191.否定と救済
だが、そんな言い逃れは許さないと、女王の瞳はディアンを貫く。
見えるはずのない視線が。映るはずの無い、その強い光が。ディアンを……否、彼が庇おうとしている男を逃すまいと。強く、強く。
「そこまでの加護を賜ったのです。もちろん、この男の口から聞いていますね」
疑問ではない。問うてすらいない。それが当然だと。そうでなければおかしいのだと、彼女は言う。
だが、それは……それは、この地についてからで。そうだと、約束したからで。
「――それすらも、聞かされていないと?」
喉が引き攣る。それでも構わない。声を出さなければ。違うのだと、知っているのだと、言わなければ。
「っ、せ、いれいで、あることは、知って……!」
「なら答えられますね」
本当に彼の口から聞いたのなら。それが憶測や確信した予感ではなく、真にエルドの口から聞いたのならばと。全てを見透かす強者が、告げる。
「ああ、名簿士を一時でも目指したなら理解しているでしょうが……加護と精霊の名を意図して間違えれば、精霊の怒りに触れるでしょう。ましてや、ここは精霊界に最も近い場所。いくらこの男の加護を賜っていたとしても、人としての裁きは受けなければなりません」
首飾りに縋る指から、力を抜くことはもうできなかった。嘘など吐くつもりはない。吐けるわけがない。
そもそも、エルドが精霊である確信こそ抱いても、その加護なんてわかるはずがなかった。
予想なんてつかない。つけられない。それこそ、ディアンが最も避け続けていた答えなのだから。
奥歯を噛み締め、息を吐き。
……終ぞ、声は出ず。握り締めた首飾りから伝わるものだって、なにも。
「あなたは、そうやって有耶無耶にされ続けたのですね」
顔を上げる。そこで、とうとう目を逸らしていたことに気付いたって、全てが終わった後だ。
見えるはずのない表情。見えることのない瞳。そこに、哀れみと同情を感じ取り、胸の奥がジクジクと痛む。
違うと、そうではないと。ただ、約束をしただけなのだと。
否定したいのに、息すらまともにできず。突き刺さる手の内に、やはり痛み以外の感覚はなく。
「リヴィ」
となりにいた彼女が頷き、ディアンへ向き直る。
「お覚悟を」
端的に告げられた言葉に、背筋を正す。嘘ではなくとも、誤魔化そうとしたことは事実。たとえ『候補者』と呼ばれようと、女王陛下への不敬には変わらない。
背筋を正し、足を開く。来たるべき衝動に歯を食いしばって――その影が、足早に後ろへ向かうのに、殴られると予感した瞬間よりも心臓が騒ぐ。
振り返った先。立ち止まった場所。それは、間違いなくエルドの、前で、
理解した瞬間には、もうその音は響いていた。
なんの躊躇もなく、全力で振りかぶった拳は鈍く、強く。衝動で横を向いた顔と散る赤。籠手の金具に引っかけただけではない鮮血に、叫ばずにはいられなかった。
「エルッ――!」
「この愚か者が」
だが、その名を紡ぐことはできなかった。許されなかった。
淡々と響く非難は、決して大きな声ではなくともこの場を占めるには十分過ぎた。
まるで氷を思わせるほどに冷たく。されど、今までよりも明確に感じ取れる怒りに、初めて血が通ったような錯覚を抱く。
灯る。感情が、怒りが。まるで物に命を吹き込むかのように。今まで感じていた無機質さが、幻のように。
「ここまで加護を与えておきながら、まだなにも伝えていなかったとは」
凛とした張りのある声が、まだ頭の中に響き続けている。
エルドが、自分に加護を与えた。薄々気付いていた真実を肯定され、手に力が入るのはディアンだけではなく。
見上げたその先、陶磁器に見紛うほどに白い指先が肘掛けに爪を立てる様子まで、ハッキリと。
「この期に及んでまだ迷っているなどと言ってくれるな」
「……怒りは受け止める。だが、」
「黙れ!」
吐かれた息は深く、重く。吐き出しきっても、抑えられない怒りに、空気が震えている。
怯んでいるのはディアンだけだ。誰も……ゼニスも、グラナートも。責められているエルドでさえ。その言葉の通り、己の非難を受け止め沈黙するだけ。
「……十八年の年月など、精霊にとっては瞬きの間でしかない。だが、人間にとってどれだけ貴重で膨大な時間であるか」
理解できるかと、女王は問う。十八年。ディアンの人生を表す数字の重さを理解できているのかと、エルドに問うている。
エヴァドマの時のように、悪いのはお前だと。そう、突きつけるように。
「他の精霊ならまだ納得もした。所詮は相容れぬ存在。かの者たちに人の在り方など理解できぬと諦めもついた」
なじる声が止まらない。だが、それはエルドではなく、彼女が代弁しなければならぬ精霊に対して。
誰よりも最も崇めているはずの人物が否定する矛盾も、大きくなる声で遮られる。
「お前は、お前だけはそれを理解していると思っていた。誰よりも人に寄り添い、誓いを貫き、今日まで共に在ったお前ならばと信じていた。……よもや、こんな形で裏切るとはな」
