182.『中立者』と司祭
風貌だけなら、それほただの町民に見えただろう。教会の印である蒼も、武器と呼べるものもなく。
唯一変わっているのはその瞳の色程度。見た目だけなら、本当になにも疑うところはないはず。
「……失礼ながら、どちらの所属で」
この教会に勤めている司祭も気付くなり男に近づく。関係者には間違いない。その上で、何用でここに来たのか。
問いかけている間、グラナートは静かに見守る。否、正しくは何もできなかったのだ。身体が強張り、意識しなければ呼吸すら忘れてしまいそう。
それはほぼ直感で、どうしてそう思えたかグラナート自身にもわからない。
それでも確信している。目の前にいる男が、それが人ではないと。
人の姿をした別のモノ。
この存在こそが――『中立者』なのだと。
ソレが懐を探り、身分証がかざされる。この距離では刻まれた文字を読めずとも、確認した司祭の反応だけで十分。
女王陛下の名が刻まれた身分証は『中立者』に渡されたたった一つ。それも、創世記に使っていた頃の古代語となれば、渡された者が読めずとも疑う余地はない。
……だが、それならなぜ、隣にディアンがいないのか。
門をくぐる前、ラミーニアで聞いた話では共に船に乗ったはずだ。あろうことか巡礼者に偽装したうえで、海の精霊の怒りを買うと知りながら。
一抹の不安はグラナートだけではなく、複数から凝視された存在は眉ひとつ動かさぬままメダルをしまい、代わりに差し出したのは封書。
「先に女王陛下にこれを。すぐ戻るが、その間に門の手配を頼む」
「『候補者』様は」
「……船酔いと魔術負荷によって体調を崩している。今は従者と共にいるが、回復次第連れてくる」
話は終わったと言わんばかりに背を向けられれば、引き止める理由はない。
常に開放されている門であればともかく、臨時で開けるとなれば相応の準備が必要だ。
先ほどグラナートが通ったが、既に一度閉ざしているので新しく展開する必要がある。かかって数時間。早くても、一時間。
『候補者』が回復する頃には準備もできているだろう。少しでも早く手続きを済ませるために単独で来たのか、あるいは書簡を優先して届けに来たのか。それをディアンには見られたくなかったのか。
理由はどうであれ、今目の前で去ろうとしている男は一人。『候補者』の姿もなく、当たり前ながら陛下もいない。
同じ司祭は存在しても、それはグラナートの怒りを抑える要因にはならなかった。
そう、怒りだ。その内に渦巻く感情は、紛れもない憤怒。
この一ヶ月間煮詰められ、されど開放される望みもなかった淀み。伝える相手も、零す相手もいなかったその矛先が、まさしく今目の前にいる。
全ての元凶に。グラナートの生活を狂わせた、そもそもの原因に。
「――なぜ、今さら彼を求めたのですか」
感情に比例せず、その声は静かに響いた。動揺は視界の外、見えぬ司祭と控えていたシスターから。
いくら英雄と呼ばれ、この世界を窮地から救ったその一人でも、グラナートはただの人間だ。こんな不躾な問いが『中立者』相手に許されるはずもない。
それでも背中を睨み付ける瞳は轟々と、賜っている加護と同じく炎のように。視線だけでそうできるのなら、今にもその姿を燃やさんばかりに赤く、熱く。
鋭い視線に『中立者』の歩みが止まる。その表情に不快も愉快もなく、どこまでも変わらぬ無表情。
「……ああ、なるほど」
だが、振り返った男が一つ瞬き。そうして呟かれた声は、納得したものだった。
「見覚えがあると思ったが……お前がグラナートか」
名前を呼ばれたことは名誉のはずなのに、今はそれすら苛立たしい。
当時を思い出したのではない。ましてや、この男が自分のような存在を覚えているわけがない。
ディアンから聞いたか、あるいは『候補者』に関係のある人間として記憶に残っていたか。
どちらであれ、グラナートの名を呼んだなら、この内に抱いている怒りについても心当たりはあるだろう。
他でもないこの男が、目の前にいる存在こそが、グラナートの全てを狂わせてしまったのだから。
「……加護を与えるつもりだったなら、最初からそうすればよかったのです」
怒鳴りつけたい衝動を、拳を握ることで逃がす。辛うじて押さえ込んでも声は震え、視線は更に鋭く、強く。
「グラナート司祭……!」
「二度目の洗礼を待たずとも機会はあったはず。今になって関与するぐらいならば、あのままトゥメラ隊に任せるべきでした」
制止の声など聞こえないと、声が張り上げられる。否、実際に聞こえていないのだ。
認識できるのは目の前の男だけ。その男への、積年の思いだけ。
最初から無関心であれば。あるいは、それこそ最初からこうなっていれば、『候補者』……ディアンは、あんなにも苦しむことはなかった。
苦しんだとて、あるべき形に収まるはずだった。自分たち英雄に巻き込まれた被害者として、人のまま正しく。
万が一を考え、教育したのはグラナートだ。されど、それは陛下からの任務であったから。
あの知識が、普通に暮らしていくだけならば過剰な精霊学が、日の目を見ないことを願っていたのは他でもないグラナート自身。
今まで狂わせてしまった人生を取り返させることはできない。この先、どれだけ補っても償えはしないだろう。
それでも、人なら。人のままであるなら、ディアン自身で生き方を選ぶことができる。ようやく彼を自由にできる。
『精霊の花嫁』の兄として理不尽にも強いられてきた全てからやっと、彼自身の人生を歩ませることができる。
そうなるはずだった。一ヶ月前、ディアンがグラナートの元に逃げてきたあの夜に。あの日に保護さえできていれば。この男が関与しなければ。
ディアンの全てを狂わせた当人が、今さらこうして顔を出さなければ。全てが終わっていたはずなのに!
