180.油断の対償
「……さて、と」
立ち上がったエルドを見上げれば、僅かに息を吐く姿を捉える。その動作一つで、次に出る言葉を理解してしまう。
「朝飯がまだだったな。適当になんか買ってくるから、お前はもう少し休んでろ」
そう告げて離れようとする彼の服を、咄嗟に掴んでしまう。
分かりやすい嘘だ。食事なら、それこそすぐそこに店がある。視線だって周囲ではなく、街の中央部に向かってだ。
そこに、この街の教会があるのだろう。着いた事を報告しに行くのだ。
『中立者』が帰還したことを。『候補者』を連れてきたことを。……そして、この旅が終わることを。
引き延ばしたって変わらない。いつかは、その瞬間が来てしまう。
それなのに手を離せず、顔を見ることもできず。だけど、俯くこともできなくて。
「大丈夫」
頭を、ベール越しに撫でられる。柔らかく髪が押さえられ、温度は届かず。だけど優しくて、温かい。
「すぐに戻ってくる。……だから、ちょっとだけ待ってろ」
言葉が染みこんでいく。大丈夫。……大丈夫。
エルドは、誤魔化すことがあっても約束を違えたことはない。嘘は言わない。
だから大丈夫。また……すぐに会える。
彼と。『中立者』ではなく、エルドと。
「……はい」
「ん、いい子だ」
頭を撫でてから離れる腕を引き止めることはなく。視線はディアンからその足元へ移る。
「ゼニス」
見つめられた獣に返答は無く、その表情もディアンからは見えない。だが、抗議の声が聞こえないと言うことは……彼も、それを許したのだろう。
最後に薄紫はもう一度ディアンを見て、それから背中が遠ざかる。見慣れた後ろ姿は、あっという間に人混みの中に紛れて、もう見えなくなってしまった。
残ったのは、置いて行かれたディアンと、その彼を守るように言いつかった従者だけ。
深い息はゼニスにも聞こえただろう。その呼吸が震えているのも、必死に落ち着こうとしているのも。だが、もう隠したいと思った相手はいない。
「……来ちゃったんだね」
呟くつもりはなくとも、声は落ちる。
来てしまった。……とうとう、ここに。聖国へ、来てしまった。
繰り返してもまだ実感がない。三日も船の中にいたのに。少し周囲を見たってラミーニアとは違うと分かるのに。
屋根はオレンジで統一されていないし、教会は街の中央にある。遠くに山だって見えるし、心なしか肌寒い。
活気づいているがどこか穏やか。矛盾するはずの雰囲気が調和しているように感じるのも聖国だからだろうか。
港を出れば違いはもっと明らかになるだろう。王国よりも精霊信仰は深く、伝わっている歴史だって。
だが、それを体感するのは……全てが終わった後だと、ディアンは知っている。
あの山まで歩いて向かうのは苦ではない。ただ、それをもう許されないだけだ。
きっと門で向かうのだろう。教会に着いて、準備が整えばすぐにでも。
そうして女王陛下に謁見し、全てが明かされる。
今まで疑問に思ってきたことが。知りたかった答えが。『候補者』の意味も、『花嫁』についても。全て。
ずっとずっと知りたかったこと。でも、それは……エルドと離れることを、示している。
「わがままって、難しいね」
気遣うような素振りは足の裏側から。前に回り込み、膝に乗せられた頭を撫でる。
なにも分からなくていいから、そばにいたい。……なんて、言い過ぎだろうか。
でも、どちらかを諦めなければならないなら。それが許されるのなら……実際に、自分はどちらを選ぶのか。
知りたくないわけではない。否、むしろディアンは知らなければならない。
もはやこれは自分だけの問題ではなく、己の気持ちだけでどうにかできる範囲を超えてしまっている。
もう、そうと決まっている。全てが明らかになり、エルドとは離れる。今さら一緒にいたいなんて訴えたところで意味はないのだろう。
困らせるだけだ。エルドにだって、どうにもできない。
……だけど、そうだと伝えるだけなら。そうだと思っていたことだけなら、伝えてもいいのだろうか。
叶わずとも、叶えられずとも。そうだという気持ちだけなら、彼に。
……あなたを愛していたのだと、その思いを伝えるだけなら。
