194.『精霊の花嫁』
世界が揺れる。否、それはディアンが立ち上がったからだ。
勢いよく擦れた椅子の悲鳴は届かず、揺れた紅茶が零れそうになる様を見ることさえもない。
テーブルについた手が離れても、残った手は唇を押さえたまま。なにも出ないのに、息すらも止まっているのに、押し止めようとする力は強く、強く。
「……ち、がう」
首を振り、呟いて。だが、それは音にならず。後退った足が椅子を押しのけても、身体がふらつく事はなく。
それでも世界は回る。揺れる瞳が逃げ場を求めて彷徨い、回り続けている。
そんなはずがないと信じていた。あり得ない可能性だと、ずっとずっと否定してきた。
精霊王が求めたのが『花嫁』ではなく伴侶と言ったことも、妹を加護する精霊の名が明かされていなかったことも。
妹ではなく自分を保護しようとしていたことも、全部、全部。
いくつもある可能性のうちの一つ。それ以上考えることもなかった、あり得ない未来。
自分が精霊の伴侶など。そんなこと、考えられるわけが。
「ちが、います、違う、僕は、」
「『候補者』様」
背を支えられ、それでも足は後ろに下がろうと足掻いている。ディアンの意思では止められない。
違う、違うのだ。そんなことあってはいけない。なにかの間違いで、だから、違う。
『候補者』が精霊の伴侶であるなら、契る精霊がいる。その者を愛し子とした精霊が。本来の意味で求めた精霊が。
その相手を知っている。だから、違う。違う、これは、こんなの、
「違うんです、僕は……ちがっ……!」
「――ディアン」
周囲の宥めようとする声も、女王の呼びかけも、なにも聞こえなかった。聞こえなかったはずなのに、その声だけはディアンを貫く。
いつものように優しく。いつも通り、変わらず。それが、ディアンにとってどれだけひどく響いたか、呼びかけたエルドは気付いていたのだろうか。
否、気付いているからこそ。紫が捉えた男の表情は変わらず。なのに、あんなにも辛そうで。
「ぼく、に、」
込み上げる感情に溺れて息ができない。目元まで覆われて、顔さえも滲んで見えなくなっていく。
違う、違うんだ。違うのに。なにもかもが違うのに、どうして。どう、して、
「その、資格は……っ……」
学ぶべきことも、知らなければならないことも、伴侶が身に付けなければならない教養もなく。その覚悟だってない。
こんな感情、抱いてはいけない。ダメだ。ダメなのに。違うのに。違わなければ、いけないのに。
「大丈夫、まだあなたは『候補者』のままです。……辛うじて、ではありますが」
視線を遮るように、リヴィとトゥメラ隊がディアンの身体を支える。滲む世界に薄紫は見えなくなり、首は見上げる女王へと戻される。
「そこの男が加護を与えたということは、伴侶に選んだということ。……よもや二度目の洗礼まで放置し、されど無関心を貫くこともなく。こんな形で関わり続けるとは思いませんでした」
あり得ないことだと、吐き捨てる女王の視線はもうエルドに向けられすらしない。そして、エルドもまた……それを否定することはない。
遮られた向こう、彼がどんな顔をしているかすら。今のディアンに知る術だって。
「あなたが『選定者』となることは、産まれる前から定められていたこと。定例に従い、最初の洗礼で加護を賜り次第、我々が保護する予定でした。……ですが、事態を把握した時、既にその機会は失われていた」
「……どう、して」
「本来なら、精霊王が認め、その後に選定が行われて初めて『選定者』が決まるのが通例。しかし、今回はその順序が変わってしまった。あなたは盟約によって伴侶にできると確約された存在。そして、そこの男が加護を与えないことは精霊たちにとって周知の事実。結果、伴侶を求めた精霊同士が奪い合い……最終的に、誰も加護を授けることを許されなかった」
頭の中が飽和していく。言葉を言葉として認識できない。
奪い合った。だから、加護を授けられなかった。どの精霊からも拒否されていたのではなく、本当は……その、逆?
ああ、違う。それよりも、それならなぜ、自分は今、加護を授かっているのだろう。
与えないと断言されているのに。そうで、あるはずなのに。
「二度目の洗礼がどのような結果に終わろうと、あなたを保護し精霊側の真意を確かめる必要がありました。……この事態を引き起こした本人が直接加護を授け、さらには行動を共にするとは。ゼニスを信用していた私の誤りです」
首を振り、息を吐き。そうして、ディアンに向けて伸ばされたと思われた指に、光が留まる。
ふわりと揺れるスカート。小さな少女の姿。もう見えることはないと思っていた妖精は、そのままディアンの元へ。
思わず差しだした手に感じる重みは無に等しく。しかし、伝わる感触は幻ではなく。
「……あなたが彼女たちを視認できている時点で、その身体は人の域から外れかけています」
「え……?」
「愛し子の中には視認できる者もいます。ですが、それは長い年月をかけて己の力を制御し、洗練させた上でのこと。ただ加護を与えられただけで妖精が見えるまでになるのは、その男の魔力に影響を受けた結果。……ラミーニアでの一件、違和感を覚えたことがあったはずです」
心当たりはあるはずだと問われ、思い出すまでもなく呼び起こされるのは船での出来事から。
自分を見た時から様子のおかしかった男たち。執拗に自分を捕まえようとする兵士。顔を晒すことをよしとしなかったエルドの言動。
だが、それは愛し子になった弊害であると思っていた。ララーシュのように、ディアンが望まずして他者に影響を与えているのかと。その可能性があるのかと。
それが、人から外れかけている? ……人ですら、ないと?
