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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第七章 聖国

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179.聖国 オルレーヌ 

本日から新章になります。

物語がようやく収束に向かう章です、大変お待たせ致しました。

 ノースディア王国を発って、もう三日が経過した。

 道中の嵐で大幅に進路が反れたせいで一日余計にかかってしまったが、あれ以降海の精霊の怒りに触れることもなく、ましてや王国側から追っ手が来ることもなく。

 遅れを取り戻すかのように順調に進む船の中。魔力負荷も抜けつつあるディアンは無事に、


「うぇっ……」


 ――未だ、吐き気に悩まされていた。


「大丈夫か?」


 桶に顔を突っ込んで十数分。吐き気こそあるが込み上げるものはなく、背中を優しく撫でられても楽になる気配がないのも変わらず。

 ゼニスも心配そうに見守っているが、見られていると余計に出しにくいというか、そもそも出そうで出ないというか。

 倦怠感と、目眩と、吐き気。精霊の魔力にあてられたせいだと思っていた不調は、あれから良くも悪くもならず。結局、初めての海原を楽しむことなく、寝て起きての繰り返し。


「まだ、負荷が、抜けてないんでしょうか……」


 いつもなら数時間すれば楽になっていたが、それは人間が相手の話。それだけ精霊が与える影響とは凄まじいものなのだろう。

 エルドが守ってくれてこの程度で済んでいるなら、生身で受けていればどうなっていたか。


「いや、それに関してはただの船酔いだな」

「えぇ……」


 苦笑され、同じく笑い返す力はなく。断言されても負荷魔法との区別がつかずに項垂れる。

 こんなにしんどいのに関係ないなんて。これでは船旅の中で襲われても分かりそうにない。

 心なしかゼニスの視線が痛く、ますます顔を上げられずに桶に埋もれても出るのは呻き声ばかり。


「まぁ、体質はしかたないことだ。無理しなきゃすぐ楽に……」

「い、え。大丈夫、です」


 結局こうしていたって出るものもないと、気力で起き上がる身体がすかさず支えられる。

 見上げる蒼は、ディアンの想像と反して不安げなもの。それを視認できたところで、なにかが変わるわけでもなく。


「おいおい、無茶するなって」

「休むなら外ででもできます。それに、いつまでもここにはいられませんから……」


 留まりたい気持ちの方が強いが、それは休みたいからではなく彼との時間を引き延ばしたいが故。

 ここにエルドと二人きりならディアンも甘えたし、体調が悪いことを言い訳にもできた。

 だが、そういかない理由は室外で慌ただしく動き回る船員たちにある。

 扉を開けた途端に入り込む潮風。太陽の光に瞳が慣れれば、眼前に広がるのは色とりどりの屋根と忙しなく動く人々。

 そして、その向こうに見える――巨大な、山。

 自分たちが向かわなければならない目的地を見上げ、吐いた息は喧騒の中へ消える。

 そう、いつまでもここで休んではいられない。もうとっくに船は着いているのだから。

 この場所に。聖国、オルレーヌに。


「おう、もう大丈夫なのか?」


 ディアンたちに気付いた船員に声をかけられ、返事はできずとも頷く。

 その動作もまだ満足にとは言えないが、これ以上ここに残っていては彼らの迷惑になってしまう。


「……あぁ、任務があるので先を急ぐ。満足に礼もできないままですまない」

「お嬢様を助けてくださった恩人の為なら、これぐらいどうってことない」


 途中の嵐は凄まじかったがと笑っているが、本当に彼らには危ない目にあわせてしまった。感謝してもしきれないのは、ディアンの方である。

 いや、彼らだけでなく。船を出してくれたレーヴェン家当主にも、こんなにも慕われているララーシュにも。


