193.過ちは最初から
声が漏れる。意味のない母音だ。不抜けた声とも称せるだろう。
だが、出た響きをなかったことにはできない。むしろこの程度で留めることができたことが奇跡にも思えた。
言葉を頭の中で繰り返す。そう、繰り返しているだけだ。その羅列が変わることは決してない。
妹が、『精霊の花嫁』ではないのだと。
「あ、の……申し訳、ありません。意味が、よく……」
「言葉の通りです。教会は一度も、メリア・エヴァンズが精霊と契ると認知した事実はありません。そもそも、『精霊の花嫁』などという呼称はあなたの父、ヴァン・エヴァンズを初めとする者たちがそう呼んでいるだけです」
自分の理解が及ばないからだと。きっと、他に意味があるのだと。
縋る手は払われ、事実は容赦なく突きつけられる。まるで研ぎ澄まされた刃のように、心臓に突き刺さるそれは鋭く、強く。
「ディアン。あなたは、自分の妹が誰から加護を賜っているか知っていましたか」
問われ、否定する。ディアンだけではない、この世界でそれを知る者は誰もいないはずだ。だって、当の本人ですらその名を賜ることはできなかったのだから。
名前がわからなければ加護だってわからない。だから、わかるはずがない。
「……洗礼の時に、名前を教えてもらえなかったと聞いています。だから誰かはわからないと。それでも、『花嫁』なのだから愛し子なのだと、当時の司祭様は……」
「洗礼は行われていません。メリア・エヴァンズ本人がそれを拒んだのです」
「な、っ……!」
なぜ、と。どうしてと。咄嗟に出かけた言葉は、結局紡ぐことはできず。渦巻く脳内は、視界ごと回っているかのよう。
洗礼はされていない? ……メリアが、それを拒んだ?
そんなのあり得ない。公開されなかったとはいえ、洗礼の場には国王陛下と父も同席し、当時の司祭だけでなくグラナートも立ち会った。
王と父だけなら、まだなんとか理解もできる。妹が癇癪を起こし、それを許したのだと。だが、これでは教会までもがその行為を許したことになる。
そんなの、あってはならないはずで、だから、
「い、ったい、なにが……」
ただ看過していたのではない。なにかの事情がある。理由があるはずだ。そうしなければならないだけのなにかが。
いや、あってほしいと尋ねる声が僅かに震える。
「あなたの妹は、その時点で強い力を賜っていました。ノースディア王とあなたの父も、そして当時の司祭さえもその力に魅了され、彼女の欲求を叶えてしまったのです」
「待ってください。洗礼は行われていないのに、なぜメリアに加護が?」
説明の途中で口を挟むのは、それこそ不敬に値するだろう。だが、あまりにも矛盾している。
たった今、洗礼は受けなかったと説明されたばかりだ。それなのに加護を賜っていたなんて無茶苦茶すぎる。
それも、愛し子と呼ばれるほどの強い加護……その力が、教会の司祭さえも惑わすほどだったなんて。
『精霊の花嫁』だったから? いいや、それだって否定されたばかりだ。彼女にその資格はないのだと、違うのだと。
「たしかに、メリア・エヴァンズは通常の愛し子とは異なります。産まれた時点で加護を賜っていたなど、把握しているだけでも彼女だけですから」
「でも、それは……メリアが、伴侶になるから、ではなく……?」
「精霊が加護を授ける理由、その思考を我々が正しく酌みとることはできません。ですが今回に限っては、伴侶にならないからこそ、その加護は授けられたのです」
思考がまとまらない。理解したいのにできない。なにもかもおかしい。
洗礼を受けるよりも前に加護を賜ったのに、それだけ特別な愛し子なのに伴侶ではなく。そうではないからこそ、それだけの加護を授けられた。
伴侶になるよう盟約を交わしたのに、メリアにその資格はなく。だけど、普通の愛し子とは、違う。