その一言に、振り返った先の表情はやはり変わらない。全てを受け入れ、否定せず。それなのに、ディアンと絡んだ瞳が反れる。
「どこまであなた方は、我々人間を愚弄するつもりだ」
その間も女王の言葉は続く。彼が、エルドが全ての元凶なのだと。自分を苦しめたのは、彼が原因なのだと。
「怒りだと? ……これをそんな陳腐な言葉で片付けてくれるな。お前が行ったのは人間の尊厳に対する陵辱でしかない。唾を吐き、踏みつけ、奪い取ってもまだ足りないというのか……!」
話についていけない。だが、エルドが責められているのだけは変わらない。それだけは変わってくれない。
「守るためだなどと笑わせてくれるな。お前が介入したせいで、何度『候補者』が死にかけたと思っている!」
違うと、否定する声が届かない。なにもわからない。教えてもらえていない。
だけど違う。それは違うのだと、どうしても言葉にすることができない。
「加護を与えて惜しくなったか。最初に拒んでおいて、今更! 己で立てた誓いすら守らずしてなにが宣言か、なにが愛し子か! 下手な同情を抱き、ここまでの事態を引き起こして、まだ覚悟も決められぬなど!」
耳を塞げたなら塞いだ。見ずに済むならばそうした。だが、できない。できるはずがない。
求めているのは目を逸らすことではない。どうして、こんなにも必死になるかもわからない。
それでも、違う。違うのだ。それは、それは……!
「お前は、どれだけこの者を苦しめれば――!」
「――違うっ!」
耳鳴りがする。予想以上の声量に。今まで音にならなかったのが信じられないほどに響いた否定に。
汗が滲む。心臓が今にも破裂してしまいそうだ。
抑えつけられるような息苦しさに唾を飲み込んで。楽になれずとも、言葉を紡がなければならない。
「っ……発言を、お許し、ください。ですが、違います、違うのです……っ……」
思考がまとまらない。伝えなければならないのに。違うと言いたいのに。
焦りと恐怖で頭が滲み、視界が回り続けている。支えられていなければ倒れていただろう。
あまりの不敬に、それでも口を塞がれることはなく。女王の許しが得られたのに気付かぬまま、ただ必死に言葉を紡ぐ。
そうしなければいけないと、ディアンの中のなにかが、訴え続けている。
「僕はっ……僕は、『中立者』様に、救われました。家を飛び出したあの夜だけではなく、今までも、ずっと。今の僕があるのは、『中立者』様が、傍にいてくれたからです……!」
何度も、何度も、何度も。
あの夜だけではない。あの日からずっと、ディアンはエルドに助けられた。救われ続けてきた。
命だけではない。魔術疾患にかかっていると知らされ、失意に溺れる自分を肯定したのも。
自分が置かれていた状況がいかに異様で、それを受け入れるしかなかった自身をここまで導いてくれたのも。
王国に帰りたくないと。連れ戻しに彼女たちが来て、それでもここにとどまりたいと強く思えたのも。全部、全部エルドがいたからだ。
自分一人ではここまで来られなかった。エルドがいなければ、死んでいた。エルドがいたから、今の自分がいるのだ。
あの夜に保護されていれば、たしかに傷つくことはなかった。死にかけることも、その恐怖を味わうことだってなかっただろう。
だが、それではきっとなにも変わらなかった。変えようがなかった。
従う相手が父親から教会に代わっただけだ。そこにディアンの意志は、きっとなかった。
エルドと共にいたから。彼と一緒にここまで来たから、自分は自分としてここにいる。
エルドとの約束があったから、ここまで来ることができた。
『精霊の花嫁』のことも、王国の協定違反も、どうして自分に加護が与えられなかったかも。それをどうして、教会が対処してくれなかったかも。
切っ掛けはエルドだったかもしれない。それがなければ、ディアンはこんな人生を歩むことはなかったかもしれない。
それでも……それでも、今までの全てを否定されたくない。
そうだ。自分は否定されたくなかっただけだ。
苦しい思いもした。恐怖だって感じた。理不尽さに苛立ち、悲しんだことだって。
だけど、それはエルドのせいじゃない。自分はエルドに救われたのだと!
はたして、それはどこまで言葉にできただろうか。どこまで、伝えることができただろうか。
あまりにも稚拙で、言い訳がましい訴え。
詰まり、息を切らし、それでも止めることのできなかった思いは……どこまで、酌みとられただろうか。
「全てを知った後で、同じ事が言えるでしょうか」
不敬を咎めることなく、先ほどのように哀れむ声でもなく。
淡々とした響きの中、なにが含まれていたのか。立っているのがやっとのディアンに、理解できるわけもなく。
「ついてきなさい。……長い話になりますから」
そして、女王が立ち上がるのとディアンの身体が抱きかかえられたのに、ほとんど差はなかった。
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