188.旅の終わり
今までディアンが眠っていたのが教会の一室だと知ったのは、長い廊下を抜け、大聖堂に出た後のことだ。
ノースディア王都に匹敵するほどの広さ。中央奥に設置された精霊王の像。降り注ぐステンドグラスの光は明るく、今が日中だと知ったのもこの時。
倒れてから大して時間が経っていないのか。……あるいは、また数日眠り続けていたのか。
その答えもすぐに与えられることは、誰よりもディアン自身が理解していた。
講壇よりも手前。長椅子よりも奥。少しだけひらけた空間、見慣れぬ枠はそこにあった。
見た目は石で作られたアーチのようにも見える。ここが野外で、それも森の奥なんかであれば気にも留めなかっただろう。
だが、石が放つ多色の光と、刻まれた印がそうではないと裏付ける。これが、解放される前の門の姿なのだ。
「……これが、精霊門」
「まだ魔力を流していないから、ただの設置物だな」
聞こえぬように呟いたつもりだが、ディアンを抱き上げているエルドには届いたらしい。
シーツに包まれたまま横抱きにされるのに、抵抗がなかったと言えば嘘にはなる。
だが、意識は戻っても歩ける体力はなく、そうなればエルドに抱えてもらうしかない。
実際その胸に頭を預けていなければ自分で支えることだって厳しいのだ。本来ならもう少し休むべき状態。
……それでも、これ以上引き止めることはもう、できない。
自分たちの後ろに続くのは、グラナートと控えていたトゥメラ隊だ。自分たちを守るように囲む姿を見ても、大袈裟と言えないだけの事は起きてしまった。
もう危険がないとは言いきれない。ディアンが理解しているのなら、エルドも同じだ。
最後までディアンの意思を尊重してくれた彼に感謝こそあれ、不満などあるはずがない。
視界の端に動く気配を捉え、見下ろした先に白と青が映る。見上げる瞳から伝わるのは、ディアンに対する問いかけだ。
本当にそれでいいのかと。このままで、後悔しないのかと。
決意を揺らがせるソレに目を逸らし、手元を見つめる。
……我が儘なら、もう十分叶えてもらった。あの時に終わるはずだった旅を、ここまで続けさせてくれた。
そこで満足しておけば、こんなことにはならなかった。そこで終わらせておけば、エルドをここまで苦しめることだってなかったのに。
だけど、今日までエルドと過ごせたことを後悔していない。するはずがない。
たった一ヶ月。この先の一生を思えばあまりにも短く、刹那のような時間だった。
それでも、ディアンは忘れない。彼と共にいた日々を。彼から与えられた全てを。己の胸に残るこの感情を。絶対に。
だから、もう我が儘なんて言えない。納得しなければならない。
大丈夫だと。エルドを安心させなければ、いけない。
「ディアン」
呼ばれ、肩が跳ねる。その迷いを、押し殺そうとするその感情を見透かされたのかと危惧し、しかし見下ろす薄紫に怒りは含まれず。
「門を通る間……いや、光が収まるまでは目を閉じていろ。それから、吐き気を感じたら我慢せずに出していい」
「それは……」
「自分が出したもんで窒息なんかしたくないだろ」
いいから、と。少し強めに言い聞かせられれば素直に頷く他ない。吐き気自体を感じないのが一番だが、それだけの負荷がかかるのは避けられないこと。
そうしている間も準備は整っていく。あとは、覚悟を決めるだけ。
「整いました」
「……ああ」
最後の調整を終えたのだろう。トゥメラ隊が離れるかわりに、ディアンごとエルドが近づく。
本来なら人が通ってはならない禁忌。たとえ許可が下りているとはいえ、身が竦むのは本能的な恐怖か。
「……大丈夫だ、一瞬で終わる」
無意識にしがみ付いていた指をほどくことなく、囁かれた言葉にもう一度だけエルドを見上げる。
まるで介錯のような口ぶりだ。否、それもある意味間違っていないだろう。
この門をくぐれば最後。もう後戻りはできない。もう……『エルド』とは、呼べない。
何度も何度も繰り返す。仕方のないことだと。納得しているのだと。込み上げる感情を潰すように胸元を握り、目元をエルドの肩へ押しつける。
この温かさを。この感覚を忘れないように。この一瞬でさえも、色あせることのないように。
「開けるぞ」
頷いたか、なにもしなかったか。周囲の反応はわからぬまま、しかし誰からも止められなかったことだけは間違いない。
閉じた視界に光が満ちていく。肌を刺すような強烈な光量。心臓は激しく打ち付け、息苦しさに眉を寄せる。
負荷魔法と同じようで、だけど違う。痛みこそなく、されど耐えがたい苦しみ。
今すぐそこから逃げ出したいような、叫び出したくなるような。そんな訳のわからない感覚の中、静かでいられたのはエルドの魔力を感じていたからだ。
身を縮ませ、しがみ付き。永遠に思える一瞬を必死で耐えて……そうして、甲高い耳鳴りが、いつの間にか止む。