なにも伝えられずに別れるぐらいならば、いっそ。
「巡礼の人だね?」
声をかけられるまで人が来ていたことに気付かず、慌てて見上げた先にいたのは恰幅のいい女性だった。
身に付けているエプロンから察するに、この店の者だろう。
注文する気もないのに席を取っていてはいけないと、慌てて立ち上がろうとすれば肩に手を置かれて留まる。
「いいんだよ休んでいて! あんた、船に酔ったんだろ?」
「あ……え、と……」
問われ、答えに詰まり、ついゼニスを見下ろす。それは人見知りをする仕草にも見えただろう。実際は喋っていいのかという戸惑いからくる行動だ。
習わしでは姿も見せてはいけないし、喋ってもいけないはず。今はあまり周知されていないから規則を知らない人の方が多いが、でも彼女は巡礼者と呼んだし……。
「よく海を渡ってきたね、荒れに荒れただろう? ほらこれ、船酔いに効くから飲んでちょうだい」
目の前に置かれたカップに揺蕩うのは薄茶色の液体。昇る湯気の香りは少し嗅ぎ慣れず、だがハーブティーの類であるのは間違いない。
砂糖とミルクも一緒に置かれ、咄嗟に取り出そうとした荷物に所持金はいくつあっただろうか。
「あの、お代を……」
「金なんかいらないさ! 巡礼者へのサービスだよ。ようこそ聖国へ! それとも、おかえりなさいかしら?」
「……ノースディアから、来ました。ありがとうございます」
いいからどうぞと、屈託の無い笑顔を向けられれば断ることはできず。言葉に甘えて一口飲み込めば、思っていた以上に身体が冷えていたことを実感する。
ハーブ特有の匂いと、染みこむ温もり。温かさを得たおかげか、心なしか症状も緩和されたように思うのはさすがに早すぎるだろうか。
「アンタの旦那は? そのワンちゃんも一緒にかい?」
「んっ…………す、少し、離れてます」
思わず動揺してしまったが、確かにゼニスは一見すれば犬だし、そう呼ばれても不思議ではない。
実際は精獣であるなんて知っているのはディアンだけで、だからワンちゃんと呼ばれたっておかしくはないのだが……お茶を噴き出さなかったことは少し褒められてもいいと思う。
呼ばれた当人は慣れたものらしく、随分と澄ました顔だ。あるいは達観していると言おうか。
それこそ、言われた回数は数え切れないほどあるはずだ。反応する気もないと言ったところだろう。
「全く、こんなべっぴんさんを置いてどっかいっちまうなんて……戻ってくるまで気にせずゆっくりしていいからね」
「あ……りがとう、ございます」
「さて、そっちのワンちゃんにはハムでもあげようかね」
ちょっと待ってな、と店内に戻っていく姿を見届け。それから、再び足元へ。
その顔は変わりないように見えるが……僅かに耳が萎れているのは見間違いではないだろう。
「ハムだって。よ……んんっ、よかったね」
「……がう」
笑ってはいけないとわかっていても零せば不満げな泣き声が一つ。それでは足りぬと鼻先で突かれては余計に止められない。
とうとう伏せてしまったので、少し屈んで頭を撫でる。
向けられるのは耳だけで、目は一切こちらに向けられず。仕方なく紅茶をもう一口飲めば、先ほどよりも落ち着いていく気がするのは、やはりディアンの気のせいなのだろうか。
もし、ここにエルドが残っていたなら。もう少しだけここにいたなら、彼はどう答えていただろうか。
……似合いの夫婦だと、言われただろうか。
そんな虚しい想像を振り払うよう、エルドが消えていった方向を眺める。すぐに戻るとは言われたが、さすがに早すぎるだろう。
それに、戻ってきたところで……きっと、彼だけではなく。
「あの、すみません」
また思考に耽ってしまったようだ。声をかけられるまで気付かなかったのもこれで二度目。
今度は店員ではなく、どうやら町民らしい。若い夫婦と、その母親の腕に抱かれた赤子。視線は話しかけてきた夫の方へと向けられる。
「巡礼の方、ですよね」
「あ……そう、です。一応……」
正確に言えば巡礼者を装っているだが、そこまで説明する必要はないだろう。
