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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第七章 聖国

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182.『中立者』と司祭

 風貌だけなら、それほただの町民に見えただろう。教会の印である蒼も、武器と呼べるものもなく。

 唯一変わっているのはその瞳の色程度。見た目だけなら、本当になにも疑うところはないはず。


「……失礼ながら、どちらの所属で」


 この教会に勤めている司祭も気付くなり男に近づく。関係者には間違いない。その上で、何用でここに来たのか。

 問いかけている間、グラナートは静かに見守る。否、正しくは何もできなかったのだ。身体が強張り、意識しなければ呼吸すら忘れてしまいそう。

 それはほぼ直感で、どうしてそう思えたかグラナート自身にもわからない。

 それでも確信している。目の前にいる男が、それが人ではないと。

 人の姿をした別のモノ。

 この存在こそが――『中立者』なのだと。

 ソレが懐を探り、身分証がかざされる。この距離では刻まれた文字を読めずとも、確認した司祭の反応だけで十分。

 女王陛下の名が刻まれた身分証は『中立者』に渡されたたった一つ。それも、創世記に使っていた頃の古代語となれば、渡された者が読めずとも疑う余地はない。

 ……だが、それならなぜ、隣にディアンがいないのか。

 門をくぐる前、ラミーニアで聞いた話では共に船に乗ったはずだ。あろうことか巡礼者に偽装したうえで、海の精霊の怒りを買うと知りながら。

 一抹の不安はグラナートだけではなく、複数から凝視された存在は眉ひとつ動かさぬままメダルをしまい、代わりに差し出したのは封書。


「先に女王陛下にこれを。すぐ戻るが、その間に門の手配を頼む」

「『候補者』様は」

「……船酔いと魔術負荷によって体調を崩している。今は従者と共にいるが、回復次第連れてくる」


 話は終わったと言わんばかりに背を向けられれば、引き止める理由はない。

 常に開放されている門であればともかく、臨時で開けるとなれば相応の準備が必要だ。

 先ほどグラナートが通ったが、既に一度閉ざしているので新しく展開する必要がある。かかって数時間。早くても、一時間。

『候補者』が回復する頃には準備もできているだろう。少しでも早く手続きを済ませるために単独で来たのか、あるいは書簡を優先して届けに来たのか。それをディアンには見られたくなかったのか。

 理由はどうであれ、今目の前で去ろうとしている男は一人。『候補者』の姿もなく、当たり前ながら陛下もいない。

 同じ司祭は存在しても、それはグラナートの怒りを抑える要因にはならなかった。

 そう、怒りだ。その内に渦巻く感情は、紛れもない憤怒。

 この一ヶ月間煮詰められ、されど開放される望みもなかった淀み。伝える相手も、零す相手もいなかったその矛先が、まさしく今目の前にいる。

 全ての元凶に。グラナートの生活を狂わせた、そもそもの原因に。


「――なぜ、今さら彼を求めたのですか」


 感情に比例せず、その声は静かに響いた。動揺は視界の外、見えぬ司祭と控えていたシスターから。

 いくら英雄と呼ばれ、この世界を窮地から救ったその一人でも、グラナートはただの人間だ。こんな不躾な問いが『中立者』相手に許されるはずもない。

 それでも背中を睨み付ける瞳は轟々と、賜っている加護と同じく炎のように。視線だけでそうできるのなら、今にもその姿を燃やさんばかりに赤く、熱く。

 鋭い視線に『中立者』の歩みが止まる。その表情に不快も愉快もなく、どこまでも変わらぬ無表情。


「……ああ、なるほど」


 だが、振り返った男が一つ瞬き。そうして呟かれた声は、納得したものだった。


「見覚えがあると思ったが……お前がグラナートか」


 名前を呼ばれたことは名誉のはずなのに、今はそれすら苛立たしい。

 当時を思い出したのではない。ましてや、この男が自分のような存在を覚えているわけがない。

 ディアンから聞いたか、あるいは『候補者』に関係のある人間として記憶に残っていたか。

 どちらであれ、グラナートの名を呼んだなら、この内に抱いている怒りについても心当たりはあるだろう。

 他でもないこの男が、目の前にいる存在こそが、グラナートの全てを狂わせてしまったのだから。


「……加護を与えるつもりだったなら、最初からそうすればよかったのです」


 怒鳴りつけたい衝動を、拳を握ることで逃がす。辛うじて押さえ込んでも声は震え、視線は更に鋭く、強く。


「グラナート司祭……!」

「二度目の洗礼を待たずとも機会はあったはず。今になって関与するぐらいならば、あのままトゥメラ隊に任せるべきでした」


 制止の声など聞こえないと、声が張り上げられる。否、実際に聞こえていないのだ。

 認識できるのは目の前の男だけ。その男への、積年の思いだけ。

 最初から無関心であれば。あるいは、それこそ最初からこうなっていれば、『候補者』……ディアンは、あんなにも苦しむことはなかった。

 苦しんだとて、あるべき形に収まるはずだった。自分たち英雄に巻き込まれた被害者として、人のまま正しく。

 万が一を考え、教育したのはグラナートだ。されど、それは陛下からの任務であったから。

 あの知識が、普通に暮らしていくだけならば過剰な精霊学が、日の目を見ないことを願っていたのは他でもないグラナート自身。

 今まで狂わせてしまった人生を取り返させることはできない。この先、どれだけ補っても償えはしないだろう。

 それでも、人なら。人のままであるなら、ディアン自身で生き方を選ぶことができる。ようやく彼を自由にできる。

『精霊の花嫁』の兄として理不尽にも強いられてきた全てからやっと、彼自身の人生を歩ませることができる。

 そうなるはずだった。一ヶ月前、ディアンがグラナートの元に逃げてきたあの夜に。あの日に保護さえできていれば。この男が関与しなければ。

 ディアンの全てを狂わせた当人が、今さらこうして顔を出さなければ。全てが終わっていたはずなのに!