自分がなにを言われているのかさえわからなくなってくる。
……いいや、この期に及んでまだ目を背けようとしているだけだ。
あの時は否定したかったそれを。誘拐されかけたあの時、あの少女に問いかけた可能性から。
「ララーシュ・レーヴェンと会いましたね」
問いではなく、断言。彼女に報告が上がっていないはずがない。
だが、今まさに思い出していた少女の名をあげられ、肩が跳ねる。
望んでいなかったと。こんなもの、欲しくなかったのだと。声にせずともそう訴えるあの少女の叫びを、ディアンが忘れられるはずがない。
「誰かに似ているとは思いませんでしたか」
「ぁ……」
喉が、舌が、唇が。震えて紡げず、開いたまま閉じることもできず。美しい指先に促され、カップを取る手つきだって危うい。
なんとか飲み込んだその味も温度もわからず。潤った喉が吐いたのは深い息とか細い声。
「……妹の、幼い頃に」
目を閉じずとも鮮明に思い出せる。もう十数年と見続けてきた姿だ。
シルクのように美しいプラチナブロンド。その金に混ざる薄桃色の光。
同色の長い睫毛に縁取られた、どんな宝石も敵わないほどに美しく透き通った緑の瞳。
陶磁器のように白い肌。赤く上気した頬。小さな唇。
ああ、まさに……一目で精霊から愛されていると、そう理解できる美しい姿。
もしも同じ年であれば見分けもつかなかっただろう。それほどまでに似ていた。あまりにも似すぎていた。
だが、その姿がララーシュと重なることはない。その精神は、どう足掻いても似ることはない。
「その精霊から加護を賜った愛し子に共通するのは、その外見が似通い、人の身には到底制御できぬ加護を授かること。教会が洗礼を義務付けているのは、その愛し子を保護し、監視下におくためです」
だから洗礼がなくともわかったと言われても納得できない。理解が、追いつかない。
「我々が魅了と呼んでいるそれは、意図せずとも他者を従わせる力を持っています。愛し子自身に被害が及ぶこともあれば、他者に害をなすことも。だからこそ、彼女の加護を得た者はその力を制御する必要があるのです」
「……魅了」
「ララーシュが他者に惹き付けられ、何度も拐かされそうになったのも。あなたの、ノースディア王国での扱いも。……心当たりはあったはずです」
よぎるそれが、全てその影響だったのだろうか。
妹に苦言を呈し、それを一方的に責められたことか。門を通るという大罪を防ごうとして非難されたことか。あるいは、あの家で行われたこと全てが、そうなのか。
冷遇してきたメイドも、妹だけを愛で続けた母も。メリアを庇い続けてきた父も……全て、その力のせいだったのか?
「メリア、が。嫌だと思ったことを、遠ざけるために?」
「ララーシュが望まずとも他者に影響を与えるのと同じく、メリア・エヴァンズにその自覚がなくても力は解放されます。彼女自身は、自分が『精霊の花嫁』だから望みを叶えられると思っているのでしょうが……」
馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑う気配は確かに目の前から。だが、同じく笑う余裕などない。
答えられるごとに矛盾が生じる。彼女が最も嫌がっていたのは、それこそディアン自身ではないか。
咎め、叱り、その度に怒り狂った。それなのに、なぜ自分は影響を受けていない?
「ですが、自分は何度も彼女を叱って……でも……」
「全く影響を受けなかったとは限りませんが、彼女の加護がいかに強力でも効かない相手がいます。……そこにいるグラナートのように」
見たはずの赤が俯いている。目を逸らされ、いつかの時と逆だと。そう考えてしまったのはこの現実から逃げようとしているのか。
効かなかった。それは……洗礼の時も、例外では、なく?