着替えるのを怠けたわけではなく、巡礼者の存在が周知されていないと聞いていたのでそのままにしていたが……立て続けに話しかけられるとなると、聖国ではまだ息づいている文化かもしれない。
愛し子が統治する国だ、十分にあり得る。
「よければ、この子に『お裾分け』をしてもらえないでしょうか」
「えっ……?」
先ほどのように世間話が始まるのかと思っていたのに、差しだされたのは抱いていた赤子。お裾分けの言葉に過剰に反応してしまい、声も出てしまう。
お裾分けといっても、それは魔力干渉の一種だとエルドは言っていた。
負荷魔法ではないし、禁止されているわけではないが、こんな小さな子にかけて影響がないとは思えない。
そもそも、『お裾分け』をして自分自身も大丈夫なのか疑問がある。かけられて不調になるのだ、その逆がそうでないとは言いきれない。
「え、っと……私はただの一般人で……」
「ここでは巡礼者に『お裾分け』をしてもらうのが慣例になってるのさ。精霊様のご加護があなたにもありますようにって」
おまちどお、と。ゼニスのためのハムを持ってきた店員に補足を入れられ、納得はしても困惑は消えない。
ゼニスが見上げてくるのも、本当に差しだされた食料への反応ではなく、ディアンがどうするか見守っているのだろう。
ディアンは巡礼者ではなく、偽装しているだけ。『お裾分け』もどうすればいいか分からない。
……だが、祝福を授かりたいと願う気持ちだけは理解できる。
「すみません。『お裾分け』をしたことがないので……触れるだけでも、いいのなら」
「ええ、もちろん」
頬にだけ触れようとしたはずが、身体ごと差しだされて違う意味で困る。預かるにはあまりにも怖すぎるというのに、咄嗟に受け取ってしまったのは反射故か。
言われるまま腕を添え、小さな命を支える。赤の他人というのに泣くこともなく、つぶらな瞳で見上げる存在になんとも言えぬ感情が込み上げる。
伸ばされた手も指も、見えるなにもかもが小さくて。くるまれている布越しでも温かいことにも、その軽さにも、ただひたすらに戸惑う。
ふにゃふにゃで、柔らかい。怪我をさせてしまいそうで怖いのに、抱かれている当の本人は無邪気に笑っているのが余計に恐ろしい。
……だけど、これ以上ないほどに愛らしい。
「……ちっちゃい」
抗議かなんなのか、あぶあぶと呻かれて笑ってしまう。女の子か、男の子か。どちらであれ、元気に育ってもらいたい。
そうして……いつか精霊の加護を賜れるだろう。この子だけの祝福を。この子だけの、人生を。
「あなたたちに精霊の……?」
加護がありますようにと、最後にそう伝えるはずだった口が固まる。
それは母親が遮ったのでも、父親に再び話しかけられたからでもなく。ゼニスが、突然唸り始めたから。
ディアンから向かって背後、海の方向。体勢のせいで振り向くことはできず、ひとまず子どもを返すべきだと母親に腕を伸ばす。
言葉を最後までかけられなかったが、その存在を無事に戻せたことに安心し、ようやく立ち上がる。
ゼニスが怒ることはあっても、こうして態度に表すことは滅多に無い。エルドに対してなら何度か見かけたが、それだって理由あってのこと。
こんな街中で、脈略もなく怒る獣ではない。ならば、なにかしらの原因がある。
……それこそディアン自身に害を成そうとした者を見つけた、とか。
だから、ディアンは振り返ろうとした。振り返り、ゼニスになにがあったか問いかけようと口を開いたはずだった。
それよりも先に複数の足音が響く。重々しい金属音が甲冑の擦れ合うものだとディアンの耳は覚えている。思い出してしまっている。
その合間、埋もれるように聞こえるヒールの音がやたらと大きく聞こえ、心臓が脈打つ。
あり得ない。聞き間違えだ。ここに、いるはずがない。
そんな否定で、振り返る動作が一瞬止まる。だからディアンはその姿を捉えず、後ろに広がる光景を見ることもなく。
それでも、それはそこにいる。見えずとも、確かに存在している。
だからこそ、
「――ディアン!」
それは確かに、彼の名を呼んだのだ。
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