「なぜ今さら、あの子の前に現れたのですか」
聞いたところで、胸の内が晴れることはないだろう。ましてや、なんの解決にもならない。
それでも理由を見いだしたいのは、怒りを正当化させたいのか。それとも、己への慰めなのか。
睨まれた男に変化はない。無礼な物言いにも、その態度にも怒りを抱いた様子はなく。指摘され後悔する様子も見えず。
「……答える必要はない」
なにも変わらず無表情のまま。薄紫の瞳は赤を見つめ、一言呟くのみ。
炎が揺らぎ、轟々と燃える。関係がないなど、どの口が言うのか。
ここまで全てを狂わせておいて。全てはお前のせいでディアンが苦しんでいるというのに!
「どこまでっ……あの子の人生を狂わせれば気が済むんだ!」
僅かに働いた理性で押し止めたのは詰め寄り、殴りかかろうとする衝動だけ。されど、その叫びは痛いほどに響き、こだまする。
相手の呼吸音すら聞こえてきそうな静寂が戻り、それでもなにも聞こえず。耳鳴りに似た高音に支配されたグラナートに澄ませる音もなく。
なぜこの存在がディアンを娶らず、そうして今になって加護を与えたかなど理解できない。できるはずもない。
それでも、その選択のせいでディアンが苦しんだのだ。
最初から加護を与えていれば。あるいは、拒絶を貫いていれば。今までと同じように他の精霊へ譲渡していれば。ディアンは、普通の子どもと同じく幸せになったはずだ。
英雄の息子として正当に評価され、虐げられることもなく。強いられた環境に葛藤し、矛盾に嘆くことなく、幸せになれたはずだ。
ようやく。ようやく、ディアンは幸せになれる。自由になれる。この男から解放されれば。やっと……!
「――なにをもってして狂うと称する」
怒りで滲む視界に光が差し込む。それは窓でも扉からでもなく、されど間違いなく。その場にいるすべての者の網膜を焦がす光はそこに。
風が鳴る。否、それは己の喉から出たものだ。呼吸になり損なった成れの果て。
まるで全身を圧されているように重苦しく、それなのに呻き声ひとつ出せない。
カチリと鳴る奥歯の不快感も、滲む汗の感覚も、グラナートは覚えている。
十数年前、人が存在してはならぬ境界。精霊界で、かの王に見舞えた時と同じ。
無意識に足が下がり、強張った指先から温度が消える。逃走本能に従えないのは、その光に貫かれていたからだ。人ではない光に。その、強い瞳に。
「この度のこと、確かに私が原因であろう。言い訳をするつもりもない。全てが終われば罪を償うつもりだ」
けたたましい鼓動の中、淡々とした声は、なににも遮られることなく鼓膜へ響く。否、それは脳に直接告げられているのか。
顔を直視できず、されど光に目を逸らすことはできず。矛盾した行動に、戸惑うことさえもままならず。
「だが、我が愛し子は確かに誓いを立てた。悔いのない生を全うすると。なにかに強いられるのではなく、己が意志で選択するのだと」
確かにその耳で聞いたのだと。その姿を見たのだと。だからこそ加護を与えたのだと、男は言う。見つめ返す。語り続ける。
「これまでの生を歪めたのは確かに私だ。されど、この先がどうであるかを定めるはお前ではない。そして、私でもない。誰であろうと、我が愛し子にその生き様を強要することは許されない」
光がおさまる。世界に色が戻り、息をしたのはグラナートだけでなく。微かに聞こえた息は、『中立者』からのもので。
歪むのはグラナートの視界ではなく、逸らすことのできなかった瞳だ。変わることのなかった表情だ。
まるで悔やむように、悲しむように。人ではないと理解しているのに、まるで人間じみている。
「……あいつは、」
続く言葉がなにか、集中させていたはずの意識が逸れる。男の後ろ、荒々しく開かれた扉によって。
「司祭様っ!」
そこにいたのは一人の男。服装からしてこの町の住民だろう。
ひどく焦った様子に、只事ではないと静観していた司祭が歩み寄る。
「どうなさいましたか、そんなに慌てて……」
「い、いいから、すぐに来てください!」
全力で走ってきたのだろう。息は切れ、今にも倒れそうなほど。
それでも休むわけにはいかぬと、指差した方向に見える景色は変わりなく。されど、込み上げる胸騒ぎはその向こうに。
「――巡礼者が、他国の兵士に襲われています!」
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