「悪いが、ご当主にこれを渡してくれ。今回のことで不当な扱いを受けるようであれば、教会に頼るよう記したものだ」


 差しだしたのは教会で使われている便箋。中には今言った内容が記載されているのだろう。

 自分たちを助けるために無茶をさせてしまった。……ただでさえ一日延びているのだ、戻るまでに事態が悪化している可能性もある。

 何事もないのが一番だが、それはただの希望でしかない。


「確かに預かりました。俺が責任を持って旦那に届けます」

「ありがとう。……あなたがたに、精霊の加護があるように」

「ああ、兄さんらも気を付けて!」


 挨拶を済ませれば、船員は自分の作業に戻っていく。エルドも長引かせることなく足を進め、背中を支えられながらディアンも同じように前へ。

 渡し板から下り、陸に着いてもまだ地面が揺れているようだ。目眩も止まらず、吐き気も若干。だが、これで彼らが王国に戻る邪魔はせずに済む。

 大きく息を吸えば、心なしか冷たい空気が肺を満たす。いや、実際に温度は低い方だろう。

 王国よりも遙か北。凍えるほどではなくとも、温かいとは言い難い。

 もう一度眺めた山の上。その殆どが白く見えるのは、王国では滅多に見ることのない雪が積もっているからだ。

 かつての人々は、そこに精霊が住んでいると信じていた。今は女王陛下の棲まう王宮があるという。

 さすがに肉眼では見えないその場所こそ、エルドが戻らなくてはならない場所。この旅の、終着点。

 辿り着いてしまえば、もう『エルド』と呼ぶことは叶わなくなる。こんな風に触れてもらえることだってなくなってしまう。

 分かっていたはずなのに、胸が締め付けられるかのよう。辛くて、苦しくて。本当は一緒にいたくて。

 ……だけど、


「ほら、休むぞ」

「えっ……あ、」


 上から肩を押されたことで足が止まり、そのまま座り込む。

 お尻を支えたのは地面ではなく椅子で、どこかの店外席と気付いたのは小さなテーブルもあったから。


「だ、大丈夫です。歩けます」

「本当に大丈夫な奴はそんな顔をしない」


 ここまで誘導されるまで気付かなかったくせにと呆れられては返す言葉がない。

 ふくらはぎ側へゼニスが潜り込み、目の前でエルドが屈む。見上げられては無理に立つこともできず、申し訳なさで苦笑すら浮かばない。

 引き止めていることへの罪悪感と、少しでも長く一緒にいれる喜び。複雑な胸中をどうにもできず、ただ俯くばかり。


「……すみません」

「謝るな。ここに来るまでに体力も消耗している。倒れていないだけマシだと思え」


 不調は船酔いでも、削られた体力はそうではないと。見つめる薄紫から滲む心配に微笑みたくとも、うまく唇が動いていくれない。


「急ぐ、のに」

「……これぐらい、今までのを考えれば誤差だろ」


 だから気にするなと、そんなバツの悪そうな顔をされたせいで、ようやく苦笑することができた。

 エヴァドマの時に戻っていたことを考えれば、こんな数分など大したことはないだろうが……それこそ、聞かれていたら怒られそうだ。

 もうすでに近くにいるのではと、見渡した景色に蒼はなく。ついでに、教会らしき建物も視界の中にはない。

 死角にあるのか、あるいは港にはないのか。

 同じ港街でもラミーニアとはやはり構造が異なるらしい。当たり前ではあるが、まだ隣国に来たという実感が湧かないようだ。

 得られるのは……それこそ、あの山に踏み入った時だろうか。


「ああ、そうだ。忘れる前に……」


 跪いたままポケットを探ったかと思えば、握られた手になにかを乗せられる。日の光に反射する光に瞬き、それが石であることを知ったのは固い感触から。

 透き通った濃い橙色。丸いとは言い表せない無骨な形。角こそ加工されているが、装飾品として使うには難のある形状だ。

 先端の一つが金具で固定され、細い鎖で繋がれている。長さからして首飾りだろうが……。


