情があったのかもしれない。
本当は加護なんて与えたくなくて。だけど、そうするしかなかったのか。
滲む涙を抑えようと、強く閉じた目蓋の裏。映るのは黒ではなく、茜に染まる海原。聞こえるのは震える自分の息ではなく、エルドの声だ。
もう一度だけ誓って欲しいと。そう願った彼の懇願。
そう、あれは嘘ではない。嘘ではないはずだ。そうだと信じたいだけかもしれない。でも、それでもいい。
あれが本心であれば尚のこと、なぜ一度目の洗礼で加護を与えず、今になって与えたのか。どうしてそうしたのか、その理由を聞かなければならない。
今考えられる可能性は全て、他人や自分で補おうとしたものばかりだ。
まだ彼からはなにも聞いていない。なにも明かされていない。まだ約束は、果たされていない。
知らなければならない。彼に問い、そうして彼の口から聞かなければ。そうでなければ選べない。自分がどうするべきか。本当は、どうしたいのか。
後悔しないように。彼との誓いを、果たすために。
起き上がり、息を吐く。倦怠感は凄まじく、足取りも軽いとは言えない。だが、やるべきことが定まったなら迷うことはない。
問題は、そのエルドと会う方法がないということだ。
答えが出るまで会わせるなと言われている以上、そう簡単には会えないだろう。素直に申し出て許されるとも思えない。
『中立者』として扱われているとしても、精霊であることには変わりない。どこか離れた部屋に隔離されていると仮定して、そこからどうやって会うべきか。
トゥメラ隊の目を欺いて会いに行くのは不可能だ。だが、それは自分一人で行動した場合。
協力者がいる。……そして、その相手は一人だけ。
踏み出した足が扉の前で止まる。それは思いとどまったのではなく、聞こえてくる会話からだ。
「『候補者』様は――」
「わかって――」
扉の前に誰かがいる。一人は、おそらく警備をしているトゥメラ隊だろう。そしてもう一人は……久しく聞いていなくても、忘れるはずのない相手。
遠ざかる足音にノブを捻り、勢いのまま扉の外へ。驚き振り返った姿は、やはり想像していた通りの相手。
「……司祭、様」
飛び出したはいいが、なにを話せばいいかわからず。名を呼ぶだけで、言葉は続かず。
向き直ったグラナートが見下ろし、それから手を胸元へ。教会の関係者が行う最上の礼に、チクリと胸が痛む。
「このような時間に申し訳ございません。明日、改めて伺いま……」
「いいえ」
王都を出る前とは明らかに異なる対応。その理由も、そうしなければならないことも理解している。
だからこそ首を振り、引き止める。……そう、話をしなければならないのは、彼も同じ。
でもそれは『候補者』としてではなく。
「今からでも構いません。……司祭様が僕を『候補者』としてではなく、ディアンとして接してくれるのなら」
赤が揺れる。戸惑い、動揺し。そうして伏せた目蓋は再び開かれ……見据えた顔に、ようやく見慣れた表情が戻る。
「……中に入ってもいいかい」
苦笑する男につられて自分も同じ顔をしていたのに気付いたのは、その赤を見つめ返した時だった。
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