「……大丈夫か」
気遣う声に返事ができない。まだ光は眩しく、抱えられているはずなのに前後も上下もわからない。
浮いているような、沈んでいるような。吐き気こそなくとも、頭の中が飽和してろくに考えられない。
「っ……ま、だ……?」
いつまでこんな感覚が続くのか。いつになれば着くのか。そんな問いは、苦笑するような音と共に払拭される。
「もう着いてる」
その言葉に、恐る恐る目蓋を開く。
ぐるりと回る世界の中、眩しいと思ったのはそれが光ではなく。視界を埋め尽くすほとんどが白だったからだ。
壁と床だけの部屋。あるのはおそらく扉と門だけ。だが、門は背後にあるので見えないのは当然。そして、見えるはずの扉は蒼い影に遮られて視界には入らない。
背後から聞こえる足音に、グラナートたちも門を通ったことを知る。その姿を確かめられないのは、騎士が開けてくれた扉の先に足を踏み入れたからだ。
先ほどの聖堂など比にならぬほどの空間。城の中に混ざる青は、調度品だけではなく、そこに待ち構えていた彼女たちの衣装も含めて。
列を成し、自分たちを迎えた一向の中。先頭に立つ女性の姿に見覚えを抱き、それでも緊張は緩まない。
片側に寄せて編まれた淡い金の髪。跪き伏せた瞳の色は鮮やかな緑であることを、ディアンはすでに知っている。
女王陛下直属部隊、トゥメラ隊の隊長。そして、強欲の精霊アプリストスの娘。
……エヴァドマの地で、ディアンを迎えに来ていた者。
「お待ちしておりました。『中立者』様。……いえ、」
短い否定に強張り、抱く腕が僅かに強まったのは、ディアンではなく。
「――ヴァール様。ならびに、その『候補者』様」
今度こそはっきりと。指が揺れ、息の詰まる音が聞こえた。
呼ばれたのはエルドではない。……だが、その名はただ一人を指している。
掘り起こした記憶の中、その名に覚えはない。当然だ。今この瞬間でなければ知ることはなかっただろう。
この世界、どこを探したってその名は残されていないはずだ。
ただひとつ、この地を除けば。このオルレーヌを治める、女王陛下の棲まうこの地でなければ。
エルド、と。呼ぶはずだった声は紡げない。もう呼べない。もう知ってしまった。否定されてしまった。
……もう、ここにいるのは『エルド』ではないのだと。
「女王陛下がお待ちです。……『候補者』様はこちらへ」
「えっ……あ、ま、待って、ください」
さぁ、と。手を広げられ、腕が膝の裏に差し込まれる。
エルドと共に向かうと思っていたこと。いくら隊長とはいえ女性に横抱きにされること。どちらにも困惑し、思わず制止の声が漏れる。
「あ、歩けます、から、あのっ……!」
「ディアン」
大丈夫だからと、続けたかった言葉が止まる。
やや強めに名を呼ばれ、それがわざとであると気付いても、なにが変わっただろうか。
「……無理をするな」
見上げた先の薄紫は苦笑したまま。心配なのだと、隠しもしない顔で言われて……どうして、拒めるだろう。
エルドの腕が引き抜かれ、違う力強さに支えられる。そうして離れていく手を掴んだのは落とされる恐怖からではなく。されど、説明できるものでもない。
離さなければとわかっているのに。どうしようもないと、理解しているはずなのに。
そうだと、自分で。自分で決めた、のに、
「ぁ……っ……」
「大丈夫」
手は、振り払われない。伸ばされた手は、ディアンの頬に。そうして触れた手の温度は、あまりにも温かく、優しく。だからこそ、辛く。
「また後でな」
それが子どもに言い聞かせるものと同じだと分かっていた。後なんて、本当にあるなんて信じられなかった。
だけど、エルドは嘘を吐かない。誤魔化すことはあっても、決して、嘘だけは。
だから会える。……だから、まだ、会えるはずで。
「……は、い」
「いい子だ」
最後に頭を撫でられて、互いの指が離れていく。
振り返ることなく遠ざかる背。見つめていたかった姿は、動き出した足によって阻まれ、見えなくなってしまう。
いや、見えなくてよかった。そうでなければ、滲んだ視界でなにも見えなくなってしまっただろう。
目を閉じ、熱をやり過ごす。泣いてはいけない。泣くべき時では、ない。
旅は終わった。それでも、まだ全ては終わっていない。まだ約束は果たされていないのだ。
向き合わなければならない。現実に。こうなってしまった原因に。
その時までは会える。そう約束したから。だから……泣いては、いけない。
シーツを深く被り直し、目を閉じる。響く足音も、それに続く鎧の擦れる音も変わらず。
……そんなディアンを見つめる緑の瞳がどうであったか、ディアンは知ることのないまま。
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