「これは……?」


 指先で石を摘めば、触れた箇所から温かいなにかが流れ込んでくる気がする。いや……紛れもなくこれは、エルドの魔力だ。


「少し遅くなったが、俺からの誕生祝いだ。まぁ……初めてにしちゃうまくできてる方だろ?」

「初めてって……エルドが、これを?」

「その石を装飾品に使うことは滅多にないからな。探すより作った方が早かったんだよ」


 転がすごとに煌めく橙色。よく見れば、中には泡のような物が入っている。亀裂らしき線も見られるが、十分美しい部類だ。

 これで宝石ではないと言われても、にわかには信じがたい。


「こんなに綺麗なのに……」

「そいつは樹脂が何百年という月日を重ねて固まったものだ。質がいいものなら、魔法具の核として使われるものもある。そっちの用途の方が多くて、装飾品としては市販に出回ってないだけだ」


 石は立ち上がったエルドの元に。それから背後に回り、ディアンの首へ。

 吊り下げられた重みは軽く、意識しなければつけているのを忘れるほど。

 普段アクセサリーをつけないので今は違和感が勝っているが、じきに馴染んでしまうのだろう。

 ……そう考えている時点で外す気がないと自覚してしまう。


「見た目の違いこそないが、魔法具の核としては最上品だ。さすがレーヴェン商会といったところか」

「もしかして、あの時奥方から受け取ったのって……」

「それだ。できあがるまで時間がかかるし、人伝に渡そうと思っていたが……間に合って良かった」


 受け取ったのが出発する直前。三日間はディアンのそばにずっといたし、道具なんてそれこそどこにあったのか。

 一体いつ作業したかわからないが、伝わってくる魔力からも嘘ではないはず。


「他の物だと魔術に耐えられずに割れる可能性があったからな。守りと、それからちょっとしたまじないをかけておいた。お前が自力で対処できなくても、ある程度なら守ってくれるだろう」


 握ってみろ、と言われて圧をくわえれば、先ほどよりも強い魔力を感じる。流れ込む温かい感覚は、負荷魔法で苦しんでいる時にエルドがしてくれるのと同じ感覚。

 ある程度、がどこまでかは分からない。だが、これほどまでに頼りになる物があるだろうか。


「こんないい物、頂けません。それに誕生日はもう過ぎてますよ」


 ……問題は、それを素直に受け取るわけにはいかないということ。

 誕生日は言い訳だが、当日であっても素直に頷けなかっただろう。

 あの時の会話を思い出せば、相当値の張る物と推測できる。

 エルドの魔術に耐えられる程の高品質なら、それこそ想像もつかない金額になるだろう。

 それを、ただ一人の人間を守るための装飾具として使うなんて贅沢にも程がある。

 もらえて嬉しいのに、どうしたって複雑。


「十一ヶ月以上先のプレゼントより、一ヶ月前のプレゼントの方がいいだろ」

「それはそうですけど……でも……」

「……ディアン」


 最後の声は、囁くように。ディアンだけに聞こえるように。もう偽名で呼ぶ必要もないのかと、そんな浮かんだ思考を否定するように。

 眉を寄せ、なにかに耐えるような薄紫はじっとディアンを見上げる。見つめ、貫く。


「もらってくれ。……頼む」


 自分にはこれが精一杯なのだと。これしか贈れないのだと。どうか、拒絶しないでくれと。

 手が跳ねたのはディアンの方か。それとも、そう請うた男だったのか。

 胸の奥が、ぎゅうと狭まる。喜びと、切なさと……未来を示唆する言葉に滲む、苦しさに。

 誤魔化すように握り締めた石はやはり温かく、優しく。それが無性に、悲しくて。


「……ありがとう、ございます」


 出した声は震えていなかっただろうか。ちゃんと笑えていただろうか。

 いや、笑うエルドの顔を見れば。見上げる瞳の色を見れば、下手くそであったのは確かめるまでもなく。

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