189.謁見の準備
それから呆然と待っていた……と言えた方がマシだったのか。それとも、考える余裕すらなかったことを喜べばいいのか。
てっきり個室に連れて行かれると思っていたのに、それが浴室だなんて誰が予想できただろう。
とてもそうとは思えないほどの広さや造形の美しさに目を見張ったが、着くなり服を剥かれれば感嘆する余裕などない。
そんな恰好でお通しすることはできない、と言われて納得はしても、それが洗われる理由になるとは思えず。一体何度自分でできると訴え、何度目で諦めたか。
門を通過したことで体力が落ちていなければ、もう少し抗ったかもしれないが……羞恥より倦怠感が勝った結果、文字通り頭から爪先まで洗われることになってしまった。
唯一の救いは、恥部だけは守らせてくれたことだろう。
彼女たちも、いくら子どもとはいえ異性の性器など見たくなかっただろうし、なけなしの配慮に感謝すべきか泣くべきか。
着替えまで介助され、着ていた服がどうなったか聞く余裕もなく。脱がされる時に死守していなければ、おそらく首飾りもどこかに持って行かれていただろう。
白一色の、見てくれだけならシンプルなシャツとズボン。その光沢だけでも上質だとわかるなら、肌を通せばなおのこと。
滑らかで軽く、施された刺繍は、人の手で行われたとは思えないほどに細やか。
まだあの家で暮らしていた頃に着ていた服に似ているが、胸元に輝く橙色が無ければ落ち着かなかったかもしれない。
「お飲みください」
足の指先まで整えられ、工程の終わりを示すように水を差しだされる。
銀色に光る杯に、八分目まで注がれた透明の液体。
喉を潤すだけなら物足りなく見えるそれは、単に休ませるためのものではないと気付くのには十分な量。
「どのように感じたか、偽りなくお答えください」
正面に座る隊長……リヴィに告げられた内容からも、この水の正体がなにかを察する。今までも何度か口にしてきたものだ。
初めは苦味しか感じず、毒とすら思ったそれも舌に乗せて感じられるのは僅か。
門を通る前に飲んだのと同じく、広がるほとんどは甘さだ。
冷たくも暖かくもないのに染み込んでいく感覚は、温度ではなく……きっと、魔力が飢えているからこそで。
「染み込んでいく、感じがします」
「味は」
「……後味だけが苦いです」
言葉を濁したが、それでも伝わってしまっただろう。隠すつもりはなくとも、明言したくない気持ちを汲んでくれただけ許された方なのか。
狭められた眉は、これまでも何度か見たものだ。水が甘く、飲みやすくなるほどに、その皺が深くなることをディアンはすでに知っている。
一瞬だけの変化。すぐに表情はなくなり、控えていたもう一人の騎士に目配せされる。数秒と置かず差しだされたそれに、今度はディアンの眉が寄った。
銀色の腕輪。それだけなら、ただの装飾具だ。
そこに古代語が掘られていなければ。それに、一度も見覚えがなければ。ただの飾りと勘違いできたのに。
本来なら、愛し子……それも、特別な愛し子が付けるべき魔法具。その加護を制御できぬ者が義務づけられているもので。
「どうか誤解なきよう」
罪人に付ける枷ではないと、リヴィが訂正する。そうだとわかっても、いざ自分が愛し子であると突きつけられて戸惑わないわけがない。
理解していたはずなのに。察していた、はずなのに。
「これは御身を守るためのものです。……拒むのであれば、我々はそれを取り上げなければならない」
それ、と呼ばれた視線はディアンの手の中。無意識に握っていた首飾りに向けて。
本来なら、この首飾りも……いや、エルドの魔力がこもっているのなら、なにだって。ディアンが手にしていいものでは、ないのだろう。
時ではないと逸らし続けていた答え。その鱗片に触れ、強張った指先を無理矢理引き剥がす。
そうして差しだした手首に嵌められたそれは見た目通り軽く、そして見た目に反して冷たくはない。違和感もなければ、不快感も。
だが、再び触れた首飾りからは温もりが失われ、魔力を感じ取れないことに気付く。
それだけで胸奥に穴が開いたような喪失感に襲われ、気付かれぬよう吐いた息も彼女たちには聞こえているのだろう。
全ての準備は整い、あとはその時がくるのを待つだけ。
なにを聞かれるのか。なにを答えればいいのか。なにを、問えばいいのか。
疲労しきった頭では纏めきれず、浮かんだ端から消えての繰り返し。
そんな不毛な一連が、ノックの音で遮られる。
入室の許可なく入ってきた影に喜び――そして、思わず立ち上がったのは、その頬に打撲痕があったから。
「エルドっ……!」
思わず立ち上がり、されど支えきれず。崩れ落ちそうになる身体が、傍らの騎士によって支えられる。
地面から前に。戻した先に立つ男の腕は、ディアンには届かず。遮られたまま。
「これ以上の接触は許容できません」
「……わかっている」
落ちた手は足の横に。もう触れられないと、そう突きつけられて走る痛みを、今は奥へと押さえ込む。
「っ……怪我は、大丈夫、ですか」
「たいしたことない。心配するな」
僅かに腫れた左の頬。殴られた際に口の端を切ったのだろう。僅かに滲む赤を拭うことなく、肩を竦める仕草だけはなんともないように。
時間が経てば腫れもひどくなり、赤黒く変色するだろう。
彼なら自力で治せるが、そうしないということは……エルドもこの仕打ちを甘んじて受けたということ。
「ですが……」
「準備が整ったなら行くぞ。これ以上待たせたら、もう一発殴られかねん」
冗談のつもりだろうが、冗談には聞こえない。そんなことを言えば、それこそ周囲から怒られる。
いや、エルドがそう発言する前から、彼に向けられる視線は鋭く厳しい。
反省の意図が見えないからではなく。それ以前から……エヴァドマで会った時から、それは変わりなく。
「失礼致します」
断られると同時に身体が浮く。この細腕のどこに、こんな力があるのだろうか。
彼女たちが純粋な人ではないとわかっていても、男として悲しくなる。
あるいは、女性の力でさえ抱き上げられるほどに自分が軽くなっているのか。それもそれで辛いと、意識を逸らすのもそこまでが限界。
エルドの背中は騎士に遮られ、自身もまた左右を守るようにして付き添われる。
本来なら『候補者』とは、ここまでして守らなければならないのだろう。
たとえディアン自身がその立場を理解していなくとも、彼女たちにとって……否、聖国にとって、それほど重要な存在。
待ち望んでいた答えはもうすぐそこにあるのに心は浮かばず。縮まらない距離を見ないようにと、落とした目は橙色の光をずっと見つめていた。
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