「フィリアとデヴァスの相性はよくありません。メリア・エヴァンズもグラナートを怖がっていたと聞いています。デヴァスの愛し子であったからこそ避けられた事態でしたが、そうでなければ彼も同じだったでしょう」
口の中で繰り返されるのは、その名前だ。
フィリアと、確かに女王はそう紡いだ。聞こえてはならないその名を。その精霊の名を。
「いくら愛し子とはいえ、耐性のない人間に抗うのは不可能。だからといって見過ごすわけにはいきません。彼らがメリア・エヴァンズに洗礼を受けさせず、それを我々に報告しなかったのは事実」
「……ま、って」
「これまで見過ごしていたのは、この一連を引き起こした黒幕を特定するため。……そのために、あなたの状況を把握しながら助けられなかったことを、許してほしいとは――」
「まって、ください」
許されなくて当然だと、女王は言う。それだけの仕打ちを受けてきたのだからと、怒って当然であると。
だが、そんなことどうでもよかった。さらりと告げられた黒幕なる人物だって関係ない。
否定を、否定されなければ。だって、その精霊は違うのだ。
どれだけ強大な加護を与えたとしても、その存在だけはあってはならない。
「フィリアは……愛を司る精霊は、婚姻できないはずでは……?」
今だけ。どうか今だけ、自分の記憶違いであると。それが誤りであると信じたかった。
どんな幼い子どもでも知っている存在。その逸話。その前提がそもそも誤って伝えられた。だから、ディアンの憶測は間違っているのだと。
嗤われ、否定され、呆れられ。そうして、訂正してほしいと。握った指が縋るのは己の服であり、それを掴む温もりなどなく。
「だからこそ。メリア・エヴァンズに資格はないのです」
最初に言った通りだと、女王の声は変わらない。呆れも、怒りも、哀れみもない。ただ、淡々と告げるのは記憶に違わぬ事実だけ。
精霊王の最初の分身。そのうちの一人。愛を司った精霊。数多もの婚姻と離縁を繰り返し、精霊王直々に婚姻を禁じられた、最も有名な精霊。
それは、人が相手であろうと変わらず。故に、メリアを加護しているはずがないのに否定が聞こえない。違うのだと、肯定してくれない。
「本来なら、最初の洗礼にて加護を与えるのが我々と精霊の間に結ばれた盟約。それをあの女……いえ、精霊フィリアは己の欲求のままに破ったのです。残される家族が哀れであると、だからこそ誰からも愛される者に育つようにと」
それこそ馬鹿馬鹿しいと、隠しきれない憎悪が滲み出る。崇めるべき対象への、あまりの言動。
そんな疑問を抱くべき言葉が、頭の中を通り抜けていく。思考が煮詰まり、飽和していく。
考えられない。……違う、考えたくない。
「フィリアがメリア・エヴァンズを加護した時点で、伴侶の資格は失われました。彼女が『精霊の花嫁』ではないことは理解できましたね」
「……ま、って、ください」
理解していると、そう確信されたうえで言葉が続く。
理解している。しなければならない。だけど、立ち向かわなければならないのに、頭が拒絶している。
受け入れると決めたのに、そのためにここにいるのに。
だけど違う、これは、これは違う。違うはずなのに。
「それでは……っ、精霊王と父が交わした盟約は、どうなるのですか」
数十年前に起きた魔物との大戦。人間の力だけでは制することができなかったその戦いで、明暗を分けた聖剣。
それを授かるために、本来足を踏み入れてはならぬ精霊界へ赴き、精霊王と直接盟約を交わしたはずだ。
力を授ける代わりに、息子の伴侶を捧げよと。だからメリアが『花嫁』に選ばれたのではなかったのか。
その彼女に資格がないのなら――誰が、代わりに?
「妹じゃ、ないなら。『花嫁』は、サリアナ殿下……?」
「言ったはずです。『精霊の花嫁』とは、あなたたちの父親が勝手にそう呼んでいただけ。オルフェン王は子息の伴侶を求めたとはいえ、そこに男女の区別はありません。そして、盟約はオルフェン王とヴァン・エヴァンズによって交わされたもの。伴侶に選ばれるのは、エヴァンズ家の者に限られます。つまり――」
「――まってください!」
叫ぶ。いや、叫ぶつもりはディアンにもなかった。ただ、制御できぬほどの声量になってしまっただけだ。
「おねがい、します……まって、ください……っ」
訴えは十分過ぎるほど伝わった。それでも繰り返してしまう。懇願し、願い、縋る。だが、その手は誰でもなく自分自身に向けて。
頭を抱え、肘をつき。崩れ落ちそうになる身体を辛うじて食い止めている。
息が苦しい。頭が、追いつかない。否定をしなければ、違うと、そんなはずがないと。これは、今思っているこれは、違うんだと。
「ディアン。もうあなたもわかっているはずです」
それなのに、見透かされる。見透かされている。逃げることは許さないと、引き止められる。
今はその時ではないと考えるのを先延ばしにして、否定し続けてきた。あくまでも可能性で、だからそうではないのだと。
その材料はいくつもあったのに。そうだと認めたくなくて。ずっと、ずっと確かめられなくて。
だが、もう……もうその時は、来たのだと。
「『候補者』というのもまた、本来存在しない呼称です。あなたは『選定者』と呼ばれるはずでした。数多の人間、数多くの愛し子の中で唯一、伴侶に選ばれた者として」
顔を上げる。そこに見える色はない。阻まれる布の中、向き合う彼女がどんな顔をしているかだって。
そして……その瞳に映る己が、どんな顔を、しているかだって。
「――『精霊の花嫁』はあなたです。ディアン・エヴァンズ」
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