「どう、いう……」
「我々が聖水と呼んでいるのは、精霊界から汲み取った水のことです。そのまま使うには魔力の純度が高く、人の身に馴染むことはありません。一時的な魔力欠乏を解消するために飲ませることはあっても、本来なら苦味しか感じないものです」
どれを指しているか、確かめる必要はない。
エルドと出会った次の日。旅の道中。エヴァドマの教会の一件。ラミーニアでの誘拐未遂。そして……先ほどだって。
日を追う毎に薄れていた苦味。比例して強くなる甘さは、むしろ身体が求めているようで。
それは自分の魔力が整っていないからだと、そう思っていたのに。
「甘く感じるのは、我々愛し子や精霊だけ。……もう、あなたの身体の大半は、我々に近い存在になっています」
「で、すが、口にしたのは数度だけで……他には、なにも……」
「強い魔力を持つ媒体と共に過ごせば、それだけで影響を受けます。一ヶ月とはいえ、精霊と共に過ごしたのなら当然のこと。自覚はなくとも、このままでは人としては生きていけません」
視線はリヴィへ。否、その向こうにいるエルドへ向けられたはずだ。だけど見えない。なにも映らない。問うことも、できない。
なぜ、どうして。繰り返しても言葉にならない。わからない。わからない、なにも。
「だからこそ、我々はあなたを保護したかった。これ以上手遅れになる前に、あなたがまだ人である間に。……こうなると理解していながら、なにも語らずにいた卑怯者の手から」
違うのだと、もう否定することはできなかった。それはただの願いでしかない。
説明してくれると。女王に謁見した後に全てを明かすと。だから、ディアンはそれを信じてここまで来た。彼がそう宣言したから。そうだと約束したから。
エルドは嘘を吐かないと。だから……だけど、これはなにだ? なにが起きている?
頭が痛い。息が苦しい。考えなければいけないのに、逃げては、いけないのに。
「メリア・エヴァンズの加護。その影響で魅了された者たち。精霊の身勝手な争いによって加護を与えられなかった事実。……それらにより、保護に値する扱いを受けていたにも関わらず見過ごしていたことを、許してほしいとは言いません」
「僕、は」
「あなたが『選定者』ではなく『候補者』であるうちは……まだ伴侶となるか未定であるうちは、一般人として扱う他ありませんでした。そして、そこの男が『中立者』ではなく、精霊としてあなたと共にいると命じた以上、我々も強硬手段に出るわけにはいかなかったのです」
――これは『中立者』としての言葉ではない。
聞こえるはずのない声は鮮明に。その記憶と共に、ディアンの脳裏に浮かぶ。
あの日、自分がまだ共にいたいと願ったあの日。そうエルドが彼女たちに告げた言葉。『中立者』ではないと。教会から与えられた役目ではなく、精霊としての言葉であると。
覚えている。まだ、こんなにもハッキリと覚えている。
であれば、それは、それは彼のせいではなく、自分のせいで。
だけど、どうして。なぜ。なんで。
「あなたが『選定者』となるか、それは我々が定めることではありません。ましてや、そこの男でもありません」
あなたが選ぶのだと、女王は言う。ディアン自身の意思で選べと、淡々とした声が告げる。
誓約がある限り選択肢などないはずなのに。選べるはずが、ないのに。
だけど……その役目を、自分が果たせるはずが。
「誓約について、あなたが責任を負う必要はありません。……そして、時間はかかりますが、あなたにはまだ人としての生を歩める道が残されています」
「で、すが、僕は、」
「急ぐ必要はありません。……あなたには、考える時間が必要でしょう」
立ち上がる彼女を、目で追う動きはあまりに遅く。話は終わりだと示され、それ以上出せる声もなく。
「それまで、そこの男を隔離するように」
鎧の音が響き、見えない影が遠ざかる。その顔を、その薄紫を見えないまま。なにも語られないまま。
呼び止めることも、縋ることもできない。否、もはや自分がそうしたいかさえも、ディアンにはなにもわからず。
「……どう、して」
呟いたそれは。問えずに落ちたその感情は、一体誰の耳に届いたというのか。
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