「なぜ今さら、あの子の前に現れたのですか」


 聞いたところで、胸の内が晴れることはないだろう。ましてや、なんの解決にもならない。

 それでも理由を見いだしたいのは、怒りを正当化させたいのか。それとも、己への慰めなのか。

 睨まれた男に変化はない。無礼な物言いにも、その態度にも怒りを抱いた様子はなく。指摘され後悔する様子も見えず。


「……答える必要はない」


 なにも変わらず無表情のまま。薄紫の瞳は赤を見つめ、一言呟くのみ。

 炎が揺らぎ、轟々と燃える。関係がないなど、どの口が言うのか。

 ここまで全てを狂わせておいて。全てはお前のせいでディアンが苦しんでいるというのに!


「どこまでっ……あの子の人生を狂わせれば気が済むんだ!」


 僅かに働いた理性で押し止めたのは詰め寄り、殴りかかろうとする衝動だけ。されど、その叫びは痛いほどに響き、こだまする。

 相手の呼吸音すら聞こえてきそうな静寂が戻り、それでもなにも聞こえず。耳鳴りに似た高音に支配されたグラナートに澄ませる音もなく。

 なぜこの存在がディアンを娶らず、そうして今になって加護を与えたかなど理解できない。できるはずもない。

 それでも、その選択のせいでディアンが苦しんだのだ。

 最初から加護を与えていれば。あるいは、拒絶を貫いていれば。今までと同じように他の精霊へ譲渡していれば。ディアンは、普通の子どもと同じく幸せになったはずだ。

 英雄の息子として正当に評価され、虐げられることもなく。強いられた環境に葛藤し、矛盾に嘆くことなく、幸せになれたはずだ。

 ようやく。ようやく、ディアンは幸せになれる。自由になれる。この男から解放されれば。やっと……!


「――なにをもってして狂うと称する」


 怒りで滲む視界に光が差し込む。それは窓でも扉からでもなく、されど間違いなく。その場にいるすべての者の網膜を焦がす光はそこに。

 風が鳴る。否、それは己の喉から出たものだ。呼吸になり損なった成れの果て。

 まるで全身を圧されているように重苦しく、それなのに呻き声ひとつ出せない。

 カチリと鳴る奥歯の不快感も、滲む汗の感覚も、グラナートは覚えている。

 十数年前、人が存在してはならぬ境界。精霊界で、かの王に見舞えた時と同じ。

 無意識に足が下がり、強張った指先から温度が消える。逃走本能に従えないのは、その光に貫かれていたからだ。人ではない光に。その、強い瞳に。


「この度のこと、確かに私が原因であろう。言い訳をするつもりもない。全てが終われば罪を償うつもりだ」


 けたたましい鼓動の中、淡々とした声は、なににも遮られることなく鼓膜へ響く。否、それは脳に直接告げられているのか。

 顔を直視できず、されど光に目を逸らすことはできず。矛盾した行動に、戸惑うことさえもままならず。


「だが、我が愛し子は確かに誓いを立てた。悔いのない生を全うすると。なにかに強いられるのではなく、己が意志で選択するのだと」


 確かにその耳で聞いたのだと。その姿を見たのだと。だからこそ加護を与えたのだと、男は言う。見つめ返す。語り続ける。


「これまでの生を歪めたのは確かに私だ。されど、この先がどうであるかを定めるはお前ではない。そして、私でもない。誰であろうと、我が愛し子にその生き様を強要することは許されない」


 光がおさまる。世界に色が戻り、息をしたのはグラナートだけでなく。微かに聞こえた息は、『中立者』からのもので。

 歪むのはグラナートの視界ではなく、逸らすことのできなかった瞳だ。変わることのなかった表情だ。

 まるで悔やむように、悲しむように。人ではないと理解しているのに、まるで人間じみている。


「……あいつは、」


 続く言葉がなにか、集中させていたはずの意識が逸れる。男の後ろ、荒々しく開かれた扉によって。


「司祭様っ!」


 そこにいたのは一人の男。服装からしてこの町の住民だろう。

 ひどく焦った様子に、只事ではないと静観していた司祭が歩み寄る。


「どうなさいましたか、そんなに慌てて……」

「い、いいから、すぐに来てください!」


 全力で走ってきたのだろう。息は切れ、今にも倒れそうなほど。

 それでも休むわけにはいかぬと、指差した方向に見える景色は変わりなく。されど、込み上げる胸騒ぎはその向こうに。


「――巡礼者が、他国の兵士に襲われています!」

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